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97. 壁際の羞恥

「彼女、大丈夫?」


 チャーリーが一番先に気づいた。


 手の中の首飾りをいじる動作を止めて、壁際にしゃがみ込んだ俺のほうへと顔を向けた。


 やや心配そうな表情を浮かべて、ユーナの袖をそっと引き、小声で確認する。


 ユーナはチャーリーの視線を追って俺のほうを見た。


 その表情には、驚いた様子がまるでなかった。


 いたって平静な顔で、むしろわずかに眉を持ち上げて、あっさりとした口調で答えた。


「大丈夫ですよ。小姐、ときどきこういうことがあるんです。突然、何か猛烈に恥ずかしい場面を思い浮かべて、それで変な動きをしてしまうんです。しかも周囲の目を全力で引き付けるような動きを」


「……」


「本人が我に返って、みんなに見られていることに気づくと —— 今日みたいに、壁際に退避して自己崩壊に入ります。少し経てば戻りますよ」


 壁際でしゃがんだまま、俺はユーナの言葉を一言一句、はっきりと聞いていた。


(ユーナ。あなた、いったい誰の味方なの。)


 心の中で叫んだ。


 あなたは俺の専属侍女じゃないんですか。なんで俺の弱点をあんなに正確に、あんなに淡々と、ちっとも遠慮なく言えるんですか。


 俺は唇をぎゅっと噛んで、心の中でごちゃごちゃと文句を言い続けた。


 —— でも、反論できなかった。


 だって全部、本当のことだったから。


 数分ほど経つと、顔の熱がじわじわと引いていった。


 心の中の羞恥と恨みも、少しずつ落ち着いてくる。


 恐る恐る顔を上げて、ちらりと周囲を窺った。


 もう通行人のほとんどが俺を気にしていない。


 俺はそっと息を吐いた。


 チャーリーとニーナが近づいてきた。二人とも顔に柔らかな笑みを浮かべていて、さっきのことには一言も触れようとしなかった。気を遣ってくれているのがわかる。


「ケーシー、さっきすごく素敵な飾りを見つけたんだけど、一緒に選ばない?」


 チャーリーが手を伸ばして、俺の手首をそっと引いた。声音は弾んでいて、目がきらきらしている。


 俺はひとまず断ろうとした。


(公爵邸にはもういっぱいあるし、あのお屋敷のものと比べたら……)


 でも、口を開きかけた瞬間 —— チャーリーとニーナの目を見た。


 本気だった。楽しそうで、真剣で、ただ純粋に俺に喜んでもらいたくて、そういう目だった。


 断れなかった。


 俺は小さく頷いて、口元に微かな笑みを浮かべた。


「…… うん、お願いしようかな」


 チャーリーとニーナが一瞬で満面の笑みになった。二人はさっそく露店へと引き返して、手に持っていた首飾りを俺に差し出してきた。


 俺は受け取って、指先でそっと表面の彫刻を辿った。


 —— 丁寧な仕事だ。


 職人が一本一本、手で削り込んだのだとわかる。


 俺は一本目のユリの首飾りを手に取り、首にそっとかけた。吊り下げ飾りの位置を整えて、衿の中心にちょうど来るように調節した。


「わあっ、すごくきれい!」


 チャーリーが思わず声を上げた。目を丸くして、感心したように俺を見る。


 ニーナもすかさず頷いた。目に確かな賛同の色がある。


「こっちも!」


 もう一方のバラの吊り下げ飾りを俺の首元に当ててみて、チャーリーとニーナが同時に声を揃える。


「ね、ほら、こっちも全然違う雰囲気になる!」


「やっぱり、ケーシーはなんでも似合う」


 チャーリーが俺の首元に指先を伸ばして、バラの吊り下げ飾りをそっと触った。真剣な顔だ。


 ニーナも続けて声を出す。「どっちもよく似合ってます。ケーシーが着けたらなんでも引き立つんだと思います」


 どうやら二人は俺が首飾りを着けたのを見て俄然ノリに乗ったらしく、目を合わせて、対抗心に燃えた表情でまた露店の飾りを掘り返し始めた。


 俺はその様子を眺めながら、苦笑した。


 視線をずらして隣のユーナを見ると、ユーナもチャーリーとニーナを静かに見守っていた。口元にほんのわずかな笑みが浮かんでいる。慣れているような、温かいような、そういう眼差しだった。


 俺はユーナの袖をそっと引いた。


「…… ねえ、あの二人ってなんでこんなに熱心なの。私はもうたくさん持ってるのに」


 ユーナが俺のほうへ顔を向けた。


 口元の弧が少し深くなった。


「好きだからですよ。あなたのことが。自分が好きなものをあなたと共有したくて、あなたに着けてもらって喜んでほしいんです。それだけです」


 俺はしばらく黙った。


 胸の中に、静かな温もりが広がっていく。


 チャーリーとニーナは、俺の正体を知っても変わらなかった。友人として、ただまっすぐに向き合い続けてくれた。


 —— これが友情というものなのかもしれない。


 単純で、澄んでいて、自分の持っている良いものを全部、大切な人に渡したくなる —— そういうもの。


 俺とユーナは並んで立ち、二人が首飾りや耳飾りや髪留めを次々と手に取る様子を眺めていた。


 ときどき二人の声が弾けて、言い争いのような笑い声が混じった。


 耳障りじゃない。むしろ、にぎやかで温かい。


 三十分ほど経って、チャーリーとニーナがようやく手を止めた。


 二人とも両手に飾りを山ほど抱えていた。耳飾り、手鎖、髪留め —— 数えてみると、あっさり十点を超えていた。


 目をぱちぱちさせながら、勢いよく俺のほうへ歩み寄ってきた。


「ケーシー、はい!全部試してみて!全部ぜったい似合うから!」


 俺は受け取った。


 指先に、冷たい金属のひんやりとした感触。


 でも、胸の中は温かい。


 二人の目には真剣な期待がある。俺はそれがじんわりとありがたかった。


 この露店の飾りは素朴な素材だから、合計しても大した値段にはならないはずだ。それにさっきから三十分以上も、チャーリーとニーナが飾りの山をひっくり返し続けていたせいで、店主はかなりの手間をかけさせられている。


 俺は申し訳なくなって、空間手環から銀貨を取り出し、店主に差し出した。


「お店のかた、この飾りを全部いただけますか。包んでもらえますか」


 店主の顔がぱっと明るくなった。


「はい、ありがとうございます、お嬢様!」


 丁寧に一点ずつ包んで、小さな布袋に納めて、両手で渡してくれた。


 俺は布袋を受け取り、軽く頭を下げて、チャーリーたち三人とともに露店を後にした。


 数歩歩いたところで、焼き鳥の屋台が目に入った。


 炭火の前に店主がしゃがんで、肉の串を黙々と焼き返している。肉の香りに甘酸っぱいタレの匂いが混ざり合って、遠くまで漂っている。


 チャーリーが一番先に反応した。俺たちの袖を引いて、目を輝かせながら叫ぶように言った。


「絶対おいしい!食べよ!」


 俺たち全員が頷いた。


 さっき王女レストランでたっぷり食べたけれど、歩き回った後は別腹だ。


 串を十数本と、搾りたての果物ジュースを四杯 —— りんごジュースとレモンジュースだ。


 屋台の横で売っていた、新鮮な果物を目の前で絞ってくれる飲み物だった。


 俺は指先にわずかに水魔法を集中させた。指先が淡い青の光を帯びる。


 果汁の杯にそっと触れると —— 常温だったものが、たちまち冷たくなった。夏の終わりにぴったりの冷たさになった。


 チャーリーとニーナの杯にも同じようにした。


 ユーナだけ、常温のままだった。


 今は冷たいものを飲めない体だから。


 ユーナはりんごジュースの入った杯を手に持って、俺の冷えたジュースを眺めた。チャーリーとニーナの冷えたジュースを眺めた。


 それから俺を睨んだ。


「……」


 言葉はない。ただ目だけが雄弁に語っていた。


(なんで俺だけ常温なの。)


 でも、ユーナはちゃんと小口で飲んでいた。一口ずつ、丁寧に。


 俺は笑いを堪えながら、肉串を一本手に取り、かじった。


 —— 旨い。


 甘酸っぱいタレが、鮮度のいい鳥肉にまんべんなく絡んでいる。


 強い香辛料の風味はないけれど、タレ自体がよくできていた。おそらくサトウキビ糖と黒酢を合わせたものだろう。


 肉の火入れも丁寧だ。炭火の前で長年積み上げてきた勘なんだろう。


 外は香ばしく焼かれ、中はジューシーでしっとりしている。一口噛めば肉汁が溢れ出して、タレの酸味と混ざり合う。


(すごい。こんな商業通りの片隅で、ここまでの仕事をしてる人がいるなんて。)


 俺は素直に感動した。


 チャーリーとニーナも口いっぱいに頬張りながら、幸せそうに目を細めていた。


 ユーナは相変わらず俺を睨みつけながら、それでも手の中の串はせっせと食べ進めていた。


 肉串を食べ終えて、ジュースも飲み干して、俺たちはまた歩き出した。


 十数分ほど経つと、一軒の古着屋が目に入った。


 間口はそれほど広くない。看板は少し色褪せていて、古着・仕立て専門と書かれていた。


 店先には何着かの衣服が吊るされている。洗いたてで、丁寧に繕われた衣服だ。


 俺は足を止めた。


(中世ヨーロッパか……。)


 そんな言葉が頭をよぎった。


 この世界は、地球でいう中世に近い。


 紡績の技術が発達していない時代では、衣服というものは相当に高価なものだった。


 地球でも、ジェニー紡績機が登場して、最初の産業革命が起きる前まで、布を織ることは手作業で、時間がかかって、誰でもできるものじゃなかった。


 一枚の服を作るには、綿や麻を収穫して、糸を紡いで、布を織って、裁断して、縫い上げる —— そのすべての工程が、手作業だ。


 この世界でも事情は同じはずだ。


 紡績機がない以上、衣服の値段は高い。装飾なし、素材も粗末なものでも、普通の庶民家庭にとっては決して安い買い物じゃない。


 まともな服が一着もない世帯も少なくないらしい。


 だからこそ、古着屋が商売になるのだ。


 着られなくなった服を回収して、きれいに洗って、専門の仕立屋に繕わせて、また売る。


 それだけのことなのに、ちゃんと成り立っている。


 俺は看板の文字を眺めながら、静かにそんなことを考えた。


(この世界にも、こういう知恵がちゃんとあるんだな。)

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