87. クラーケン来襲、そして母上の覚悟
三日目の正午。
太陽が真上に居座り、海面を眩しいほどの青白い光で染め上げていた。
俺は甲板の手すりにもたれ、両手でオーク材の椀を抱えていた。
椀の中には、船上でよく出てくる大鍋の煮込み料理。
もう片方の手にパンを半分かじって、一口煮込み、一口パン、のんびりと口へ運んでいた。
煮込みは新鮮な野菜と肉塊を一緒に煮たものだ。
まずいわけじゃない。
ただ、もう二日続けて同じものを食べていると、どれだけうまいものでも淡泊に感じてしまう。
ましてこの煮込み、そんなにうまくもない。
海風が吹くたびに塩気を帯びた潮の匂いが押し寄せてきて、口の中の味まで薄れてしまう。
俺は目の前に広がる、果てしなく静かすぎる海の水平線を眺め、思わず心の中でため息をついた。
——あと、どれだけ待てばいいんだ……。
速攻で片付くと思っていた討伐遠征が、まる二日、クラーケンの影すら見えない。
俺たちはまるで辛抱強い生き餌みたいに、この危険な海域をただ漂い続けている。
毎日やることといえば、当直、ぼんやり、ユーナと数局の囲碁(危うく俺の尊厳を根こそぎ持っていかれるやつ)、そして食って食って食い続ける船上の食事。
——いや、俺の魂は四十三歳のいい大人なんだが。
こんなに愚痴っていいものか、と思わないでもない。
でも公爵邸で丁寧に焼き上げたふかふかのパン、温かいスープ、柔らかなベッドのことを思い浮かべると。
この単調すぎる日々との落差に、隠せない恨みが頭をもたげてくる。
いつになったら帰れるんだ。ちゃんとした飯が食いたい。
俺は椀の中の少し冷めた煮込みをぐるぐると搔き回しながら、目の焦点をぼかし、「早く家に帰りたい」という感情の海にどっぷり沈んでいた。
——その瞬間。
どすん、と。
海面を突き破るような、重く、圧迫感のある水音が、静寂を引き裂いた。
俺は体がびくりと固まった。
ほぼ本能だった。
次の瞬間——
前方の海面から、おそろしいほど太い、ざらざらとした黒褐色の皮膚に覆われた巨大な触手が、水面を突き破って空へ跳ね上がった。
残像だけが目に映るほどの速さで、圧倒的な蛮力を乗せて——すぐそこにいた「メアリー・ローズ号」に向けて叩きつけられた。
「ドォン——!!」
衝撃音が鼓膜をびりびりと揺らした。
メアリー・ローズ号の左舷甲板は、あの触手の前では段ボールも同然だった。
瞬時に砕け、粉砕された。
木片が飛び散り、割れた板が次々と海に落ちていく。
甲板には大きな亀裂が走り、下の船倉が剥き出しになった。
俺の手の中のオーク材の椀が、空中で静止した。
——来た。
ついに来た。
「クラーケン襲来——!!」
後ろから切迫しながらも力強い叫び声が爆発し、俺の最後のぼんやりを一瞬で吹き飛ばした。
躊躇いは一切なし。
俺は手首をひと振りし、残っていたパンも椀の煮込みも、そのまま海に投げ捨てた。
オーク材の椀が海面に小さな飛沫を散らし、波に飲まれた。
同時に、俺の指先に柔らかくも鋭い白い光が灯る。
銀白の光が掌の上で凝集し、伸び、一本の細長い、光属性の魔力を帯びた長槍となって、しっかりと手の中に収まった。
槍が成形されたその瞬間、俺が着ていた青いワンピースも光を帯びた。
体に密着した、しっかりとした銀白色の鱗甲冑が全身を包む。
俺は長槍を握り締め、腕をまっすぐ持ち上げ、氷のように冷たく鋭い穂先を、まだメアリー・ローズ号に絡みついている巨大な触手へ正確に向けた。
体内の光魔法が腕を通って槍に流れ込み、穂先に刺さるような白光が凝縮される。
迷いは、一秒もなかった。
俺は指先をわずかに緩めた。
「行け——!」
腕ほどの太さの白い光束が、空気を引き裂く音とともに一直線に触手へ突き刺さった。
その太い触手に、骨まで届く深い傷が刻まれた。
光束が貫いた軌跡に、整然とした半円形の欠けが残る。
高温と魔力で焼き焦がされ引き裂かれた肉片が、ぼろぼろと落ちていく。
深蓝色の血液が一気に噴き出し、海面を染めた。
クラーケンはその一撃で完全に痛みを感じたらしく、絡んでいたメアリー・ローズ号をあっさりと手放した。
傷ついた触手が猛烈な勢いで引き戻され、水面下に没する。
残るのは、泡立ちながら渦巻く深蓝色の血の泡だけ。
あっという間に消えた。追撃の隙を与えてくれなかった。
俺は眉をひそめ、背後に光魔法で凝集した白い翼を広げ、甲板を蹴って宙へ舞い上がった。
空中に浮きながら、足元でうねり続ける海面を鋭く睨みつける。
心臓が速く打っていた。
——水中は、俺の戦場じゃない。
体にまとう少し重みのある鱗甲冑も、背後の空気があってこそ自在に動ける光魔法の翼も、水中での行動に向いていない。
なによりまずいのは、俺の光魔法属性が水と相性が悪いことだ。
一度水に入れば、威力も効率も射程も、ごっそり四分の一は削られる。
水の中でクラーケンと絡み合うなど、自滅でしかない。
空中で待ち構え、浮上した瞬間を狙うしかない。
俺は目線を鋭くし、水面のあちこちに走る不審な影を一つ一つ追いかけた。
次の隙を待つ。
だが、今回のクラーケンの狡猾さは俺の想定を大きく上回った。
遠距離から仕掛けてくるどころか、音も立てずに俺の真下へ潜り込んできた。
俺のすぐ足元の海面が、突如爆発した。
四本の同じく太い触手が一斉に水を割って飛び出し、潮のしぶきを引き連れ、俺が空中に立っている位置へ向かって猛然と薙ぎ払ってきた。
速い。
角度が意地悪すぎる。
俺が空中で反応できる範囲を、完全に計算に入れた軌道だった。
「まずい!」
心臓がひやりとした。
戦闘本能がほぼ同時に体を動かした。
翼を全力で横に叩き、体を側面に向けて急加速した。
気流が耳元をひゅっと鳴らし、触手が纏う風圧が真横をかすめていった。
あと少しで直撃だった。
鱗甲冑があっても、あれをまともに食らっていたら、ただでは済まなかった。
第一波をかわし、俺はすぐに体勢を立て直し、ブリュンヒルデの槍を逆手に持ち替えて、まだ水面に留まっている四本の触手へ突きを放った。
光属性の穂先は鋭く、そのうちの二本の触手の皮膚を難なく引き裂いた。
深蓝色の血が再び空中に飛び散った。
——しかし、クラーケンはそれも読んでいた。
俺の一撃が当たった直後、旧い勢いが消えて新しい勢いがまだ生まれていない、その一瞬の間隙を突いて。
五本目の巨大な触手が、側面の海面から音もなく躍り出て、致命的な圧力を乗せて横一文字に薙ぎ払ってきた。
その瞬間、俺の瞳孔がわずかに収縮した。
突進の勢いが強すぎた。速すぎた。
もう止まれない。
強引に制動をかけても、前に突っ込んでも、辿り着く答えは同じだ。
——この一撃を、まともに食らう。
空中では、地面ほど自由が利かない。
ひとつの、あまりにも明確な考えが脳裏を過った。
今回……まさか、やられるか?
俺はすでに、直撃を受けた瞬間にいかに被害を減らすかを計算しながら、槍を握る手に力を込めた。
——だが。
想像していた衝撃は、来なかった。
俺を薙ぎにきていた触手が、突然力を失った。
まるで一瞬で全ての気力を抜かれたように萎れ、真っすぐ海面へ向けて落下していく。
俺は一瞬呆然とした。
目を凝らすと——恐ろしいはずの吸盤は、もう目の前にない。
代わりにあるのは、平らで滑らかな、新しく切られたばかりの触手の断面だった。
誰かが、今のその刹那に——この触手を斬り落とした。
俺は勢いよく頭を上げた。
少し離れた中空に、母上のヘレナが浮かんでいた。
金色の長い髪が、風の中でさらりと揺れている。
手には漆黒の、一人分の背丈ほどある重い戦斧。
斧の刃には、深蓝色の血が数滴光っている。
今の、あの鮮やかな一撃は——紛れもなく、母上の手によるものだった。
母上の背に広がっているのは、俺と同じ白い光の翼ではない。
水魔法で凝集された、淡い青色の半透明の翼だった。
より大きく、より安定している。
一度羽ばたくたびに、水流の柔らかい音がついてくる。
俺の飛行魔法がまだ少し覚束ないのと比べると、翼の大きさも安定性も一枚上だった。
母上の顔色は、あまりよくなかった。
その眼差しには、はっきりとした怒りの色が宿り、足元の漆黒の海面をじっと睨みつけていた。
「よりによって、私の娘に目をつけるとは——」
ヘレナの声は大きくはなかった。
だが、一言一言に、聞く者の心を粟立てる威圧感が滲んでいた。
「死にたいのか。」
俺は空中に浮いたまま、胸に温かいものが込み上げると同時に、遅れてやってくる恐怖が骨の髄まで滲みてきた。
もし今の母上が一瞬遅れていたら——結果は、考えたくもない。
足元の海面が、また波立った。
クラーケンは完全に怒ったのか、あるいは俺が水中に踏み込まないと見切って開き直ったのか、もう隠れようとしない。
巨大な体躯が水面下でどろりと浮き動き、小さな目がぎらぎらとした凶暴な光を湛えてこちらを見上げている。
さらに頭が痛いことに、母上に斬り落とされた触手の断面から、目に見える速さで細い管のような新しい触手の芽が吹き出していた。
この個体の再生力、規格外だ。
——だから、あれほど臆面もなく触手を繰り出してきたわけか。
俺が水中に潜れない以上、どれだけ触手を攻撃しても本体には届かない。
触手など、再生すれば消耗品も同然。
本体さえ無事なら、いくらでも使い捨てられる。
ただし。
クラーケンは俺のことしか計算に入れていなかった。
——母上を、読み違えた。
ヘレナはクラーケンの算段を一目で看破したらしく、鼻を小さく鳴らした。
手の中の黒い戦斧を収め、代わりに、もう一方の空間リングへ手を差し入れた。
次の瞬間。
全体に金が流れ、複雑な波紋の浮き彫りが刻まれた三叉戟が、母上の手の中に現れた。
陽光がその刃に降り注ぎ、黄金の光が流れるように走る。
気が満ちていた。
これは母上が持つ、伝説級の武器のひとつ。
——ポセイドンの三叉戟。




