第二十八話 旅商人再び
◆◇◆◇◆
「それでね……やっぱりおかしいと思うの! 今まであの人が夕食の時間ぎりぎりまで帰ってこないなんてこと、めったになかったのよ。お酒だって飲まないし、浮いた噂もなかったし……」
昼間は露店で果物を売る女の必死の訴えを、エディットに扮したエリザベスは商売道具の帳面をめくりながら、ふんふんと聞いていた。
靴工房で働く亭主がここのところ連日遅くまで帰ってこない。「今日は酒場で友人と話し込んでいた」と言い訳をすることもあれば、一度など女がつける香水のような匂いをさせて帰ったこともあった。とにかく様子がおかしい、と言うのだ。
「これってやっぱり浮気じゃないの? ほら、髪結い屋のローズさんのところみたいに……あれもエディットさんが突き止めたんでしょう?」
「そうだけどねぇ。あんたの夫は違うと思うよ。不誠実な奴じゃないさ」
「でも、おかしいんだもの! 問い詰めたらオドオドして『本当に何もないから』っていうのよ」
「ふーん、じゃあこうするのはどうだい? 今夜はわざとニコニコして『あなた、愛してるわ。たとえあなたが私に隠し事をしていても』って言ってみるのさ」
「え?」
「あんたの夫には問い詰めるより愛を持って寄り添う方が効果的だよ。もしあんたに対して秘密を持っていたなら、罪悪感でいたたまれなくなって本当のことを言うだろうからね」
「そういうものかしら?」
「おや、このエディットの言う事を疑うのかい?」
「いいえそんなこと!……そうよね、確かにその方法は試したことがなかったもの。ありがとう、エディットさん」
女は考え直し、アドバイスを受け入れた。そして気まずそうに上目遣いで言う。
「……ごめんなさい、今日はちょっとここで買うものがなくて……相談料はこれで」
露店の売れ残りと思われるリンゴを四個、遠慮がちに差し出す。
「おお、これはこれは。しかしこの老いぼれの歯には太刀打ちできそうにないねぇ。でもありがたくいただくよ」
「ありがとう、また来るわね!」
女が店を出て行くと、エリザベスは改めて帳面に目を落とす。そこにはハンクの下に付いている孤児たちが集めた情報が記されていた。
ここ数日、女の夫が下町の雑貨屋や、アクセサリーの露店をあちこち覗いては悩みながら買わずに帰ることを繰り返していたらしい……時には露店の女性をプレゼントの相手に見立ててアクセサリーをつけてみたり、友人らしき男を引っ張ってきて一緒に考えていたことも。
「こいつ、もうすぐ奥さんと結婚してまる三年だから、記念に何かを贈りたいって張り切ってるんですよ! その為にいつもより仕事を増やして遅くまで働いてるもんな!」
友人が楽しそうに大声でそう言い、横で男が恥ずかしそうにしていたと、孤児たちはハンクに情報として伝えていたのだ。
「ハンク、これは情報の報酬だよ」
店の奥に声をかけると少年がすっと現れる。エディットはりんごを彼に四つとも渡した。
「……いいの?」
「もちろんさ。みんなでお食べ。今日はもう帰っていいからね」
「……ありがと」
それだけ言うと彼はまたすっと下がり、店の裏口から出て行った。エディットはふふっと笑む。
(私にお礼を言うなんて、随分と丸くなったわねぇ)
貧民窟出身のハンクが本物のエディットに拾われた頃は、貴族階級への偏見と憎しみをつのらせていたそうだ。自分たちが今日食べるものにも困っているのは貴族が搾取するせいだ、と思っていたから。
もちろんそういう貴族がいるのも否定はしないが、メイサの街は貧民救済院も作られているし、他の街に比べればスラムの規模もずっと小さい。孤児たちを貧困に堕としているのは彼らを捨てた親や、何も知らない子供を利用しては使い捨てる、もっと悪い大人たちのせいである。
エディットはハンクを下働きとして雇い、情報収集を兼ねて街の様子を見せ、領主がどう治めているのかを教えた。そして元貴族令嬢のエリザベスが彼に二年間根気よく向き合ってきたお陰で、今の彼の認識は「貴族の中にも良い奴と悪い奴がいる」という方向へ変化しているようだ。
コココ、コン!
彼女の物思いは特徴的なノックの音で断ち切られた。エリザベスはニヤリとする。
少しの間を置いてから重めの扉がギィと軋む音を立てて開いた。そこに入ってきたのは旅商人姿の男。
「やあ、こんにちはエディットさん」
「はい、こんにちは。コゼット伯爵様」
「え、ちょっと……!?」
アーノルドは慌てて店の奥の方に目をやる。
してやったり。エリザベスは初めて彼のぎょっとする顔を見ることができてほくそ笑んだ。
「大丈夫、今日は早めに帰らせたから」
あの子爵邸でのパーティから五日が経っていた。そろそろアーノルドが来る頃合いだと思って、彼女はハンクをわざと帰していたのだ。
エディットはアーノルドに、ハンクが貴族を憎んでいることを伝え、一方で少年には怪しい旅商人の正体を伏せていたに違いない。いくら丸くなったと言えどコゼット伯爵家の人間が相手では、ハンクもドス黒い気持ちを抑えられないかもしれないから。
(ま、そのことを抜きにしても、あの子はこの人を信用していなかったわけだけど)
そう思いながら、目の前の男を眺めていると彼は「まったく、ひとが悪いなぁ」と、くしゃりと笑んだ。小汚い格好をしていても整った顔立ちの笑顔は好感を持てるものだ。だからこそ、信用ならない。




