第二十話 お節介には目をつぶれ
直後、エリザベスの行動は早かった。自分がここに居ては話がややこしくなるからだ。
夫人が右向きに(エリザベスから見て左方向に)移動したという事は、おそらく大広間の掃き出し窓から庭に出るのだろうと判断した。すぐさま踵を返し待機室へ向かって走る。行きとは違い、待機室の窓を勢いよく開け中に飛び込んだ。カシャン、とガラスと木枠の揺れる音が鳴る。
「誰だ!?」
背後でメルトバレー子爵の大声が聞こえた。続いて「あっ!?」という悲鳴に近いサラの声が聞こえたような気がしたが、構う暇もない。
(左、前、どっち!?)
ここから大広間に直接行くのは悪手。扉の向こうで誰の目があるかわからないからだ。エリザベスは待機室を突っ切り、正面の片扉から出て玄関ホールに戻る。先ほどと寸分変わらぬ位置に執事が立っていた。
「お客様、お戻りですね」
「……」
心臓がどくどくと早鐘を打ち息が弾む。しかしその息を無理やりに呑みこみ、エリザベスは無言で首を縦に振った。
ドレスの裾に芝がついていないか心配だったが、足元を見ればそれこそ執事の目も下に引き寄せられ、庭にいたのがバレてしまうかもしれない。背中に汗が滴るのが自分でもわかった。
しかし危機一髪。待機室の方から先ほど彼女が立てた音とは比べ物にならないほどの激しさで窓のガシャン! と鳴る音と「きゃぁっ」という声が聞こえ、執事の注意が逸らされた。彼はエリザベスのために大広間への扉を開けてくれはしたが、彼女が中へ入るか入らないかのところで仕事を打ち切り、待機室に小走りで向かっていった。
息を整えた彼女はぐるりと大広間の中を見渡す。彼女がたった今ここに戻ってきたことは、他の誰にも気がつかれずにすんだようである。そこに居た人達の目は、皆広間の左半分に釘付けになっていたからだ。
開け放たれた掃き出し窓から半分くらい外に出ている人もいれば、その隣の、先ほどまでメルトバレー子爵夫人が佇んでいた嵌め殺しの窓から外を見る人もいる。そして多くの人は待機室の両扉に注目していた。先ほどの声が扉越しに大広間でも聞こえていたのだろう。
その注目を集める真っ只中に。両扉が人ひとり分開けられ、押し出されるようにクリーム色のドレスが現れる。サラ・デッドリィ男爵令嬢の背後で扉は意思を持っているかのごとく勝手に閉められた。
サラは真っ白な顔でハアハアと息が荒い。口に引いた真っ赤な紅が落ちているが、それでも若さに満ちた鮮やかな唇の色がぬらぬらと光り、目立っていた。
この場に居た皆が、彼女の異様な佇まいに戸惑いを感じていてなんと言おうものかと迷い始めた頃。
ガシャン!
扉の向こうからまた騒がしい音が聴こえる。サラが白い顔を今度は青くしてビクリと身をすくめた。ガシャ、ガシャ! と続いているが「お待ちください!」と少し慌てたような執事の声が聞こえると音は止んだ。
男爵令嬢はそそくさと扉の前から離れる。彼女を目で追っていたエリザベスは、自分のすぐ真横に誰かが立つまで気づけなかった。
「どこに行ってた?」
声をひそめ、アーノルドが訊いてくる。
「……ちょっとお化粧を直しに」
エリザベスの答えに彼はちょっとだけ眉根を寄せる。だがそんなことより目の前の騒ぎの方が重大だと思ったのだろう。それ以上は追及しなかった。
今、パーティ会場は浜辺の波音のようなざわめきが緩やかに広がっている。
当然だ。パーティのホストである子爵はどこかへ消え失せ、残された夫人は掃き出し窓から突然庭へ飛び出していった。入れ替わりに大広間へ飛び込んできた若い女はただならぬ様子である。これをどう解釈すべきか――もっとも下世話な話から、もっとも平和的な話まで、解釈は無限にある。
賓客たちはサラを横目で見つつ、囁き声でそれぞれの考えを披露し合っているのだ。
そして話し合いの時間は終わる。再び待機室の扉が開く様子に、皆がハッと口を噤んだからだ。裁判官の木槌のような鋭い音ではないが、重苦しいギィという音が妙にパーティ会場に響く。
執事の手によって開けられた扉の向こうは、薄暗い部屋である。その薄闇に髪やドレスの輪郭を溶かしていた女性が一本踏み出しこちらに歩み寄ると、大広間の光を受けて青白い顔がはっきりと現れた。
彼女が身に着けている宝石がギラギラと輝いていて、かえって妙な悲壮感を醸し出し、舞台の一幕のようである。
エリザベスは思わず息を呑んだ。周りの人間だってきっとそうだろう。誰一人声を出さない……出せないのだ。
喩えるならばそれは『死者の行進』。
メルトバレー子爵夫人は青白い顔の表情を一切変えることなく、豪奢な装飾品を身に着け腹の前で手を組み、背をまっすぐに伸ばして一歩一歩足を進めている。
既にこの世のものでない女が、死してなお威厳と矜持を失わず、この後悲劇的なオペラを滔々と歌い上げる……そんな演出を彷彿とさせるほどだった。
「皆様、お騒がせいたしました……」
と、口を開いた彼女の視線が急に揺れる。会場の隅にいる淡いクリーム色のドレスを見たからだろうか。
「あ、あぁ、もう……」
威厳と矜持が、そしてシャンとした姿勢が一気に崩れた。
「奥様!」
「夫人!」
何人かが駆け寄って支えたお陰で倒れずにすんたが、彼女はぐにゃりとしたままだった。そしてあっという間に二つの瞳から透明な液体が溢れ、頬を濡らす。
「もう終わりだわ……」
夫人は意図していなかったろうが、その姿の憐れさと相まって、舞台は続いているかのように見えた。
「終わり……一番大事に、最後まで、守っていたものが……壊されて盗まれたのだから……う、うぅ……」
その後はただ、嗚咽が続く。
エリザベスは胸を痛めながらその様子を見ていたが、ハッと気がついた。改めて振り向くが、やはり自分の後ろ……つまり正面出口からは誰も入ってきていない。
あの最低な子爵は逃げるか隠れるかをしたのだ。サラを生贄に差し出し、夫人を置き去りにし、今頃は口周りについた紅をのんびりと落としている事だろう。
メルトバレー子爵への怒りを感じ、それを動力にして彼女の頭に血が巡る。
エリザベスの頭に、一か八かのアイデアが閃いた。すぐさま声をひそめて隣の男性に問う。
「アーノルド様」
「なんだい」
「貴方様は男色家だという噂を否定する為に、私をお雇いになったのでしょう?」
彼は一瞬ぽかんと口を空けたが、すぐに気を取り直した。美しい榛色の瞳がキラリと光る。
「その通りだが、何故、今それを聞く?」
「では、貴方様の婚約者が少々お節介であることには目をつぶってください。男色家よりはましなはずです」
「な……?」
エリザベスはアーノルドの返事を待たなかった。ぐい、と彼の袖を両手で引く。そして……




