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101. 仮初めの甘言と、子爵府への足掛かり

 城内に入った瞬間、息苦しいほどの異様な空気が俺の肌を撫でた。


 街路を行く人影はまばらだ。


 すれ違う平民たちは皆、うつむいて早足で通り過ぎる。


(怖えてる……。)


 一瞥でも余計なものを見れば、災難が降りかかるとでも思っているかのようだ。


 対照的に、精致な衣装を纏った貴族の従者たちは、顎を反らせて威張っている。


 目が傲慢だ。


 脇を通り過ぎる平民など、まるで物のように無視している。


 街路の各所に立つ衛兵たちは、鋭い眼差しで見知らぬ者の一人一人を掃くように見ている。


 だが、明らかに高価な衣装を纏った貴族の従者たちが通りかかると、瞬間に態度を豹変させて——恭しい、そして追従した笑みを浮かべる。


「この町の空気……、痛々しいほど重いな」


 俺は声をひそめて、隣のユーナに囁いた。


「ブリオン城は旧貴族たちの基盤だ。規則が最も多く、圧迫も最も重い」


「表向きは礼儀正しく振る舞っているが、暗闇の中には……どれほどの見せられぬ穢が潜んでいることか」


 馬車は、目立たない小さな宿屋の前で止まった。


 二人を降ろす。


 この宿屋の設備は簡素そのものだ。


 部屋は狭く、空気は濁っている。


 床板は硬くて、寝転がると骨が痛くなる。


 エリクセン公爵邸の快適な日々とは、天と地ほどの差がある。


 だが、俺は一切の不平不満を顔に出さなかった。


 平静に、すべてを受け入れた。


(これは秘密任務だ。罪証を集めるための出張であって、遊びに来たわけじゃない)


 質素で目立たないほうが、注意を引かずに済む。


 昼間、俺たちは普通の旅人を装って、目的もなく街をぶらぶらと歩いた。


 ブリオン城の配置と雰囲気に、少しずつ馴染んでいくためだ。


 町の東側は貴族区だ。


 高い塀が聳え立ち、警備は厳重を極めている。


 平民が少しでも近づけば、警備兵が厲声で怒鳴り散らし、追い払う。


 西側は平民区だ。


 低くて狭い木造の家々が、密集して並んでいる。


 路面には汚水が流れ、子供たちは素足のまま泥の中を走り回っている。


 顔には、長期間の栄養失調を示す蒼さが浮かんでいた。


(父はとっくに下水道システムをエリクセン全土に普及させたというのに……)


 ブリオン城の貴族たちは、どうやら普通の市民が住む区画に、下水道の建設と維持費を投じる気など、みじんもないらしい。


 彼らの目には、底辺の平民に一欠けらでも資金を投じることは、無意味な浪費でしかないのだろう。


 町の中央部は市場と市政庁舎の所在地だ。


 税吏たちが高い壇の上に座り、無表情で税金を徴収している。


 彼らの態度は冷たく、粗暴だ。


 百姓たちがわずかに躊躇すれば、迎えるのは怒鳴声と突き飛ばし。


 尊厳の二文字など、どこにもない。


 俺は遠くから、そのすべてを黙って眺めていた。


 心の底から、重いものが沈み込んでいく感覚。


(父の判断は間違っていなかった……)


 この土地は、すでに旧貴族たちの腐敗した支配の下で、病膏肓に入っている。


 夕暮れ時、夕日が空を薄紅色に染めていた。


 俺たちは比較的ひっそりとした石の路地を、宿屋へと戻る途中だった。


 路地の両側には、高くて厚い石塀が続いている。


 夕日が斜めに差し込み、俺たちの影をずいぶんと長く、地面に引き伸ばしていた。


 引き返そうとして——


 突然、数人の人影が角から大またで歩み出て、行く手を真ん中で遮った。


 先頭に立っていたのは、若い人族の少年だった。


 黒髪で、痩せて背が高い。


 華やかだが、要点を得ないほどだらしなく精致な衣装を纏っている。


 眉宇の間に、拭い去れない程の紈袴な気配が漂っていた。


 彼は俺を、上から下まで値踏みするように眺めた。


 目が軽佻で、貪欲だ。


 毒蛇のように、俺の体にまとわり付いて離れない。


 光沢のある額から、細い首筋へ。


 そして柔らかな曲線を描く肩まで——


 目が焼けるように熱くて、まるで衣類を突き破りそうだ。


 心底から、嫌悪しか湧いてこない。


 彼の背後に控えていた数名の巨体の護衛たちは、目を鋭く光らせ、傲慢な面持ちで胸を組んでいる。


 主人に媚びた狗そのものだ。


 平素から好き勝手を働いていた、悪徳の従者の様相だ。


 少年貴族の口元に、軽蔑した笑みが浮かんだ。


 音もなく、だが、拒絶の余地などないほどの蛮横さを孕んだ声音で言った。


「どこから来た小美人だ。肌がこんなに白いとはな。気立ても良さそうだというのに、なんて寒酸な格好をしてるんだ?」


「もしもこれが、あの野良犬どもの手に渡るとしたら……もったいないじゃないか」


 俺は胸がざわりと強張るのを感じた。


 指先に力が籠る。すぐに、力を抜いた。


(ブリオン城の旧貴族の子弟は、噂に違わず傲慢で無礼だ……)


 目の前の少年の衣装と風格を見れば、どうやら並の貴族子弟ではないらしい。


 俺は心に湧いた冷たさと不快さを押し殺して、わずかに頭を垂れた。


 瞼を落として、瞳の鋭さを隠す。


 できるだけ平静で、取るに足りない声の調子で答えた。


「私たちはただの平民です。迷惑をおかけするつもりはありません」


 声音は柔らかく、わずかに震えが混じっている。


 ちょうどいい具合に、怯えている様子を表現できた。


「平民?」


 少年はまるで面白い冗談を聞いたかのように、鼻で笑った。


 一歩、前へと出る。


 俺との距離を、あえて縮めた。


 濃厚な燻香の香りが、面に押し寄せてきた。


「お前のような美人が平民なんて、もったいなさすぎるよ」


「俺の許に来て、側女になればいい。ブリオン城で栄華を享受し、絹織物を纏い、華麗な館に住むことができる」


「ここで風餐露宿して、人に苛められるよりは、ずっといいだろう?」


 声が落ちた瞬間、彼の背後の護衛たちが一斉に足を進めた。


 包囲の態勢だ。


 俺とユーナを、真ん中に閉じ込める。


 彼らの目は凶悪で、二人を睨み付けている。


 軽はずみに手を出すつもりはないようだが、少年が一声発すれば、即座に行動に移す構えだ。


 ユーナが瞬間に一歩前へ出た。


 俺の前に立ちはだかる。


 ピンクの髪が微風に揺られた。


 彼女の体躯は小さいが、この瞬間だけは背筋をぴんと伸ばして立っていた。


 目は硬く、声音には強さが混じっている。


「ご厚情はありがたいですが、もう少しお慎みください!無理強いはお控えください!」


 少年貴族の顔色が一変した。


 さっきまでの軽佻さが瞬間に戾気へと変わり、目の中の貪欲さがさらに増した。


 声音も、凶悪なものへと変わる。


「俺が彼女に目を止めることこそが、彼女の福運なんだ!」


「ブリオン城で、俺がやりたいことを止められる者などいない!」


「素直に道を譲ればいいものを……さもなくば、情けはいらんぞ!」


 マルソ……。


 俺は心の中で、その名前をゆっくりと繰り返した。


 目の底に、理解の色が走った。


 マルソ・ブリオン。


 ブリオン城主、カーター・ブリオン子爵の甥に当たる人物。


 この地方の旧貴族・紈袴子弟の典型そのものだ。


 彼は家族の勢力を笠に着て、城内で暴れ回っている。


 平民の少女を強奪し、庶民を圧迫し、民の膏血を搾り取る——


 そんな行いは、とうの昔に日常と化している。


 民たちは彼に対して怨声を挙げているが、怒る勇気はあっても、口に出す勇気はない。


(この手合いが、一番嫌いだ……)


 俺は心の中で唇を噛み締めた。


 勢力を笠に着て人を虐げる、好色でのさばっている、あの手の紈袴野郎が。


 だが、この瞬間——


 ある考えが、俺の心の底からひょっこりと顔を出した。


(マルソ……)


(彼は、子爵邸に入り込むための、カーター子爵に近づくための——一番の突破口かもしれない)


 俺はそっとユーナの肩に手を置いた。


「落ち着け」という合図だ。


 指先にわずかに力を込めて、「軽はずみに動くな」という信号を送る。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


 瞳からすべての鋭さを抜き取った。


 代わりに、そこにあるのは「怯懦」と「運命を受け入れる諦念」だ。


 マルソを見る目の奥に、わずかに、しかし確かに——「羞じらい」の色を滲ませた。


 この羞じらいは、少女の本能ではない。


 彼女なりに計算して演出した、紈袴子弟の興味を最も惹き付ける「振る舞い」だ。


 一瞥、一表情、すべてが精密な盤算の内にある。


(なにしろ、男の気持ちは——男が一番よく分かるからな)


「マルソ……若様」


 俺の声音は、さらに柔らかくした。


 卑屈なほどだ。


 さっきまでの平静さは消え失せて、媚びるような調子が混じっている。


「私……私は、若様のご身分が尊いことを知っています。若様に仕えることが、私の福運だということも」


「ただ、私の供の者がさきほどは分別がなく、若様に逆らってしまいました」


「どうか、お怒りはお止めを。……私たちに難癖をつけないでください」


 わざとらしく声音を堪えて、柔弱な少女の仕草を模倣する。


 マルソはわずかに眉をひそめた。


 明らかに、予期せぬ反応だったらしい。


 この見るからに弱々しくて騙しやすそうな平民の少女が、まさか素直に膝を折るとは。


 さっきまで爆発させる寸前だった怒りが、瞬間に霧散した。


 代わりに、満たされた得意と、さらに濃厚な貪欲さが込み上げてくる。


 彼は俺を値踏みするように眺めた。


 瞼が垂れ、頬が薄く赤らんでいる。


 恥ずかしがって、従順な様子だ。


 心の奥から込み上げる熱さが、彼の理性を覆い尽くさんとしていた。


 好色な本性が、もう止まらない。


 彼は気づいていない。


 これがすべて、計算された芝居だということに。


「ほう?そんなに早く、諦めがついたのか?」


 マルソが眉を泳がせて、戯虐的に言った。


「さっさとこうしてくれればよかったんだ。無駄に俺を怒らせて、自分まで酷い思いをする必要なんてなかったんだからな」


 彼の目は灼けるように俺を睨み付けている。


 貪欲さが満ち満ちているというのに——不思議と、彼は俺に手を伸ばそうとはしない。


 ただ、この「従順な少女」が自ら好意を示すのを、待っている。


 俺は体をわずかに竦ませた。


 彼の気迫に怯えでもしているかのように。


 足元を、無意識に彼の方へと、半寸ほど寄せた。


 手を上げたとき、わざと彼の衣袖に触れてしまったふりをする。


 指先が、わずかに衣類の上に乗る。


 すぐに、引っ込めようとする。


 声音は蚊の鳴くほどに細くて。


「私……私、ちょっと怖いです。若様、脅かさないでください」


「若様のお許に仕えることを、私は受け入れます。側女になることを、……私は承知しました」


 わざとらしく、臆病で、慌てふためいている様子を装っている。


 前世において男であった俺が、このような親密な小さな仕草を自ら演じるのは、正直なところ、少しばかり居心地が悪い。


 だが、俺は分かっている。


 マルソの興味を惹き、彼の戒心を解くための、最良の方法だということを。


 心の中ではすべてを盤算し尽くしている。


 彼の好色な性根に合わせて、一歩ずつ彼をたぶらかす。


 完全に「屈服した」と信じ込ませる。


 いや、俺に心を動かしたとすら、思い込ませる。


 そうすればこそ、子爵邸に順調に入り込める。


 カーター子爵の汚職の罪と、他の貴族との結託の証拠を、手に入れることができる。


 俺が自ら彼の衣袖を引いたのを見て、マルソは心中の花が咲き乱れるほどに喜んだ。


 目の中の貪欲さが、さらに濃くなった。


 だが、「羞じらい」を装う俺に遠慮してか、手を伸ばして触れようとはしない。


 ただ、軽佻な声音で言った。


「そうこなくちゃな、小美人」


「安心しろよ。素直に俺の言うことを聞いて、俺をよく仕えてくれれば——決して損はさせない」


「ブリオン城で、誰もお前に強がれることのないよう、俺が守ってやるからな」


 彼の目は、衣袖の上に置かれた俺の指先をじっと見つめている。


「自ら好意を示した」ことへの満足感で、胸がいっぱいだ。


 だが、彼はあえて動かない。


 怖がらせてしまうのを恐れている——ふりをしている。


(……この男、本当に、これがすべて計算だなんて夢にも思っていないんだな)


 俺の頬が、さらに「赤く」なった。


 マルソの衣袖を掴んでいた手を、そっと離す。


 頭を垂れたまま、彼の袖口にほこりが付いているのが目に入った。


 無意識に手を上げて、指先でそっと、彼の袖口の皺を払った。


 動作は柔和で、自然だ。


 本能としての細やかさのように見える。


 声音は、優しかった。


「ありがとうございます、若様。私は素直に聞き従います。若様を不快にさせるようなことは、決していたしませんから」


 その動作は抑制されていて、品がある。


 媚びる痕跡などどこにもない。


 それなのに、マルソの弱いところを、正確に突いている。


 彼はさらに魅了されていく。


 目の中の占有欲が、一段と強くなった。


 この「自然な細やかさ」。


 実のところ、俺が前世においてセールスマンとして過ごした長い年月の中で、自然と身に付けた沈着さと行き届いた気遣いだ。


 ただ、それを少女の優しさという仮面の下に、巧みに偽装しているだけのこと。


 ユーナが傍らで、目に焦りの色を浮かべている。


 口を開こうとしたが、俺の目配せで制された。


 俺はかすかに首を横に振った。


「落ち着け」という合図だ。


 目の底に、安心させる色がちらりと走る。


 ユーナはようやく心を鎮めることができた。


 押し殺した心配を胸の奥に押し込めて、運命を受け入れるふりをするしかなかった。


 マルソは、クローディアの「羞じらい」を見て、心がむずむずしてたまらないというのに——


 結局、最後まで手を伸ばそうとはしなかった。


 ただ、焦れたような占有欲を声音に滲ませて言った。


「さあ、小美人。俺と一緒に子爵邸へ行こう」


「いい服も、精致な首飾りも、全部用意してやる。しっかり整えてやるからな」


「俺の女が、あんなだらしない格好をしてるなんて、世間に顔向けできないだろうが!」


 彼は、クローディアが自ら近づいてくるのを待っている。


 目には期待と貪欲が滲んでいる。


(……あいつ、絶対に自分からは手を出してこないんだな)


 クローディアは内心で鼻で笑った。


 クローディアは、わずかにためらうような仕草を見せた。


 羞じらっているような、乙女らしい間の取り方だ。


 彼のそばについて歩き出した瞬間——わざと足を軽く踏み誤らせた。


「あ……!」


 無意識に、彼の手を支えようとして触れてしまった、という体だ。


 指先が触れ合った瞬間、彼女はぱっと手を引っ込めた。


 頬がさらに赤くなる。


 慌てふためいて、すまなそうな声音を絞り出した。


「す、すみません……若様。足元を誤って」


 マルソの胸の中で、花が咲き乱れるような喜悦が広がった。


 彼女を支えようと、思わず手を伸ばしかけた。


 だが——彼女はもう、自分の足でしっかりと立ち直っていた。


 指先に、かすかに残る涼やかな触感だけが残っている。


(……っ!)


 マルソの心臓が、さらに強く脈打った。


 このまま彼女に触れてしまえば、彼女が怯えて逃げてしまうのではないか——


 そんな、どこにも必要のない心配が、彼の理性の隅に巣食っていた。


 クローディアの一連の動作。


 一見すれば、ただの慌てふためきに見えるだろう。


 だが、実際には一挙一動、すべてが精密に計算されていた。


 指先が触れる時間。引っ込める瞬間の目の表情。


 すべてに、彼女が「自然に見せる」ための、緻密な盤算が込められている。


(……本当に、悪い子だ)


 クローディアは、自分の内心でつぶやいた。


「羞じらうなよ、小美人。これからは、俺たちは「一族」なんだからな」


 マルソは、満面に軽佻な笑みを浮かべて言った。


 声音には、寵愛を装った色気が混じっている。


 だが、その底にあるのは、骨の髄まで染み込んだ好色の本心だ。


「教えてくれ。名前は何というんだ?」


 クローディアは、低く声を絞り出した。


 わざと語速を落として、声音に柔らかみを持たせる。


「私……私は、ケーシーと申します」


「彼女は私の供の者で、ユーナと申します」


 マルソは、その名前を静かに口の中で転がした。


「ケーシー……」


 なんて、耳に染み込むように心地いい名前なんだ。


 目が、さらに深く彼女を睨み付く。


 彼女が小さく頷いた。


 伏し目がちな仕草。頬に薄く紅が差している。


「……ん」


 蚊の鳴くほどのかすかな声音。


(俺に心を許した、という合図に見せかける)


 彼女は、彼の指先の温もりを感じ取っている。


 彼の目の中にある貪欲と、執着の色を、はっきりと認識している。


 だが——それらのすべてが、彼女にとっては「任務を完遂するための道具」に過ぎない。


「ケーシー」と名前を呼ばれた瞬間、彼女は「従順で羞じらうケーシー」を完璧に演じ続ける。


 だが、一線は越えない。


 彼に、これ以上の進展を許可することはない。


 マルソは、彼女がこれほどまでに自発的で、しかも羞じらっているのを見て、ますます有頂天だった。


 歩調を緩めて、彼女が自ら寄ってくるのを待つ。


 声音には、自慢と焦れた期待が混じっている。


「さあ、ケーシー。俺と一緒に子爵邸へ行こう」


「下僕たちに、一番いいものを全部用意させてやる。お前がどれほど良い思いができるか、味わわせてやるからな」


 彼は、歩きながら何度も横顔を盗み見た。


 貪欲な視線は、まるで離れない。


 だが、彼はあえて彼女に触れようとはしない。


 彼女がたまに見せる「好意の示し」だけを享受して、心の中でさらに満たされていく。


 クローディアは、彼に手を引かれて、子爵邸へと向かった。


 顔には、常に「温順で羞じらう笑み」を張り付けている。


 だが、瞳の奥は、氷のように冷たく、穏やかだった。


(……この瞬間から、計算された「たぶらかし」の大芝居が、正式に幕を開けるんだな)


 マルソの好色と傲慢。


 それこそが、彼女が最も利用できる弱点だ。


 彼の性根に合わせて、一歩ずつ彼をたぶらかす。


 完全に「ケーシーは屈服した」と信じ込ませる。


 そうすれば、子爵邸に入り込み、カーター子爵の罪証を掴むことができる。


 父の封土を蝕む、これらの害虫たちを、一掃できる。


 ユーナは、二人の後ろを付いていった。


 警戒した目で周囲を見回しながら、同時にクローディアの神色を窺っていた。


 彼女が常に落ち着いているのを見て、ようやく安心した。


 自分も、運命を受け入れたふりをして、黙々と後を付いていく。


 いつでもクローディアの合図に応じられるよう、心の準備を整えていた。


 マルソは、クローディアの手を引いたまま、早足で子爵邸へと向かった。


 口では、子爵邸の贅沢ぶりをべらべらと語っている。


 自分の権勢を自慢し、自分の家がどれほど凄いかを、彼女に理解させようとしている。


 声音には、自負と見栄が混じっている。


 時折、彼女に取るに足らない質問を投げかけてくる。


 もっと彼女のことを知りたい、という理由もあるが——


 何より、彼女が「自分に憧れている」という表情を見たいのだ。


 クローディアは、辛抱強くそれを聞き流した。


 そして、適度なタイミングで「憧れ」と「従順」を演出した返答を返す。


(この手の、自慢したがりの傲慢たれには、どう対処すればいいか……)


(ほんの少しの言葉で、相手の虚栄心を満たし、さらに深く信用させる方法——)


(それくらい、俺はよく知っている)


「ケーシー、安心しろよ。俺は子爵邸の中で、かなりの重みを持っているんだ」


 マルソは、得意げに胸を張って言った。


「素直に言うことを聞いてくれれば、一番華麗な部屋に住ませてやる」


「一番きれいな服を着せてやるし、一番精致な菓子を食べさせてやる」


「平民をやっているよりも、百倍も、千倍もマシな思いができるぞ」


 声音には、貪欲と占有欲が入り交じっている。


 彼は話しながら、腰から小さな銀の香嚢を解き降ろした。


 香嚢の上には、細かな真珠が鏤められている。


 穏やかな安神の香りが、ほのかに漂っていた。


 彼は、その香嚢をクローディアの目の前に差し出した。


 声音には、拒絶の余地のない強引さが混じっている。


 だが、その底には、好色な焦れた期待が隠されている。


「これを取れ。俺のために打ったものだ」


「クローディア商会から買い付けた香料を使っている。女の子が持つには、ちょうどいい」


「俺がお前に物を送れるということが、お前の福運なんだよ」


 彼の目が、獲物を睨み付くように彼女を見つめている。


「志在必得」という傲慢な確信が、その目の中に満ちている。


 彼女が自ら、それを受け取るのを待っている。


 クローディアは、わずかに体を折り曲げて、両手でそっと香嚢を受け取った。


 指先が、わざと彼の指先に軽く触れる。


 すぐに手を引っ込めて、頬を赤らめる。


「ありがとうございます、若様……。若様は、本当にお優しいです」


 彼女は顔を上げた。


 目には、「憧れ」と「感謝」が満ちている。


 頬には、まだ薄く紅が差している。


「若様にお会いできたことは、私のこの一生の中で、一番の福運です」


「必ず一生懸命に仕えます。二度と、若様をお怒りさせるようなことはいたしませんから」


 その声音は柔らかく、真摯だ。


「たぶらかされた平民の少女」を、完璧に演じている。


 それは、マルソの心をさらに満たし、彼女への執着をさらに深めることになった。


 これらの言葉の一つ一つが、すべて彼女の唇から絞り出された「計算」の産物だ。


「ケーシー」という身分にふさわしい言動でありながら、同時にマルソの虚栄心を正確に突く。


(……男の弱点なんて、男が一番よく知っているんだからな)


 一路、マルソの視線は、ほとんどクローディアの体から離れなかった。


 貪欲な目差しが、隠そうともせずに彼女を舐め回すように見つめている。


 だが、彼はあえて彼女に触れようとはしない。


 ただ、彼女が時折見せる「無防備な親密さ」を、凝視している。


 二人が並んで歩くとき、クローディアは時折、路面の小石に足を取られてよろめく。


 無意識に、彼の衣袖を引いて体を支える。


 あるいは、水嚢を渡すとき、指先が彼の腕に軽く触れて——


 すぐに手を引っ込めて、羞じらうような仕草を見せる。


 どの触れ方も、自然で、何の作為もないように見える。


 わざとらしい探りの色など、どこにもない。


 それゆえに、マルソは怒ることもできず、じれったさを噛み殺しながら——


 さらに彼女を「手中に収めたい」という欲望を強めていく。


 彼女がもっと、自分に無防備な親密さを見せてくれる日を、待ちわびている。


 クローディアの「自発的な触れ」の一つ一つが、すべて「適度な一線」を越えないよう、綿密にコントロールされている。


 相手に「やりすぎ」と感じさせず、同時に「もっと」という期待を抱かせる。


 間もなく、三人は子爵邸の門の前に到着した。


 子爵邸は、威風堂々としていた。


 朱色の大門が閉ざされ、門の前には鎧を纏った二名の護衛が立っている。


 神色は威厳に満ちていて、ひと目で、警備が厳重であることが窺える。


 マルソが戻ってくるのを見て、二名の護衛は即座に身を屈めて敬礼し、声音には恭しい態度が滲んでいた。


「若様」


 マルソは、得意げに顎をしゃくらせて、我先にと子爵邸の中へと足を踏み入れた。


 声音には、傲慢な響きがあった。


「楽にせよ」


 彼は横顔を巡らせて、後ろにいるクローディアを一瞥した。


 目には、期待が満ちている。


 クローディアは、その威風堂々たる子爵邸を見て、足をわずかに止めた。


(……怯えているように見せかけるんだ)


 わざと、彼らがかなり歩いた後で、小走りに彼のそばへと追いついた。


 彼の傍を通り過ぎるとき、わざと彼の腕に体が触れそうになる。


 そのまま、彼の衣袖を軽く引いて、低い声音を絞り出した。


「若様……ここは、なんだか、とても立派で……私、ちょっと怖いです」


 その「自発的なよりどころ」の演出は、自然で、作為がない。


 怯えている乙女が、無意識に頼りにしているような仕草だ。


 マルソの得意げな表情が、さらに緩んだ。


 声音にも、いくぶんの軟らかみが混じってくる。


「怖がるなよ、俺がいるんだ。誰も、お前に手出しなんてさせない」


 クローディアは、そっと周囲を瞥した。


 目に一切を占めて、心の中に刻み込んでいく。


 だが、顔には依然として「温順で羞じらう笑み」を張り付けている。


「はい……若様が一番、偉いですから」


 彼女の目差しは、表面上は従順だ。


 だが、実際にはひっそりと子爵邸の動静を窺い、証拠を集める機会を窺っている。


 マルソは彼女の手を引いたまま、宴の間へは向かわず、カーター子爵の書斎にも向かわず——


 真っ直ぐに、自分自身の住まいへと彼女を連れて行った。


 装飾が贅沢に施された中庭だ。


 珍しい調度品が、所せましと並べられている。


 中庭には、名高い花々が植えられていて、空気の中にはほのかな薫香が漂っていた。


「ケーシー、ここが俺の住まいだ」


 マルソは中庭へと足を踏み入れながら、期待と貪欲を瞳に滲ませて言った。


「これからはお前は、ここに住むことになる。俺の隣の部屋にな」


「そうすれば、俺はいつでもお前の顔を見ることができるからな」


 話しながら、彼は手を叩いた。


 二人の下僕が、托盘を捧げ持って入ってきた。


 一方の托盘には、七八着の絹織の衣裙が載せられている。


 色とりどりで、精致な花鳥の文様が刺繍されている。


 もう一方の托盘には、様々な種類の首飾りが並べられている。


 金の簪、銀の钗、玉の腕輪、真珠の首飾り——


 目にも眩しい輝きを放っている。


「これらはすべて、お前への贈り物だ」


「ブリオン城で一番の生地と、一番の首飾りばかりだ」


「早く着替えてこい。二度と、あんなだらしない格好をして、俺の顔を汚すような真似はするなよ」


 彼は、水色の衣裙を手に取り、彼女の目の前へと差し出した。


 傲慢な声音だ。好色な目差しが、隠そうともせずに彼女を睨み付けている。


「早く試着してこい。俺が、どれほどお前に心を動かされるか——試してみたいんだ」


 その声音は強引だ。


 取り入る姿勢は、みじんもない。


 彼女が自ら、それを受け取るのを待っている。


 クローディアは、わずかに体を折り曲げて、両手でそっと衣裙を受け取った。


 指先が、彼の手に軽く触れる。


 頬を赤らめて、低い声音を絞り出した。


「ありがとうございます、若様……私、すぐに試着してまいります」


 その動作は、自然で、羞じらっている乙女の本能的な反応に見える。


 作為して取り入る痕跡など、どこにもない。

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