99. 密使とブリオン城の嵐
窓の外から差し込む朝日が、クローディアを目覚めさせた。
昨夜の衣服を着たまま、枕の上に髪を乱して眠っている。
部屋には、俺とユーナの穏やかな呼吸音だけが響いていた。窓の外で啼く小鳥の声さえ、やけに柔らかく聞こえる。
俺は体を支えてゆっくりと起き上がった。
こめかみを指先でそっと揉んだ。
(…… 昨夜の無言劇の記憶が、まだ頭の中をぐるぐると巡っている。)
台詞もない、感情の起伏もない、あんな演目になんの意味があるというのだ。
「高雅な娯楽」だなんて、誰が言い出したのか。
ユーナが俺のわずかな動きに気づいて、目を覚ました。
ピンクの髪が頬に張り付いている。
梅の花の淡い香りが、彼女の動きに合わせてふわりと広がった。
ユーナはぼんやりと目を開けた。
俺がもう起き上がっているのを見て —— 瞬間、眠気を封じ込めた。
いつもの冷静な、でもどこかいたずらっぽい表情に戻る。
声をひそめて、低く笑った。
「お嬢様、昨夜はご苦労様でした。あの劇、最後まで見届けられたのですから」
「……」
「帰ってきてから、そのまま倒れ込んで。掛け布団も掛けずに」
俺は頬がわずかに熱くなるのを感じた。
そっぽを向いた。
「…… ユーナが私の肩で隅から隅まで眠り込んだからだろう。放り出すわけにもいかないし」
ユーナの目の端が、さらに深く曲がった。
でも、これ以上からかうことはせず —— ゆっくりと起き上がると、俺の後ろに回った。
手に櫛を持って、俺の乱れた長い髪をそっと梳き始める。
指先が髪を通り抜けるたびに、安心するような温もりが伝わってくる。
—— コンコン、と。
ドアが叩かれた。
リズムが整っている。沈着冷静な叩き方だ。
俺はわずかに呼吸を止めた。
ユーナに目配せして、ドアへ向かわせた。
ドアの向こうにいたのは、公爵邸から派遣されてきた密使だった。
目立たない灰色の衣裳。顔立ちも平凡で、人混みに紛れ込めば二度と見つからないような男だ。
彼は両手で、しっかりと封をした手紙を差し出した。
封蠟の上に —— エリクセン家の家紋が刻まれている。
(…… っ)
俺の胸がわずかに跳ねた。
父、アルフレッド・エリクセンは、常に沈着で節度がある人物だ。
用もないのに、夜明け前に密使を寄越すような真似はしない。
—— よほどの急事だ。それも、常軌を逸するほどだ。
俺は手紙を受け取って、密使に下がるよう目配せした。
それから、ゆっくりと封を切った。
行には、無駄な挨拶が一切なかった。
沈着で、力強い筆致。
用件だけが、ずばりと書かれている。
『すべての用務を中絶し、直ちに公爵邸へ戻ること。』
今日は、アムニット学院で予定された講義があった。
だが、父からのこの密信と比べれば —— 釣り合いが取れるはずもない。
俺は内容を簡潔にユーナに伝えた。
ユーナは一瞬も迷わなかった。
即座に部屋の片付けに取り掛かり、持ち出すべき品物を点検し始める。
わずか五分で、すべての準備が整った。
俺たちは、あらかじめ用意されていた馬車に乗り込んだ。
車輪が鳴り、アムニット城を後にする。
時間を節約するため、馬車には加速魔導器が作動していた。
—— 一時間も満たないうちに、馬車はエリクセン公爵邸の正門の前に穏やかに停まった。
メイドの案内で、俺とユーナは長廊下と中庭を抜けて、公爵の執務室へと直行した。
ドアをくぐった瞬間 —— 父、アルフレッドがすでに机の傍らに立って待っていた。
表情は厳粛で、かなりの時間待機していたことが窺える。
「娘よ。事態が急を要するゆえ、前置きは省く」
公爵が口を開いた。
沈着な声音。飾り気がない。
俺は軽く頷いた。
(聞く準備はできている。)
「お前に頼みたいことがある。いくつかの地域の貴族に対して、隠密の身分で調査を行ってもらいたい」
公爵は口で場所を述べることはしなかった。
代わりに、同じく封蠟で密封されたもう一通の手紙を、机の上に置いた。
ユーナが一歩前へ出て、手紙を取った。
懐から取り出した小さな封蠟切りで、丁寧に封を切る。
紙の上に書かれていたのは、無駄な文章など一切なかった。
いくつかの領地名と城塞都市の名前が、氷のように簡潔に記されていた。
(これは……)
俺は賢明にも、その文字を声に出して読まなかった。
父がこれほどまでに慎重なのは —— この任務を、俺以外の者に知られたくないからだ。
使用人であっても、例外ではない。
「その通りだ」
公爵が続けた。
「先月、私自身が領地を一回り巡視した。だが、公に執り行った巡察では、本当の問題は見えてこなかった」
両拳を机についた。
眼光が鋭くなる。
「しかし、クローディア商会・市場部から届いた情報によれば —— これらの城塞都市の貴族たちは、一貫して違法な活動を行っているという」
クローディア商会・市場部。
その名前を聞けば、市場の需要を調査し、商品を導入し、新規プロジェクトを開発する —— そんな「普通の部署」に思えるだろう。
だが、エリクセン家の核心メンバーだけが知っている。
その本当の機能は —— 公爵領内部における、中小貴族への経済・行動調査を行う隠密機関だ。
「ゆえに、お前の『貴族サークルへの正式なデビュー前』という立場と、変装魔法の援けを借りて、私はお前に、これらの者たちの罪証を掴んでほしい」
父が続ける。
声音には、娘に対する一切の保留のない信頼が滲んでいた。
俺は迷わなかった。
軽く頷いて、この任務を受けた。
俺はユーナの手を引いて、公爵邸に長居はしなかった。
再び馬車に乗って、アムニット市へと引き返す。
市に戻ってから、まずは学院へ。
チャーリーとニーナに簡潔に別れを告げた。
「しばらく修業と旅で地方を回ることになったんだ。また戻ってくるから」
二人は少し残念そうだったが、文句を言うことはなかった。
それから、俺たちは宿舎には戻らなかった。
そのまま、自宅に備えてあった予備の転送魔導器を起動させた。
光が瞬き —— 俺たちの姿が、その場から消えた。
再び目を開けたとき、俺たちはすでに広大で豪華な別荘の中にいた。
ここはかつて、オリバー商会が違法な奴隷売買の拠点として使用していた場所だ。
今ではすでに整理・清掃を終えて —— クローディア農場の事務スペースとして生まれ変わっている。
別荘の周囲に広がる大片の森林、そしてかつてのモルガン男爵の領地も、ことごとくクローディア農場の範囲に編入されている。
現在、敷地内の至る所で、調整や開発の真っ最中の各種機械や計器が見られる。
慌ただしくも、秩序立った光景。
かつての暗く罪深い姿とは、別物だった。
俺は農場の責任者と面会した。
そこから、目立たない普通の馬車と、絶対に信頼の置ける御者を手配してもらった。
御者は、年長の少女だった。
かつて、この別荘から救出された被害者の一人であった。
救い出された後、彼女はずっと農場で学び、働いてきた。
エリクセン家に対する忠誠は揺るぎなく、裏切りなどあり得ない。
今回の行動において、秘匿は何よりも優先される。
ゆえに、俺はこれほどまでに遠回りしてから正式に出発するしかなかった。
それは自分たちの安全を考慮したことでもあるが。
何より、これらの悪徳貴族がアムニット城内に張り巡らせた偵察網に察知され、彼らに証拠を隠滅・罪証を覆い隠す時間を与えてしまうことを恐れたからだ。
俺が全面的に管理するクローディア農場こそが、最高の隠れ蓑になる。
クローディア農場。
それは家族内での呼び方に過ぎない。
対外的に、その本当の名前は —— アムニット農業商会だ。
表向きの業務は、アムニット周辺の農場からの農産物買い付けと販売のみ。
だが実際には、エリクセン家が保有するすべての隠密産業を、この商会が掌握している。
クローディア商会でさえ、実はアムニット農業商会が出資する下部機関なのだ。
この農業商会は、クローディア商会だけでなく、領内の数多くの商会・農場・林場・鉱区を、密かに統制している。
これらの産業は、表向きにはエリクセン公爵家と一切の関連がないように見える。
だが、公爵家はアムニット農業商会を通じて、完全な支配権を保持し、遠隔でこれらを掌握している。
近代的な財閥的仕組みが定着していないこの世界において。
これは、先駆的かつ隠密な手法だ。
家族の富を密かに蓄積するだけでなく、見えないところで公爵の封臣領土に対する統制力を高めている。
思考に戻した。
俺とユーナは、アムニット農業商会の普通の馬車に乗り込んだ。
農産物の視察と、新規取引の交渉を名目の仮面として ——
今回の任務、最初の目標へと向かった。
ブリオン城。
エリクセン公爵領において、アムニット市に次ぐ第二の規模を誇る城塞都市。
同時に、伝統的な旧貴族たちが根を張る —— その基盤の地でもある。
町全体が淡い灰色の巨石で築かれている。
様式は重厚で、粛穆としている。
教会の尖塔が雲に届くほど高く聳えている。
城主の城塞は丘の頂上に聳え立ち、全市を見下ろしている。
街路の計画は整然としている。
だが、そこには息が詰まるような圧迫感がある。
風が狭い石の路地を抜けるたびに、古く重い、鈍い響きが聞こえてくるようだ。
ここには、アムニットの繁華やにぎやかさはない。
商業通りの軽やかな喧騒もない。
あるのは、厳しい身分制度と、堅苦しい規則だけ。
そして、見えもしないし触れもしないが、人を喘がせる —— 冷たい無関心だけだ。
俺は馬車の窓枠に頬杖をついて、ブリオン城の灰色の輪郭が次第に近づいてくるのを眺めていた。
(ここから、本当の任務が始まるんだな……。)
心の中で、ぽつりとつぶやいた。
ユーナが隣で、そっと俺の袖を握った。
「お嬢様、準備はいいですか」
俺は窓の外の灰色の街並みに目をやって、軽く頷いた。
「ああ。 始めよう」
馬車の車輪が、ブリオン城の石畳の上を、かつかつと鳴らし始めた。




