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100. マルソの欲望と、仮初めの甘言

 城内に入った瞬間、息苦しいほどの異様な空気が俺の肌を撫でた。


 街路を行く人影はまばらだ。


 すれ違う平民たちは皆、うつむいて早足で通り過ぎる。


(怖えてる……。)


 一瞥でも余計なものを見れば、災難が降りかかるとでも思っているかのようだ。


 対照的に、精巧な衣装を纏った貴族の従者たちは、顎を反らせて威張っている。


 目が傲慢だ。


 脇を通り過ぎる平民など、まるで物のように無視している。


 街路の各所に立つ衛兵たちは、鋭い眼差しで見知らぬ者の一人一人を掃くように見ている。


 だが、明らかに高価な衣装を纏った貴族の従者たちが通りかかると、瞬間に態度を豹変させて——恭しい、そして追従した笑みを浮かべる。


「この町の空気……、痛々しいほど重いな」


 俺は声をひそめて、隣のユーナに囁いた。


「ブリオン城は旧貴族たちの基盤だ。規則が最も多く、圧迫も最も重い」


「表向きは礼儀正しく振る舞っているが、暗闇の中には……どれほどの見せられぬ穢が潜んでいることか」


 馬車は、目立たない小さな宿屋の前で止まった。


 二人を降ろす。


 この宿屋の設備は簡素そのものだ。


 部屋は狭く、空気は汚れている。


 床板は硬くて、寝転がると骨が痛くなる。


 エリクセン公爵邸の快適な日々とは、天と地ほどの差がある。


 だが、俺は一切の不平不満を顔に出さなかった。


 平静に、すべてを受け入れた。


(これは秘密任務だ。罪証を集めるための出張であって、遊びに来たわけじゃない)


 質素で目立たないほうが、注意を引かずに済む。


 昼間、俺たちは普通の旅人を装って、目的もなく街をぶらぶらと歩いた。


 ブリオン城の配置と雰囲気に、少しずつ馴染んでいくためだ。


 町の東側は貴族区だ。


 高い塀が聳え立ち、警備は厳重を極めている。


 平民が少しでも近づけば、警備兵が怒鳴り散らし、追い払う。


 西側は平民区だ。


 低くて狭い木造の家々が、密集して並んでいる。


 路面には汚水が流れ、子供たちは素足のまま泥の中を走り回っている。


 顔には、長期間の栄養失調を示す蒼さが浮かんでいた。


(父はとっくに下水道システムをエリクセン全土に普及させたというのに……)


 ブリオン城の貴族たちは、どうやら普通の市民が住む区画に、下水道の建設と維持費を投じる気など、みじんもないらしい。


 彼らの目には、底辺の平民に一欠けらでも資金を投じることは、無意味な浪費でしかないのだろう。


 町の中央部は市場と市政庁舎がある場所だ。


 税吏たちが高い壇の上に座り、無表情で税金を徴収している。


 彼らの態度は冷たく、粗暴だ。


 百姓たちがわずかに躊躇すれば、迎えるのは怒鳴声と突き飛ばし。


 尊厳の二文字など、どこにもない。


 俺は遠くから、そのすべてを黙って眺めていた。


 心の底から、重いものが沈み込んでいく感覚。


(父の判断は間違っていなかった……)


 この土地は、すでに旧貴族たちの腐敗した支配の下で、腐りきっている。


 夕暮れ時、夕日が空を薄紅色に染めていた。


 俺たちは比較的ひっそりとした石の路地を、宿屋へと戻る途中だった。


 路地の両側には、高くて厚い石塀が続いている。


 夕日が斜めに差し込み、俺たちの影をずいぶんと長く地面に引き伸ばしていた。


 引き返そうとして——


 突然、数人の人影が角から大またで歩み出て、行く手を真ん中で遮った。


 先頭に立っていたのは、若い人族の少年だった。


 黒髪で、痩せて背が高い。


 華やかだが、要点を得ないほどだらしなく精巧な衣装を纏っている。


 眉宇の間に、拭い去れないほど放蕩な気配が漂っていた。


 彼は俺を、上から下まで値踏みするように眺めた。


 目が軽薄で、貪欲だ。


 毒蛇のように、俺の体にまとわり付いて離れない。


 光沢のある額から、細い首筋へ。


 そして柔らかな曲線を描く肩まで——


 目が焼けるように熱くて、まるで衣類を突き破りそうだ。


 心底から、嫌悪しか湧いてこない。


 彼の背後に控えていた数名の巨体の護衛たちは、目を鋭く光らせ、傲慢な面持ちで胸を組んでいる。


 主人に媚びた狗そのものだ。


 平素から好き勝手を働いていた、悪徳の従者の様相だ。


 少年貴族の口元に、軽蔑した笑みが浮かんだ。


 音もなく、だが、拒絶の余地などないほどの横暴さを孕んだ声音で言った。


「どこから来た可愛い子だ。肌がこんなに白いとはな。気立ても良さそうだというのに、なんてみすぼらしい格好をしてるんだ?」


「もしもこれが、あの野良犬どもの手に渡るとしたら……もったいないじゃないか」


 俺は胸がざわりと強張るのを感じた。


 指先に力が籠る。すぐに、力を抜いた。


(ブリオン城の旧貴族の子弟は、噂に違わず傲慢で無礼だ……)


 目の前の少年の衣装と風格を見れば、どうやら並の貴族子弟ではないらしい。


 俺は心に湧いた冷たさと不快さを押し殺して、わずかに頭を垂れた。


 瞼を落として、瞳の鋭さを隠す。


 できるだけ平静で、取るに足りない声の調子で答えた。


「私たちはただの平民です。迷惑をおかけするつもりはありません」


 声音は柔らかく、わずかに震えが混じっている。


 ちょうどいい具合に、怯えている様子を表現できた。


「平民?」


 少年はまるで面白い冗談を聞いたかのように、鼻で笑った。


 一歩、前へと出る。


 俺との距離を、あえて縮めた。


 濃厚な燻香の香りが、面に押し寄せてきた。


「お前のような美人が平民なんて、もったいなさすぎるよ」


「俺の許に来て、女伴になればいい。ブリオン城で栄華を享受し、絹織物を纏い、華麗な館に住むことができる」


「ここで野宿して、人に苛められるよりは、ずっといいだろう?」


 声が落ちた瞬間、彼の背後の護衛たちが一斉に足を進めた。


 包囲の態勢だ。


 俺とユーナを真ん中に閉じ込める。


 彼らの目は凶悪で、二人を睨み付けている。


 軽はずみに手を出すつもりはないようだが、少年が一声発すれば、即座に行動に移す構えだ。


 ユーナが瞬時に一歩前へ出た。


 俺の前に立ちはだかる。


 ピンクの髪が微風に揺れた。


 彼女の体躯は小さいが、この瞬間だけは背筋をぴんと伸ばして立っていた。


 目は硬く、声音には強さが混じっている。


「ご厚情はありがたいですが、もう少しお慎みください!無理強いはお控えください!」


 少年貴族の顔色が一変した。


 さっきまでの軽薄さが瞬間に凶暴さへと変わり、目の中の貪欲さがさらに増した。


 声音も、凶悪なものへと変わる。


「俺が彼女に目を止めることこそが、彼女の幸運なんだ!」


「ブリオン城で、俺がやりたいことを止められる者などいない!」


「素直に道を譲ればいいものを……さもなくば、情けはいらんぞ!」


 マルソ……。


 俺は心の中で、その名前をゆっくりと繰り返した。


 目の底に、理解の色が走った。


 マルソ・ブリオン。


 ブリオン城主、カーター・ブリオン子爵の甥に当たる人物。


 この地方の旧貴族・放蕩子弟の典型そのものだ。


 彼は家族の勢力を笠に着て、城内で暴れ回っている。


 平民の少女を強奪し、庶民を圧迫し、民の膏血を搾り取る——


 そんな行いは、とうの昔に日常と化している。


 民たちは彼に対して不平を挙げており、怒る勇気はあっても、口に出す勇気はない。


(この手合いが、一番嫌いだ……)


 俺は心の中で唇を嚙み締めた。


 勢力を笠に着て人を虐げる、好色で放蕩する、あの手の放蕩野郎が。


 だが、この瞬間——


 ある考えが、俺の心の底からひょっこりと顔を出した。


(マルソ……)


(彼は、子爵邸に入り込むための、カーター子爵に近づくための——一番の突破口かもしれない)


 俺はそっとユーナの肩に手を置いた。


「落ち着け」という合図だ。


 指先にわずかに力を込めて、「軽はずみに動くな」という信号を送る。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


 瞳からすべての鋭さを抜き取った。


 代わりに、そこにあるのは「臆病」と「運命を受け入れる諦念」だ。


 マルソを見る目の奥に、わずかに、しかし確かに——「羞じらい」の色を滲ませた。


 この羞じらいは、少女の本能ではない。


 彼女なりに計算して演出した、放蕩子弟の興味を最も惹き付ける「振る舞い」だ。


 一瞥、一表情、すべてが精密な計算の内にある。


(なにしろ、男の気持ちは——男が一番よく分かるからな)


「マルソ……若様」


 俺の声音はさらに柔らかくなった。


 卑屈なほどだ。


 さっきまでの平静さは消え失せて、媚びるような調子が混じっている。


「私……私は、若様のご身分が尊いことを知っています。若様に仕えることが、私の幸運だということも」


「ただ、私の供の者がさきほどは分別がなく、若様に逆らってしまいました」


「どうか、お怒りはお止めを。……私たちを難閉きしないでください」


 わざとらしく声音を堪えて、柔弱な少女の仕草を模倣する。


 マルソはわずかに眉をひそめた。


 明らかに、予期せぬ反応だったらしい。


 この見るからに弱々しくて騙しやすそうな平民の少女が、まさか素直に膝を折るとは。


 さっきまで爆発させる寸前だった怒りが、瞬間に霧散した。


 代わりに、満たされた得意と、さらに濃厚な貪欲さが込み上げてくる。


 彼は俺を値踏みするように眺めた。


 瞼が垂れ、頬が薄く赤らんでいる。


 害羞いて、従順な様子だ。


 心の奥から込み上げる熱さが、彼の理性を覆い尽くしていた。


 好色な本性が、もう止まらない。


 彼は気づいていない。


 これがすべて、計算された芝居だということに。


「ほう?そんなに早く、諦めがついたのか?」


 マルソが眉を泳がせて、からかうように言った。


「さっさとこうしてくれればよかったんだ。無駄に俺を怒らせて、自分まで憫む思いをする必要なんてなかったんだからな」


 彼の目は灼けるように俺を睨み付けている。


 貪欲さが満ち満ちているというのに——不思議と、彼は俺に手を伸ばそうとはしない。


 ただ、この「従順な少女」が自ら好意を示すのを待っている。


 俺は体をわずかに竦ませた。


 彼の気迫に怖えでもしているかのように。


 足元を、無意識に彼の方へと、半寸ほど寄せた。


 手を上げたとき、わざと彼の袖に触れてしまったふりをする。


 指先が、わずかに衣類の上に乗る。


 すぐに、引っ込めようとする。


 声音は蚊の鳴くほどに細くて。


「私……私、ちょっと怖いです。若様、脅かさないでください」


「若様のお許に仕えることを、私は受け入れます。女伴になることを、……私は承知しました」


 わざとらしく、怯えで、慌てふためいている様子を装っている。


 前世において男であった俺が、このような親密な小さな仕草を自ら演じるのは、正直なところ、少しばかり居心地が悪い。


 だが、俺は分かっている。


 マルソの興味を惹き、彼の戒心を解くための最良の方法だということを。


 心の中ではすべてを計算し尽くしている。


 彼の好色な性根に合わせて、一歩ずつ彼をたぶらかす。


 完全に「屈服した」と信じ込ませる。


 いや、俺に心を動かしたとすら、思い込ませる。


 そうすればこそ、子爵邸に順調に入り込める。


 カーター子爵の贓罪と、他の貴族との結託の証拠を、手に入れることができる。


 俺が自ら彼の袖を引いたのを見て、マルソは心中の花が咲き乱れるほどに喜んだ。


 目の中の貪欲さが、さらに濃くなった。


 だが、「羞じらい」を装う俺に遠慮してか、手を伸ばして触れようとはしない。


 ただ、軽薄な声音で言った。


「そうこなくちゃな、可愛い子」


「安心しろよ。素直に俺の言うことを聞いて、俺をよく仕えてくれれば——決して損はさせない」


「ブリオン城で、誰もお前に強がれることのないよう、俺が守ってやるからな」


 彼の目は、袖の上に置かれた俺の指先をじっと見つめている。


「自ら好意を示した」ことへの満足感で、胸がいっぱいだ。


 だが、彼はあえて動かない。


 怖がらせてしまうのを恐れている——ふりをしている。


(……この男、本当に、これがすべて計算だなんて夢にも思っていないんだな)


 俺の頬が、さらに「赤く」なった。


 マルソの袖を掴んでいた手を、そっと離す。


 頭を垂れたまま、彼の袖口にほこりが付いているのが目に入った。


 無意識に手を上げて、指先でそっと、彼の袖口の皺を払った。


 動作は柔和で、自然だ。


 本能としての細やかさのように見える。


 声音は、優しかった。


「ありがとうございます、若様。私は素直に聞き従います。若様を不快にさせるようなことは、決していたしませんから」


 その動作は抑制されていて、品がある。


 媚びる痕跡などどこにもない。


 それなのに、マルソの弱いところを、正確に突いている。


 彼はさらに魅了されていく。


 目の中の占有欲が、一段と強くなった。


 この「自然な細やかさ」。


 実のところ、俺が前世においてセールスマンとして過ごした長い年月の中で、自然と身に付けた沈着さと行き届いた気遣いだ。


 ただ、それを少女の優しさという仮面の下に、巧みに偽装しているだけのこと。


 ユーナが傍で、目を焦がしている。


 口を開こうとしたが、俺の目配せで制された。


 俺はかすかに首を横に振った。


「落ち着け」という合図だ。


 目の底に、安心させる色がちらりと走る。


 ユーナはようやく心を鎮めることができた。


 押し殺した心配を胸の奥に押し込めて、運命を受け入れるふりをするしかなかった。

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