98. 着ぐるみの誘惑と、アムニット劇院と、眠れる観客たち
「衛生面もご心配なく、ほつれや穴もしっかり直してありますので」
—— そんな余計なお断り文句は必要ない。
見れば一目でわかる。
俺はその古着屋について、すでに好印象を持っていた。
チャーリーに引っ張られるまま、俺たちは店の中へと入った。
店内はそれほど広くはない。けれど、きちんと片付いていた。
コート、スカート、ワンピース —— 品物が種類別、サイズ別にきっちりと並べられている。眺めているだけで目が忙しい。
俺はふと手が伸びて、傍にかかっていた外套を一枚手に取った。
生地を指でつまんで、軽く揉む。
上等ではない。でも、柔らかい。においもない。清潔だ。
縫い直しの跡を見つけたが —— よほど近づかないとわからない。丁寧な仕事だ。
(はっきり言って、値段のわりにこれは悪くない。)
この古着屋の服は、オーダーメイドと比べてそこまで安いわけではない。
でも、メリットは大きい。
欲しいものが、その日のうちに持ち帰れる。
オーダーメイドの面倒くささといったら —— 仕立屋に行って、採寸して、生地を選んで、出来上がりを待つだけで、混んでいれば一ヶ月近くかかることもある。
その点、この店なら「気に入ったら買う、すぐ帰る」が成立する。
便利、の一言に尽きる。
そんなことをぼんやり考えながら、俺は店内をゆっくりと歩き回った。
視線が無意識に流れて ——
コーナーの棚に並んだ一列のぬいぐるみ風パーカーが目に入った瞬間、足が止まった。
ピンク色のうさぎパーカー。
黄色の子犬パーカー。
(…… この世界に、こういうデザインが、ある?)
俺は思わず目を見開いた。
パーカーの衿元に、柔らかな耳が二本ついている。
兎のほうは長くて、先端にふわふわの毛が縫い付けてあった。子犬のほうは丸くて短くて、丸っこい。
俺はゆっくり歩み寄った。
指先を伸ばして、兎耳に軽く触れる。
—— 柔らかい。
(中世の仕立屋さんが、こんなの作るの?)
俺の頭の中にあった「中世」のイメージが、音を立てて崩れた。
どこか薄暗くて、無彩色で、毎日単調に祈りを繰り返す —— そういう世界。
なのに目の前には、ピンクの兎と黄色い子犬が、棚の上でこちらを見ている。
(…… 可愛い。)
素直にそう思った。
前世は三十年間、男として生きていた。
でも、可愛いものを好む気持ちは、ずっと心の奥にあった。
人に言うのは恥ずかしくて、うまく言語化もできなかったけれど。
ぬいぐるみとか、丸っこいデザインとか、見るとなんとなくほっとする感覚がずっとあった。
だから、今。
この黄色の子犬パーカーを手に取って、体に当ててみた瞬間 ——
(ちょうどいい。着たら絶対に可愛い。)
俺はしばらく、それを眺めていた。
夢中になりすぎていて、ユーナがいつの間にか隣に来ていたことに、まったく気づかなかった。
ユーナは俺を見ていた。
穏やかな顔で。目に、溺愛の色を浮かべながら。
俺の表情を、全部見ていた。
でも、何も言わなかった。
ただ、そっと踵を返して、店主のほうへ歩いていって —— 小声で何か話した。
銀貨を取り出して渡した。
俺が気づいたのは、ユーナが小さな布袋を二つ手に持って、こちらへ戻ってきたときだった。
「お嬢様、喜んでいらっしゃるようだったので、お買いしておきました」
俺は一瞬、固まった。
それから —— ぱっと顔が明るくなった。
「え、本当に?ユーナ、ありがとう!」
ユーナは小さく頷いて、黄色の布袋を俺に差し出した。自分はピンクのほうを持っている。
「お気になさらず、お嬢様」
その笑顔が、なんとも言えずやさしかった。
その後も、しばらく店の中を回った。
チャーリーとニーナも、それぞれ気に入った服を一着ずつ選んで、ちゃんと代金を払った。
会計を済ませて、四人で古着屋を出た。
外に出たとき —— 気がつけば、すっかり夜になっていた。
商業通りの灯りが一斉に点灯していた。
温かみのある橙色の光が、石畳の上に揺れている。
夜風が頬に当たった。昼間より少し冷えていて、歩いていると心地いい。
「ねえ、劇院に行かない?」
チャーリーが立ち止まった。
目が輝いている。思いついたという顔だ。
「たしか今、新しい演目が始まったはずで —— 私、ずっと劇場って行ってみたかったんだけど!」
ニーナも即座に反応した。
「賛成!私も行ったことないから、一度見てみたい!」
ユーナも俺のほうへ顔を向けた。
「お嬢様、せっかくですし、行ってみましょうか。急いで帰る必要もないですし」
三対一だ。
俺は小さく息を吐いた。
(行きたくない。)
本音を言えば、それだけだ。
前世でも一度だけ、友人に誘われて観劇に付き合ったことがある。
舞台の上で役者たちが何かをしていた。笑ったり、泣いたり、激しく動き回ったりしていた。
隣の友人は爆笑したり、こっそり涙を拭いたりしていた。
俺は —— 座席の前の番号プレートを、ずっと眺めていた。
(台詞の意味が、まるでわからなかった。感情の波に、まったく乗れなかった。)
あのときの、あの居心地の悪さ。周囲だけが感動していて、自分だけが取り残されているような、浮いているような、あの感覚。
自分が致命的に「芸術」というものに向いていないのだと、そのとき痛感した。
以来、観劇の誘いはすべて断ってきた。
「戯曲」という単語を聞くだけで、あの茫然とした夜が蘇る。
—— でも。
チャーリーもニーナも、目をきらきらさせていた。
「初めて行く」という期待が、顔いっぱいにある。
ユーナも、柔らかく俺を見ている。
(三対一、か。多数決には逆らえない、ってことだ。)
俺は軽くため息をついて、口元に薄い笑みを作った。
「うん、行こうか。私も久しぶりだし」
三人が一斉に笑顔になった。
チャーリーが俺の手を取って、駆け出した。
「やった!行こ行こ!」
劇院の前には、大きな提灯が吊るされていた。
「アムニット劇院」—— 看板に、その名が書かれている。
入口には列ができていた。同い年くらいの若者が多い。カップルの姿もちらほら見える。
なかなかの人気らしい。
俺たちは列に並んで、四枚の連席チケットを買った。
この世界の劇院には、ポップコーンや飲み物の売店もない。
(まあ、そもそも観劇中に飲食する習慣自体、そういう「雅な芸術」には馴染まないか。)
余計なことを考えながら、俺はチャーリーたちに続いて劇院の中に入った。
内部は広かった。
木製の座席が整然と並んでいる。磨き込まれていて、艶がある。
席と席の間隔も十分だ。窮屈ではない。
俺たちはチケットの番号に従って、中ほどの連席に腰を下ろした。
視界が良好だ。舞台がよく見える。
(ここだけは文句がない。)
チャーリーとニーナは落ち着きなく周囲を見回していた。目がきらきらしている。
ユーナは俺の隣に腰を落ち着けて、そっと身を寄せた。梅の花の香りが、ふわりと漂った。
やがて、場内の灯りが落ちた。
ざわめきが消えた。
静寂。
緞帳がゆっくりと上がった。
舞台に光が当たった。
演目が始まった。
—— やはり、つまらなかった。
台詞がない。
無言劇だった。
役者たちが豪華な衣装をまとって、台上でおおげさな身振り手振りを繰り返している。
表情が豊かで、動きが大きくて、きっと何かを伝えようとしているのだろうけれど ——
(何を表現しているのか、まったくわからない。)
俺は正直に認めた。
あのタイプの演技を読み解く素養が、自分にはない。記号の文法を、俺は習得していない。
晦渋だ。
(眠い。)
欠伸が出そうになった。唇を引き結んで、何とか堪えた。
目が重い。
でも —— 幼い頃から叩き込まれた礼儀作法の訓練が、ここで効いた。
俺は姿勢を崩さなかった。目を閉じなかった。
意識の大半は眠りの縁に漂っていたが、体だけはちゃんと前を向いていた。
(これが貴族教育というものか……。)
ふと視線を横にやった。
チャーリーが眠っていた。
がくん、がくん —— 首が前後に揺れている。眉が少し寄っている。口元がわずかに開いていた。
ニーナもだ。
目がしっかり閉じていた。均一な呼吸をしている。微かな寝息が聞こえる。
二人とも、完全に陥落している。
(…… そうだよな。)
俺は苦笑いをこらえた。
ユーナも、いつの間にか俺の肩に頭を預けていた。
長い睫毛が伏せられている。影が頬に落ちている。呼吸が静かで、穏やかで、完全に眠っていた。
(全滅だ。)
俺は周囲を見回した。
チャーリーたちだけじゃない。
あちこちの席で、体が傾いていた。椅子の上で静かに沈み込んでいる人が何人もいた。
一人、かすかな鼾まで聞こえてきた。
(こんな光景、どこの劇院でも見られないんじゃないか……。)
俺は 深く 息を吸った。
視線を舞台に戻した。
役者はまだ懸命に動いていた。
(ごめんなさい、あなたたちは悪くないんです。私が読み取れないだけです。)
心の中で静かに謝罪した。
それから —— 長かった。
本当に長かった。
俺は礼儀作法の鍛錬が生んだ鋼の精神力だけを盾にして、最後まで目を開け続けた。
緞帳が下りた。
場内に灯りが戻った。
観客席がざわざわと目覚め始めた。
あちこちで人が伸びをして、目をこすって、あくびをして ——「終わった?」「もう終わり?」という声が飛び交う。
俺はユーナの肩をそっと揺らした。
「ユーナ。終わったよ」
ユーナがゆっくりと目を開けた。
しばらくぼんやりとしていた。俺を見て、舞台を見て、数秒かけて状況を整理した。
「…… お嬢様、申し訳ありません。眠ってしまいました」
その声に、まだ寝惚けた滑らかさが残っている。
俺は首を横に振った。「気にしないで」
チャーリーとニーナも揺り起こした。
チャーリーは目をごしごしこすりながら、あくびをひとつ。
「終わった?なんか、気づいたら寝てた…… 演目、なんだったっけ……」
ニーナも同じくぼんやりした顔で首を振る。「私も寝てた。見逃したかな…… もったいなかった」
俺はゆっくりと立ち上がって、腰を伸ばした。
「まあ、正直そんなに惜しくはないよ。私が言うのもなんだけど。—— ご飯食べて帰ろう。みんな疲れたでしょ」
三人とも、反論しなかった。
劇院を出て、近くの小さな食堂に入った。
品数は多くない。家庭料理が数品。
俺たちはそれぞれ適当に頼んで、黙々と食べた。
ゆっくり食べる体力も残っていなかった。
食べ終えて、外に出た。
チャーリーとニーナは同じ方向だった。
「ケーシー、ユーナさん、気をつけて帰ってね!今日楽しかった!」
チャーリーが手を振った。ニーナもそれに続く。
「また遊ぼうね。今日、ありがとう」
二人の足音が遠ざかっていった。
俺とユーナは反対方向へ歩き出した。
夜の石畳は静かで、足音だけが響く。
ユーナはまだ少しだるそうで、歩きながら時々あくびをした。
俺もそうだ。
頭が重い。あの無言劇を最後まで見届けた疲弊が、今さらじわじわと来ている。両手を上げる気力もない。
部屋に着いた。
着替える気力もなかった。
俺はそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
顔が枕に触れた瞬間 —— 意識が消えた。
ユーナが部屋に入ると、クローディアはもう眠っていた。
衣服のまま、枕に顔を埋めて、均一な呼吸をしている。
ユーナは口元を柔らかくほどいた。
静かにベッドに近づいた。
掛け布団を引き出して、そっとクローディアの体に掛ける。
顔に垂れかかった白金の長い髪を、指先でそっと払い除けた。
乱れた髪を、丁寧に整えた。
それだけして —— ユーナは踵を返した。
扉を閉める音が、かすかに響いた。
部屋に静寂が戻った。




