第二十五話 不誠実な男
夫人が大広間で取り乱し、泣き崩れた時に呟いた「一番大事なものが壊され、盗まれた」という言葉。それが指しているのは家宝のルビーでも、エリザベスがでっち上げた宝石箱の鍵の話でもない。
このメルトバレー子爵邸の事だったのだ。ここだけは愛人に侵されることのない、彼女と夫の楽園だと信じていた。だからその楽園の庭で子爵とサラが口づけをしているのを見た時、夫人はどうしても平常心では居られなかった。
待機室に充満した陰鬱な空気を、静かにエリザベスの声が割る。
「奥様。私のような若輩者が口を出すのは憚られるのですが……少し、よろしいでしょうか」
「なんでしょう?」
エリザベスは横のアーノルドを見る。先ほど大広間で半ば強引に「貴方の婚約者がお節介なのには目をつぶれ」と言ってあったので了承を取る必要はなかったが、あまりぞんざいな扱いをすると偽の婚約者であることがバレかねないからだ。彼は微笑んで軽く頷く。それを受けて彼女は話を続けた。
「私、今までいろんな夫婦や恋人のお話を聞いてきましたの。それで思ったことがあるのです。世の中には二種類の男性がいると」
「二種類?」
「ええ、不誠実な方と、そうでない方です」
「……?」
待機室の中が微妙な空気になったが、エリザベスは気にしない。
「妙な言い方ですよね。『誠実』と言い切らずに『そうでない方』と言うのは。でもこれには理由がございまして、不誠実でない方も道を誤れば不誠実に転がることがありますが、その逆は見たことがないのです」
「主人は、不誠実だと」
「ええ。子爵様が誠実な方に転がることは無いと思ったほうがいいでしょう」
あの、髪結い屋のローズの夫が不誠実だったように。男の不誠実さは庶民でも貴族でも大して変わらないのだ。
「不誠実な男性というものは自分に尽くしてくれる女性が現れると、同じだけ尽くし返そうとは思わないのです。『しめしめ、これで自分は安泰だから他にも手を出す余裕ができた』と思いはじめます」
子爵夫人の目が丸くなり、揺れる。
「奥様が家を守り、家業を盛り立てて尽くせば尽くすほど子爵様は外に目を向けます。今まで家に他の女性を入れなかったのは子爵様なりの誠実さではありません。そうしなくても良かったからです」
「え……?」
「先ほど奥様自身で仰っていましたね。子爵様は細かいことが苦手で、人を使うことも向いていない、と。家の中に愛人を連れ込めばトラブルになるのは明白です。別れるつもりのない妻と、妻の座が欲しい愛人の戦いを仲裁したり、両方の機嫌を取ったりするのは細かい気を使うことになります」
夫人は目を見開いたまま、喘ぐように呟いた。
「では、今までは……」
「奥様を大事に想っていたからではなく、自分が面倒なことから逃げるためです。だから長続きしそうにない女性ばかり選んで遊び、面倒になれば小さい宝石を与えて相手から愛想をつかすように仕向けていたのでしょう。けれど、とうとう選り好みできなくなってきた……」
若い頃は女性が群がり、夫人が誠心誠意尽くすほど虜にしてきたメルトバレー子爵の容姿は、四十を超えてすっかり衰えた。髪は薄くなり、皺は増え、垂れたまぶたと脂ぎった肌は、元来の好色さと不誠実さを包み隠せなくなったのだ。
そして彼が子爵家の正統後継者でありながら宝石産業に関わっていないのは調べればわかることである。……積極的に調べなければ、そういった噂が密かに流れているとわからないのだが。なにせ夫人はいつも慎ましく、社交界では自分が前に出ることもなく、常に夫を立てていたから。
しかし、子爵の正体がわかっていてもなお、老いた彼と遊びの恋愛をしようなどと考える若く美しい女性が居るだろうか?
いや、いない。残っていたのは子爵家の実情を調べることもせず、自分が夫人を蹴落としてその座につけば働かなくても宝石と金が手に入る、と愚かにも考えて彼に近づいた若い女……おまけに彼女を心配して「子爵様の噂を知らないの?」と苦言を呈してくれる友達も居ない(彼女の待機室での失礼な発言を考えれば人望の無さがよくわかる!)、哀れなブルネットの女だけだ。
「選り好み?」
横からアーノルドの、苦笑まじりの声が聞こえてエリザベスはハッと気がつき、慌てて咳払いをする。
しまった。この二年間、小間物屋でエディットの弟子として街の女たちと話をすることも多かったため、ついついそのノリで貴族らしからぬ言葉を使ってしまった。
「こほん。……失礼いたしました。子爵様は相手を選べなくなったのです。色味が良くないとは言え大きな宝石を贈ったりパーティに招待したりしたのも、お相手の方を特別愛していたからではないと思います。多分、強請られたのでしょうね。断れば二人の関係は清いままで終わりだとでも言われたのかもしれません」
「……」
再びメルトバレー子爵夫人は俯いた。ギュッと握った拳に、義理の娘が心配そうに手を添えると夫人は「ありがとう、大丈夫」と小さく返事をした。そして。
「私、主人をわかっていたつもりで何にもわかっていなかったのね。あの人と女性たちとの縁が無くなれば、いつか私だけを見てくれると思っていました……でも間違いだった」
「ええ、歳をとったところで不誠実な男性の本質は変わりません。奥様の愛を安全地帯にして、安心してまた飛び去ってしまう蝶のままですわ」
「私には、どれだけ努力してもその蝶を捕まえるだけの魅力がなかったのね」
「それは違います」
「……え?」
夫人はエリザベスの言葉に思わず顔を上げた。濡れた頬を隠しもせず。
「私は不誠実な男が誠実なほうに転ぶことはない、と言いましたが、そう見えることはあるのです」
「見える?」
「ええ、男性が安全地帯を持たない場合……つまり、妻が逃げてしまうかもしれないと不安な場合は、妻を繋ぎ止めようと必死になります。浮気をしている場合ではありませんから、一途で誠実になったように見えるのです」
現に、ローズが夫に別れを告げた時。「浮気は未遂だったから」と夫はみっともなく泣き喚いたらしい。ローズはそれを見て益々気持ちが覚めたようだったが。
子爵夫人は信じられないと言った表情で訊いてきた。
「私に、全てを捨てて主人から逃げろと?」




