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86. 囲碁という名の発明と、崩れかけた尊厳

 部屋は思っていたより、ずいぶん狭かった。


 中央には海図を広げるための、大きな正方形の木製テーブルが置いてある。


 それだけでスペースの半分以上を占めており、残った通路は二、三人がどうにかすれ違える程度だ。


 四方の壁には、巻いた海図やコンパス、それに俺には名前も分からない航海具がいくつか掛けてある。


 長年の船旅が染みついたような、落ち着いた雰囲気が漂っている。


 広くはないが、少なくとも空気は澄んでいる。


 外の息苦しい悪臭とは無縁だ。


 俺は思わず息をついた。「やっと落ち着ける場所があった。贅沢は言えないよね。」


 ユーナも笑いながら部屋に入り、物珍しげに辺りを見回している。「初めての船長室ですね。なんだかとても厳かな感じがします。」


 俺は大きなテーブルに近づき、滑らかな天板にそっと手を乗せた。


 そのとき、ふと一つの考えが頭に浮かんだ。


 こんな立派なテーブルがあるのに、使わないなんて、なんてもったいない。


 どうせ暇なのだから、空間リングに仕舞っていた物を取り出して、時間でも潰そうか。


「ちょっと待ってて、いいものを見せてあげる。」


 ユーナに向かって意味ありげに笑い、手首の空間リングに軽く触れた。


 微かな魔力が流れた次の瞬間、三つの品が音もなく天板の上に置かれた。


 黒い石の駒が一盛り。


 白い石の駒が一盛り。


 そして、細かい格子模様が彫られた正方形の木の盤。


 これは俺がこの世界に来てから、前世の記憶を頼りに再現した囲碁だ。


 この世界には娯楽が驚くほど少ない。


 魔法の稽古か、読書か、領地の細々とした雑用か —— 気晴らしになるものがほとんどない。


 なら自分で作ろうと、前世で見たボードゲームを一つずつ再現し始めた。


 その第一作目は、この囲碁だ。


 この世界で普及しているチェス系の盤遊びは、駒ごとに動きが異なり、ルールが複雑だ。


 それに比べれば、囲碁のルールはずっとシンプルだ。


 自分の石を生かしながら相手の石を囲んで取り、最終的に盤上に多くの地を取った方が勝ち。


 覚えやすく、それでいていつまでも飽きずに遊べる。


 いずれもっと精巧に作り込んで各都市に広めれば、きっと大人気になる —— 俺はずっとそう考えていた。


 ユーナの視線はたちまちテーブルの上の珍しい品に引き寄せられた。


 目をきらきらと輝かせ、好奇心いっぱいに手を伸ばし、黒い駒を一枚つまんで指先でころころと弄んだ。


 俺が丁寧に磨き上げた駒は丸く滑らかで、触れるとひんやりとして心地いい。


「クローディア様、これは何ですか?とても面白そうですね。」


「これは囲碁っていうの、私が自分で考えた遊びよ。」俺はちょっと得意げに笑った。


「さ、やり方を教えてあげる。すごく簡単だから。」


 俺はユーナを誘ってテーブル脇に座らせ、盤を整えてから丁寧にルールを説明した。


 石の置き方、「気」の概念、石の取り方、勝敗の数え方 —— 順を追って分かりやすく。


 ユーナは本当に賢い。


 真剣な眼差しでしっかり聞き、時折小さく頷きながら、的確な質問を挟んでくる。


 一度説明し、見本の対局を一局見せただけで、完全に理解したようだ。


「なんとなくコツが分かりました!難しくはなさそうですけど、すごく面白そう。」ユーナは早く遊んでみたくてうずうずしている。


「じゃあ試してみよっか?」俺は笑って提案した。


 初心者に配慮し、黒石をユーナの前に差し出した。「あなたが黒で先番ね。私は白。」

「はい!」


 ユーナは第一手の黒石を拾い上げ、少し緊張した面持ちで盤の上にかざし、しばらく思案してから盤の真ん中にそっと置いた。


 真剣で少し緊張した表情が、なんだかかわいらしい。


 俺は心の中でそっと微笑んだ。


 対局が始まった。


 ユーナはルールを理解しているものの、初めての対局だけに、どうしても目先の一手二手しか考えられない。


 布石や守りの構えまではまだ及ばない。


 俺は前世からの経験を活かし、余裕を持って主導権を握り、じりじりと陣地を広げて彼女の石をほぼ生き場のない状態に追い込んだ。


 第一局 —— 圧勝。


 盤の上の様子を見たユーナは、悔しそうに頬を膨らませた。「うう…… 負けました。もう一回!さっきはまだ慣れていなかっただけです!」


「はいはい、もう一回。」俺は笑いながら石を片付けた。内心、まったく危なげない勝負だった。


 第二局。


 ユーナは目に見えて上達していた。


 自分の石を守ることを考え始め、俺の陣地の端を囲おうとする動きも見せ始めた。


 まだ経験は浅いが、上達のスピードは驚くほど速い。


 この局は、前局より少し手こずった。


 そして第三局。


 俺の表情から、次第に余裕が消え始めた。


 ユーナはまるでスポンジのように、前二局の手筋とコツをすべて吸収していた。


 俺が使った手を、そのまま返してくる。


 —— ちょっと待って。


 俺は内心、ひやりとした。


 それまでの軽い気持ちを静かに抑え、真剣に盤と向き合い始めた。

 それでも、築き上げてきた優位がじわじわと彼女に侵食されていく。

 全身の神経を盤に集中させ、額にじっとりと汗がにじみ始めた頃。

 船長室の扉が、そっと押し開けられた。

 顔を上げると、船長が戻ってきた。

 船の指揮者として、海図と照らし合わせて航路を確認しなければならない。


 船長は部屋に入るなり、テーブルの上の囲碁道具に目を留め、興味深そうな表情を浮かべた。


 テーブルの端に寄り、黒白入り乱れた盤面をしばらく眺めてから、笑みを向けてきた。


「おやおや、これはなかなか面白そうなものですな。クローディア様、これは一体何でしょうか?」


 俺は手を止め、礼儀正しく顔を上げた。「船長さん、これは囲碁といいます。私が考え出した盤上遊戯です。」


 続けて、できるだけ分かりやすい言葉で基本ルールを説明した。


 予想外なことに、船長は説明を聞き終えると目を輝かせた。


 何か掘り出し物を見つけたような様子だ。


「これはなかなか面白い遊びじゃないですか。どこで入手できるんですか?船上には、こうした暇潰しになるものがなかなか無くてねえ。」


 俺は思わず小さく笑った。


「これはまだ作ったばかりの試作品です。外には流通していません。もしよければ、下船の際にこの碁盤を船に置いていきましょうか。」


「それは遠慮しておきます。」船長は手を振り、豪快に笑った。


「大人がわざわざ若い娘から遊び道具を譲り受けるなんて、無粋な真似はできません。


 お二人でここで楽しんでください。私はまだ航路調整の指揮に戻らねばならないので、邪魔はしませんよ。」


 そう言って、船長はもう一度盤面を笑顔で眺めてから向きを変え、部屋を出ていった。


 扉の外からは、水夫たちに指示を出す落ち着いた声がすぐに響いてきた。


 部屋に静寂が戻る。


 俺は再び盤に集中した —— 内心で思わず呻いた。


 ほんの少し気が散った隙に、ユーナの石がまた一角を広げていた。


 彼女の碁風はどんどん鋭くなっている。


 一手一手が俺の陣地に食い込み、築いてきた優位がほぼ崩れかけていた。


 このまま続ければ、本当に負けるかもしれない。


 —— 三時間も経っていない初心者に。


 前世の記憶を持ち、本来なら格が違うはずの俺が。


 俺は歯を食いしばり、全神経を盤に注ぎ込んだ。


 一手ごとにじっくり考え、守りを固め、反撃し、崩れかけた盤面を少しずつ立て直す。


 そのとき、船長室の扉がまた静かに開いた。


 聞き慣れた穏やかな声が流れ込んできた。


「あらあら、皆ここにいたの。目が覚めたら誰もいないから、どこへ行ったかと心配したわよ。」


 顔を上げると —— 母上のヘレナだった。


 片手に塩漬けハムとチーズを挟んだパンを持ち、もう片方の手には水の入った水差しを提げている。


 口元に小さなパン屑がついていた。


 寝起きのままここへ来て、食事も途中で切り上げたらしい。


「母上。」俺はすぐに声をかけた。


 ユーナも振り返り、笑みを向けた。「ヘレナ様、船室の臭いがひどかったので、こちらで遊ばせていただいていました。今は囲碁をしているんですよ、一局いかがですか?」


 母上はパンを一口かじりながら、のんびりと首を振った。


 口調に少し意地悪な雰囲気がにじんでいる。


「遠慮しておこうかしら。この前、覚えたてのくせに一度勝ったら、ずいぶん機嫌を損ねて長引いたもの。一局付き合うのも骨が折れるわ。」


「……」


 俺はその場で頬を膨らませ、恨めしげに母上を睨んだ。


 人前でよくそんなことを言えるものだと。


 —— あんまりだ!


 ユーナはそばで笑いをこらえ、肩をふるふると揺らしている。


 母上は微笑んだまま俺を見つめていた。


 瞳にあふれているのは、隠しようもない溺愛の色だ。


 空いている席を見つけて腰を下ろし、パンをかじり水を飲みながら、悠々と俺たちの対局を見物し始めた。


 母上に横からからかわれたせいか、かえって俺の頭はすっきりと落ち着いた。


 最後の数手を、歯を食いしばりながら一手一手慎重に打ち納めた。


 終局して石を数えてみると —— 俺の勝ちだった。


 ほとんど誤差と言える僅差ではあるが、確かに俺の勝ちだ。


 俺は長く息をつき、そのまま椅子にぐったりともたれた。


 危なかった……。


 あと少しで、囲碁を覚えてまだ三時間も経っていないユーナに負けるところだった。


 ユーナは結果を見て、悔しさを隠しきれず、俺をじっと見つめた。


 目をぎらぎらと輝かせている。「もう一局!あと一局だけ!もう少しで勝てたのに!」


 その闘志に満ちた瞳を見て、俺の胸にひしひしと危機感が押し寄せた。


 漠然とした予感が確信に変わった。


 次の一局、本気で負ける。


 絶対にやってはいけない。


 俺は碁盤を死守しながら、首をぶんぶんと左右に振った。


 態度は断固として揺るがない。


「もうやらない!今日はここまで!これ以上続けたら頭が痛くなる!」


 ユーナはなおも詰め寄り、少し甘えるようで挑発めいた口調で言った。「クローディア様って、もしかして負けるのが怖いんですか?」


 俺の頬がかすかに熱くなった。


「そんなことない!ただ…… ただ体力を温存しておきたいだけ。夜にクラーケンが現れれば戦闘になるんだから!」


 どんなに懐柔され、どんなに挑発されても、俺は一線を死守した。


 新しい一局だけは絶対に受け入れない。


 笑い事ではない —— 尊厳というものは、守れる一秒でも長く守るものだ。


 そして、俺たちが討伐の標的としているクラーケンは。


 まるでこちらをからかうように、一日中大人しく深海に潜んだまま、姿を現すことはなかった。


 つまり、船上でもう一日過ごすしかない。


 つまりまた、囲碁を取り出すわけにはいかないということだ。


 崩れかけてかろうじて残った、俺のわずかな尊厳を、死んでも守り通さなければならない。

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