96. 炒め物の哲学とある想像の話
スプーンでご飯をすくい、キャベツを一枚とバラ肉を一切れ一緒に口に含んだ。
—— 旨い。
バラ肉は強火で炒められ、脂っこさがまるでない。むしろ香ばしくて、柔らかくてしっとりしている。
キャベツはその油脂をしっかりと吸い込んで、もともと淡泊だったはずの野菜に肉の旨みがまるごと染み渡っている。
食感はシャキッとしていて、噛むほどに甘みが出てくる。白ご飯との相性は —— 言うまでもない。
俺は思わず目を細めた。
(自分で開発したものって、なんでこんなに美味しく感じるんだろう。)
自画自賛だとわかってはいるが、これは本当に旨い。
それと同時に、ユーナの黒胡椒牛肉パスタも運ばれてきた。
こちらも熱々だ。
黒こしょうの濃厚な香りが席の端まで漂ってくる。
(この世界に、あれだけ充実したスパイスが揃っているとは。)
まあ、空間手環のおかげで、黒こしょうみたいな体積の小さな香辛料はそこまで値が張らない。
現実の中世ヨーロッパみたいな、こしょう一粒が金と同等 —— なんて狂気じみた相場にはなっていないらしい。
それでも安いとは言えないが、少なくとも庶民でもなんとか手が届く。
おかげでこの中華風パスタが成立した。
この料理の作り方はこうだ。
新鮮な牛肉を細切りにして、ピーマンと一緒に洋風のフライパンへ。中火でゆっくり炒める。
牛肉の色が変わり、ピーマンがしんなりしてきたところで、挽きたての黒こしょうをたっぷり振り入れて、全体に絡めながら炒める。
パスタは別鍋で茹でてから水を切り、少量のオリーブオイルで和えておく。
それを黒こしょう牛肉が入ったフライパンに投入して、弱火でじっくり混ぜ合わせる。
ここがポイントだ —— 新鮮な牛肉にはミオグロビンと水分が豊富に含まれていて、炒める過程で少量の肉汁が滲み出る。
この肉汁がパスタの焦げ付きを防ぐと同時に、麺一本一本に牛肉と黒こしょうの香りを染み込ませる役割を果たしてくれる。
仕上げにもう一度挽きたての黒こしょうをひとつまみ。
これで完成だ。
ユーナがフォークでパスタを少し巻き取り、口に運んだ。
目がすっと輝いた。俺のほうへ顔を向けて、しみじみとした口調で言った。
「お嬢さん、これ、本当においしいです。黒こしょうの香りが濃くて、牛肉もやわらかい」
俺は笑って横を向いた。
ニーナの牛肉フォーも、もうテーブルに届いていた。
澄んだスープが碗の中で静かに揺れている。
この世界では、清湯の料理はあまり見かけない。ハランド帝国の貴族の間でさえ、清湯はほとんど食卓に上らない。
それもそのはずだ。
地球でさえ、フランス式の清湯 —— コンソメの製法が料理書に登場したのは、十七世紀になってからだ。それ以前のヨーロッパ人は、もっぱら濃いポタージュを飲んでいた。
だからこのフォーが、エリクセン公爵領の料理人たちに衝撃を与えたのは当然だと思う。
見た目はシンプル。だが作りは丁寧だ。
スープは牛の骨をじっくり煮込んだ骨出汁。透明感があって、香りが深い。臭みがまるでない。
牛肉は新鮮なものを薄切りにして、熱々のスープに浸すだけで火を通す。余計な調理をしないぶん、肉の柔らかさと鮮度が最大限に活かされる。
調味料は塩だけ。余計なものは何も加えない。
それでいて、これだけ旨い。
スープが喉を通るたびに体の芯から温まって。
俺は自分の分のキャベツ炒めを食べながら、そんなことを頭の中でぼんやりと整理していた。
王女レストランを出ると、夕暮れ間際の風がほんのりと肌に冷たかった。
俺たち四人は石畳の道をゆっくり歩き、商店街へと入った。足取りが自然と軽い。
商店街は思っていたより賑わっていた。
道の両側にはずらりと露店が並んでいて、木製の棚の上に色とりどりの商品が並んでいる。見ているだけで目移りする。
小さな声の呼び込みが耳に届く。押しつけがましくなく、ちょうどいい賑わいだ。
数軒歩いたところで、アクセサリーの露店がチャーリーとニーナとユーナの三人を引き付けた。
三人は足を止めて、吸い寄せられるようにそちらへ駆け寄っていった。目がきらきらしている。
俺はやれやれと苦笑して、歩みを緩め、露店の傍らに立ってぼんやりと三人を待った。指先が無意識に袖口をなぞる。
退屈しているわけじゃない。ただ、こういうキラキラしたものに、俺はあまり興味が湧かないだけだ。
何気なく振り返ると、すぐ後ろに屋台があった。
店主が炭火の前にしゃがみ込み、魚の切り身を手際よく焼き返している。手さばきが慣れている。
少し興味が湧いて、近づいて眺めてみた。
店主は小さな陶器の器を手に持ち、処理済みの魚の切り身に、深い褐色のタレを一滴かけた。
鼻に届いたのは —— かすかな酸味を含んだ甘い香り。
(黒酢……?)
俺は目を細めた。
魚の臭みを取るのに黒酢を使うとは。酸味と旨みで臭みを中和するやり方だ。なかなかどうして、大胆な発想だ。
(この世界にも、こういうことを試す人がいるんだな。)
じんわりと親近感が湧いた。
再びアクセサリーの露店に目をやると、チャーリーたち三人はまだ熱心に眺めている。
指先が棚の上のイヤリングや首飾りをそっと撫でていて、目元に純粋な喜びが滲んでいた。
露店の品は高価な素材ではない。鉄や銅といった安価な金属がほとんどだ。
それでも職人の手が丁寧に入っていた。
ユリの花、バラ、小さな野鳥 —— そういった形に、一つひとつ細かく彫り込まれている。
彫刻の線は繊細で、造形が優美だ。素材が何であれ、思わず足を止めてしまうような仕上がりだ。
俺は決して、安い金属で飾りを作る職人を馬鹿にしているわけじゃない。むしろ逆だ。
冷たくて地味な金属を削って、花にして、鳥にして、命を吹き込む —— その技術と根気は、誰もが簡単にできることじゃない。
心から尊敬している。
ただ。
前世で三十年間、男として生きてきた。
思考も審美眼も、気がつけばすっかり男の子のそれで固まってしまっていた。
アクセサリーとか、装飾品とか —— 女の子が喜ぶようなものに、いまいちときめかない。いくら今は精緻な少女の外見をしていても、内側の感覚がまだ完全には切り替わっていない。
(まあ、でも。)
俺はぼんやりと思った。
この体の中を流れる体の変化が、じわじわと思考を変えていくのかもしれない。
確か地球でも言われていた。性の本能は、長い時間をかけて人の物の見方を変えていく。
思えば、五歳か六歳でこの体に入った頃は、本当に苦しかった。
毎朝スカートを着なければいけないのが嫌で、こっそり隠していたこともある。鏡を見るたびに違和感があって、ぐずぐず泣いたこともあった。
でも、十歳の目覚めを迎えた頃には。
鏡の中の、白金の長い髪をした自分を見て —— もうそこまで抵抗がなかった。気がつけばスカートの裾を整えるのが自然な動作になっていた。
これだけ変化しているんだから、いつか俺もあの子たちみたいに、小さな銅の飾りを見てときめく日が来るのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら、耳元の後れ毛をそっと指で払った。
—— そのとき。
一組の男女が、手を繋いで目の前を通り過ぎた。
男の子は薄いグレーのジャケット。女の子は同じ形の淡いピンク。
指をしっかり絡ませている。
二人は歩きながら時々顔を向け合い、何か小さなことを囁き合っては微笑んでいた。温かな空気が二人を包んでいて —— 側にいる俺にまでその甘さがじんわりと伝わってくる。
二人の背中が群衆に消えていくのを、俺はなんとなく目で追った。
胸の奥に、言葉にできない淡い感情が湧き上がった。
(俺も…… いつかああいうふうになるのかな。)
心の中でぽつりと考えた。
前世の男としての感覚を、少しずつ手放して。今の自分をもっと受け入れて。
知らない誰かの手を取って、肩を並べて、この商店街の石畳を歩いて —— そんな日が来るのかもしれない。
気がつくと、俺の思考はさらに遠くへと飛んでいた。
ふわりとした感覚の中で、腕の中に小さな重みを感じるような幻想が浮かんだ。
白金の長い髪。まん丸の頬。小さくすぼんだ口元。
均等な呼吸。やわらかい温もり。
(—— あれ、これ、誰……?)
その映像がくっきりしてきた瞬間、俺は現実に引き戻された。
「な、な、なんだなんだなんだ、何を考えてるんだ俺は!!」
はたはたっ、と両手を振った。脳内に浮かびかけていた泡のような幻想を、全力で叩き散らすように。
顔が燃えるように熱い。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。
まずい。思考が迷子になりすぎた。
だが問題が一つあった。
俺は今、商店街の真ん中に立っていた。
両手をはたはた振りながら、口の中でぶつぶつ言いながら —— 周囲の人間の目から見れば、完全に怪しい人間だった。
通りすがりの人々が、不思議そうに俺を見て、それからそっと迂回していく。
子供連れの大人が、幼い子の袖を引いて、小声で何かを囁く。子供がちらちらとこちらを見る。
「……」
俺はゆっくりと認識した。
やってしまった。
顔がますます熱くなった。恥ずかしさと情けなさが混ざり合って、頭の中がひどいことになっている。
両手でぎゅっと顔を覆った。指の間から熱が漏れる。
膝をわずかに折って、街角の壁際にそっとしゃがみ込んだ。頭をできる限り低くして、顔を膝に埋める。
目が合ったら余計恥ずかしい。とにかく今は誰にも見えないところに消えたかった。




