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85. 傷跡と恩義、そして松ふわパンの奇跡

オーレリアンが口を開いた。


声に、感謝の色がにじんでいた。


そう言いながら、彼はゆっくりと手をのばし、着ていたタンクトップの左側をめくった。


左胸のあたりに、長くて目立つ、大きな傷跡が姿をあらわした。


傷跡は色が濃く、縁がざらついてごつごつし、うねうねと彼の引き締まった胸筋に這い回っている。

一目でわかる。


当時、相当な重傷だったのだろう。


高位の回復魔法がなければ、生きていられなかったはずだ。


「あのとき、俺は戦場から逃げてきた重傷の悪魔に遭遇したんですよ。」


彼はゆっくりと、昔の話を語りはじめた。


当時、彼はまだ若かった。


二十五歳、血気盛んで、自分の実力を過信していた。


傷ついて孤立した悪魔を見つけると、剣を握ったまま自ら突っ込んでいったという。


—— いかにも若さゆえの無謀さだ。


だが甘く見すぎていた。


悪魔の力を。


振り下ろした一撃は相手に傷ひとつつけられず、逆に自分の剣がその場で折れた。


これが重傷の悪魔の怒りに完全に火をつけた。


鉄のように硬い悪魔の尻尾を勢いよく振り上げ、凄まじい蛮力を乗せて、彼の胸板めがけて容赦なく叩きつけた。


当時、堅固な板金鎧を着込んでいたにもかかわらず、悪魔の理不尽な力はそれすらものともしなかった。

板金鎧はその場で砕け散り、鋭い破片が深々と体に刺さった。


特に尻尾が直撃した胸元は、力任せに大きく裂け開いた。


鮮血がみるみるあふれ出し、鎧と地面を赤く染めていく。


あの年、彼はまだ二十五歳だった。


これからの未来にいくらでも期待を抱けるはずの年齢だ。


流れ続ける血を見つめながら、生命力が少しずつ失われ、四肢がじりじりと冷めていくのを感じ —— そのとき彼の頭に残ったのは、ひとつの問いだけだった。


俺はここで死ぬのか。


故郷にも戻れず、家族にも会えないまま。


絶望と恐怖に呑まれ、すべてが終わるかと思ったその瞬間、転機が訪れた。


凄まじい威力の火球術が正確に悪魔を直撃した。


轟く炎が瞬く間に悪魔を包み込み、瞬く間に真っ黒な炭と化した。


続けて、「白髪将軍」と称されるアルフレッドが、彼のそばへと駆けつけた。


父上は二言もなく、回復薬を彼の口へ強引に押し込み、すぐさま回復魔法の詠唱を始めた。


柔らかく温かな魔力が彼を包み込み、失われかけた生命力がじわじわと引き戻されていった。


あの、限界まで迅速な救助があったからこそ、彼は死の淵から戻ってこられた。


ただ、失血が多すぎたため、そのまま戦い続けることはできなかった。


後方支援員によって後方へ送り返され、療養することになった。


ライク郡の魔物が完全に討伐されるまで、普通の生活には戻れなかった。


この息を呑むような昔話を聞き終えて、俺の胸の中でなにかがそっと揺れた。


自然と、口元に柔らかな笑みが浮かんだ。


「そんなことがあったんですね…… 父上って、意外とかっこいいじゃないですか。」


俺の中の父上の印象は、いつも厳格で落ち着いていて、めったに笑わない姿ばかりだ。


戦場での姿を人から聞く機会など、ほとんどなかった。


こうして実際に経験した人の口から聞くと、その姿が急に生き生きとして、大きく見えてくる。


オーレリアンはすぐに、うんうんと力強くうなずいた。


眼差しに、敬慕と感謝の色があふれていた。


「だから今回、クラーケン討伐に乗り出すのが、ヘレナ様とアルフレッド様のお嬢様だと聞いたとき。


家族にも碌に知らせないまま、港に走って乗船名簿に名前を書いてしまいました。


最初は年齢が四十で上すぎると嫌がられましたが、粘りに粘って、それにこの海域には詳しいということもあって、最後は乗せてもらえましたよ。」


彼は俺を見つめ、声に安堵と期待が混じっていた。


「領主様のお嬢様が、こんなに思いやりがあって、心の温かい方で。


エリクセン領の未来は、きっと希望に満ちています。


俺は今ここで死んでも、思い残すことはないですよ。」


俺はすぐに眉を寄せ、軽く遮った。


声に、少しだけ本気の色を滲ませた。


「そんな気軽に死ぬとか言わないでよ。」


オーレリアンはきょとんとした後、はっはっはと大笑いした。


何度も頷いて、不吉なことは二度と言わないと約束してくれた。


その後、彼は家のことも話してくれた。


かわいい娘が二人いるらしい。


まだ幼く、無邪気で元気いっぱいだという。


軍を退役してからは故郷に戻り、普通の漁師として暮らしている。


海に出て魚を獲りながら、一家四人を養ってきた。


裕福ではないが、穏やかで幸せな日々だった。


ところがここ数ヶ月、クラーケンが頻繁に出没するようになり、海が危険に満ちた。


一度出港すれば、二度と戻れないかもしれない。


自分の命を賭けることも怖かったが、それ以上に、家族を残して消えることが怖かった。


やむなく船を留め、陸に上がるしかなかった。


収入の大きな柱がなくなり、暮らしが一気に苦しくなった。


幸い、退役時にもらった手当が少なからずあった。


切り詰めれば、四人の生活はなんとか維持できる。


俺は静かに聞きながら、時折うなずいて相槌を打った。


この実直で堅実で、家族思いの老水夫に、胸の中でじんわりと親しみと同情が湧いてきた。


英雄でもなんでもない。


ただ、家族を守りたい、故郷を守りたい、それだけの普通の人間だ。


時間は気がつけばゆっくりと流れ、海風が体に触れてひんやりとする。


陽光が少しずつ頭上まで登ってきて、甲板全体をぽかぽかと照らし始めた。


俺がふと我に返ったとき —— お腹が絶妙なタイミングで、くう、と軽い音を立てた。


静かな雰囲気の中で、ひときわはっきりと聞こえた。


頬がかすかに熱くなった。


ずいぶん前から腹が減っていたことに、今さら気がついた。


そのとき、見慣れたピンク色の人影が、甲板の入口に現れた。


ユーナがいつの間にか起きていて、こちらへゆっくりと歩いてくるところだった。


俺とオーレリアンを一目で見つけると、ふわりと微笑んで、軽い足取りで近づいてきた。ちょうどよいタイミングで、俺たちの会話に割って入った。


彼女が来るのを見て、俺はようやくさっきの追憶と雑談から完全に引き戻された。


オーレリアンも空気を読んで、笑いながら立ち上がり、俺たちふたりに声をかけた。


「ちょうどお昼時ですし、一緒に食堂へ行きませんか?」


俺とユーナは顔を見合わせ、どちらの目にも「賛成」の色が浮かんでいた。


笑って頷き、彼の後について食堂へ向かった。


昼の食事は朝とほぼ変わらない。


相変わらず、煮込み料理とパンだった。


俺はいつもの流れで、自分の分を取りに行った。


手に渡ったものを見た瞬間、胸の奥がわずかに沈んだ。


また、あの石のように硬くてずっしりした、歯が立たない固いパンだった。


多少うんざりしたが、何か言うつもりもなかった。


船上では食べ物があるだけましだ。


ところが、そのやり取りを全部見ていたオーレリアンが、表情をわずかに曇らせた。


彼にはわかっていた。


船内に、俺のことを「新入りで、年が若い、見た目がおとなしい」と見ている連中がいること。


俺のことを、船のしきたりに不慣れな、いいように扱える小娘だと思って、わざと一番粗末なパンを回しているのだと。


オーレリアンは大声を上げることも、騒ぎ立てることもなかった。


ただ黙って、パンを配っている人間のところへ歩いていき、ひと言ふた言、低い声で何かを言った。


相手もこのベテラン水夫のことは知っていたのだろう。


言い訳もせず、おとなしく、発酵がちょうどよく仕上がった、ふわりとした軟らかいパンに取り替えてくれた。


俺はその温かくてふわふわした、小麦の香りが漂うパンを両手で受け取り、胸の中に濃い感謝と温もりが込み上げてきた。


「本当に…… ありがとう、オーレリアン。」


彼はにかっと笑って、ひらひらと手を振った。


口調は気さくだった。


「たいしたことじゃないですよ。うちのお嬢様に、毎日石みたいなパンを齧らせるわけにはいかないでしょう。」


昼食が終わり、甲板の日差しがちょうどよく暖かい。


だがオーレリアンに俺たちにつき合う余裕はなかった。


船が航路を修正し、クラーケンがより頻繁に出没する海域へ深入りする必要があった。


水夫全員が作業に就かなければならない。オーレリアンも例外ではない。


彼はさっと体についたパンくずを払い、俺とユーナに照れくさそうに笑いかけ、少し申し訳なさそうな口調で言った。


「クロディア様、ユーナ様、俺は仕事に行かなきゃいけないんで、航路調整の作業が立て込んでいるので、お二人に付き合えなくなりますが。」


俺は頷いて、手を振った。「早く行って、気をつけてね。」


「片付いたらまたお話ししましょう。」


そう言い残すと、彼はくるりと向きを変え、大股で帆柱の方へ走っていった。


あっという間に忙しく動きまわる水夫たちの中に溶け込んで見えなくなった。


甲板がどんどんにぎやかになってくる様子を眺めながら、俺は思わずユーナの袖を引っ張った。


「ここから離れよう。帆柱を回す作業が始まると、うっかりぶつかれたら大変だし、邪魔になるから。」

ユーナは俺の視線を追って見渡した。


屈強な水夫たちが力を合わせて厚い帆布を引き、帆柱がぎぃぎぃと軋む音を立てている。


確かに、近寄れる場所ではない。


すぐに同意を示し、俺の後について船室の方へ引き下がった。


ところが下層の船室に入った途端 —— ラム酒、汗の臭い、湿った木の気、それに何とも言いようのない体臭が混ざり合って押し寄せてきた。


思わず眉をきつく寄せた。


俺とユーナは顔を見合わせ、互いの目の中に「無理」の二文字が浮かんでいた。


「この臭い…… ちょっと刺激が強すぎない?」と俺はこっそり呟いた。


ユーナも静かに鼻を押さえ、困り顔だった。「少し中にいただけで、臭いが体に染みつきそうね。」


部屋に戻ろうにも、母上がまだ寝ているのを思い出した。


昨夜も満足に眠れていなかった。


せっかく昼寝ができているのに、俺たちが乗り込んでドアを開けたり話し声を立てたりすれば、きっと目を覚ます。


しばし、俺たちはどこへも行けない、ちょっと宙ぶらりんな気分になった。


廊下に立ってしばらく考えていると、ふと目が輝いた。


「そうだ、船尾の船長室に行こう。


船長は今頃甲板で指揮しているはずだし、しばらくは戻らないと思う。あそこで少し休めば、少なくとも臭いはここよりずっとマシなはず。」


ユーナはすぐに頷いた。「ここで臭いを嗅ぎ続けるよりはずっといいわ。」


俺たちは狭い廊下をたどって船尾へと向かった。


足元の板が、ゆるやかに軋む。


船全体が、波に合わせて静かに揺れていた。


この穏やかな揺れは、慣れてくると不思議なほど安心感をもたらす。


船長室の扉は錠がかかっておらず、そっと半開きになっていた。


俺はそっと手をのばし、軽く押した。


扉は音もなく、静かに開いた。

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