84. 波打際の誘惑と、過ぎ去りし日の記憶
俺は静かに、味気ない朝食を平らげた。
船上のきまりに従い、茶碗とスプーンを指定の食器返却場所にそっと置く。
ハンカチで口元を拭いてから、食堂をあとにして歩き出した。
狭い木製の階段をのぼり、甲板へと続く扉を押し開ける。
一瞬、塩気を含んだ清涼な海風が頬を撫で、船室にこもった淀んだ蒸し暑さを一気に吹き飛ばした。
見渡す限り、水平線の先までがすべて紺碧の海原。
空には雲ひとつなく、陽光が海面を照らしてきらきらと揺らめき、目が刺さるほどだ。
一晩の安稳な航行を経て、出発時のライク郡はとうに視界の彼方に消え、陸地の輪郭すら見えなくなっていた。
—— つまり、俺たちは正式にクラーケンの頻出海域に足を踏み入れたということだ。
今回の出海の目的はふつうの航行ではない。
クラーケンをおびき寄せ、合力してこれを討伐するためのものだ。
だから船長は全速前進を命じることはなく、帆を半分だけおろし、船を既定の航路に緩やかな速さでゆっくりと航行させていた。
静かな餌のように――クラーケンの襲来をじっと待ちつづけているのだ。
甲板はそうにぎやかではない。
水夫たちがロープや帆を点検したり、海面を監視したりして、せわしなく動きまわっている。
俺はひとの作業の邪魔にならない片隅を見つけ、ひとりですわって、果てしなく広がる大海原をながめていた。
当直の要求はかんたんである。
俺たちは正式な水夫ではないから、船内巡回・綱引き・見張り番といった重労働はしなくてよい。
ただ意識をしらべ、警戒をゆるめず、クラーケンがあらわれたら即座に戦闘態勢にはいればいいだけだ。
だから、ひまな時間がぐっとふえてしまった。
することもなく、ほんとうにリラックスしてねむってしまうわけにもいかず、退屈がじょじょに這い上がってくる。
俺は退屈しのぎに手をあげ、指先で肩にかかる白金色の長い髪をそっと弄った。
髪がやわらかくてなめらかで、指にまといつくようにぐるぐると巻きついていく。
巻いているうちに、脳裏にふとひらめきがうかんだ――
どうせヒマなんだから、自分の髪型をちょっと変えてみる?
この考えが浮かんだ瞬間、もうおさえきれない。
俺はすこし精神を集中させ、指先に微弱だが安定した加熱魔法をまとわりつかせた。
それから、一筋また一筋と髪を指に巻きつけ、魔力を使ってゆっくりと加熱・成型していく。
海風がそっと髪を撫で、陽光が髪にふりそそぎ、ぽかぽかと温かい。
俺はあわてず、一筋また一筋と巻いていく。角度を調整しながら、各巻きが自然できれいな弧形になるようにした。
だいたい三十分ほど経過したあと、ようやく手をやめた。
もとのまっすぐな長い髪は、もうひとわまたひとわと軽やかで、海の息吹をまとったウェーブ巻きになっていた。
ふんわりとしてやわらかく、仕上がった髪型を見て、俺はむねのうちにちいさな得意げな気分を覚え、ちいさな作品を作りあげたような気分だった。
俺は空間リングからちいさな鏡をとりだし、まじまじとうつりをみた。
碧い藍色の瞳が日光のしたでとりわけ透き通って見え、ウェーブ巻きが頬をちいさくみせ、いつもより少し生気がそなわっているようだ。
思わず左右にちいさく首をかしげ、鏡のなかのじぶんをあちこちから角度をかえてみつめた。見れば見るほど満足だ。
「やっぱりさ、俺はなかなかかわいいじゃない。」
俺はちいさく鏡にむかってつぶやき、口元がおさえきれずにあがってしまう。
成熟した魂をもつものとしては、こうやって外見にこだわるのはちょっと恥ずかしいが。
でもこの体は若い精霊の少女だ。こうしたちいさなナルシズムは、かえって真実みのある性格をひきだす。
鏡にむかってうっとり自分の姿を眺めている、この愉快な気分の最中――
さわやかで張りのある声が、ふいにわき上がってきた。
「おお、お姫様! 今日の髪型、なかなかいいじゃないか! これはなんていうスタイルなんだ?」
俺は驚いてとびあがりそうになり、あわてて鏡をしまいこみ、顔をあげてそちらをみた。
ノースリーブの胴着をきた水夫がわきに立っていた。肌は常年にわたる海風と陽光に焼けて、健康的な小麦色で、筋肉の線が流麗でがっしりしている。
長年海上でいそがしく、経験豊富なベテラン水夫といった風体だ。
彼の眼差しは落ち着き、気質は穏やかで、成熟して信頼できそうな感じがした。
だが気になったのは、近くで作業していた数名の水夫が、彼が俺に話しかけているのをみると、声をひそめて議論しはじめたことだ。
「この人、死にたいのか」といった表情を浮かべるものもいて、物見遊山しつつ心配そうな空気がただよっている。
俺は思わず心の中で軽いため息をついた。
なんだっていうんだ。俺と話すだけで、まるで俺が彼らを食べてしまうみたいじゃないか。
俺はそんなに、高慢で脾气のわるい、すぐに剣をぬいてひとを傷つけるような悪役令嬢なのか?
内心で唇を尖らせつつ、表面は淡々とした態度を崩さない。
その水夫も、自分の口調が少し馴れ馴れしかったことに気づいたのか、顔にうかべていた笑みをひきしめ、すこし真剣な様子になって俺にむかってちいさくからだをかがめ、誠実な態度で言った。
「あ、いや、自己紹介がおそくなりました。オーレリアン・ヘックといいます。ライク郡の地元出身です。」
そう言って、彼は俺に手を差し出た。
彼の手は大きく、骨格がくっきりとして、手のひらは厚みがあって、見ただけで安定感と安心感がありそうだ。
だが周りの水夫たちの議論はやまず、かえってあきらかになってきた。
彼らはいまもちいさなこえで「この人、終わったな」「公爵家のお嬢様に話しかけるなんて」「これからさんざん痛い目をみるぞ」などと言っている。
オーレリアンもそれを聞いたのか、差し出された手がちいさくとまって、顔の笑みがこわばり、眼差しにちいさな当惑とためらいが浮かんだ。
「いや、失礼しました。おじゃまでしたら、これで……」
彼の詫びのことばがおわるまえに、俺はもう自ら手をのばし、彼がひっこめようとしていた手をしっかりとにぎっていた。
この時、俺ははっきりと実感した。自分の手が、なんてちいさなことか。
俺の掌のサイズは、彼のものの半分しかない。
彼の手は粗く、指の関節には分厚い角質が張り巡らされ、さわるとちょっとざらざらしている。
だがよくわかる。これは長年にわたる重労働のあとがしみついた手なのだ。
俺は彼にむかってちいさく笑い、口調は誠実で穏やかで、少しも貴族然とした態度はなかった。
「周りの連中の言うことなんて気にしなくていい。俺は別にお前と話すのは嫌いじゃないから。」
そう言って、俺はちいさく首をかしげ、さっきから議論しつづけている水夫たちに穏やかな眼差しをくれた。
俺の眼差しはそう凶狠ではないが、精霊と公爵の娘としての気品がただよう。
その眼差しをうけると、水夫たちはいっせいに声をひそめ、あわてて背をむけてせわしなく作業に假装し、もう盗み見たり噂したりすることはなくなった。
オーレリアンの顔の当惑がやっといくぶんやわらぎ、あきらかにほっとした様子だった。
俺は彼にむきなおり、興味あふれる様子で自分の新しい髪型をみせながら、口調にちいさな得意げな色をみせた。
「これのこと? これはウェーブ巻きっていうんだ。海面にできる波のように見えるでしょう?
俺は加熱魔法を使って、ちょっとずつ巻いて成型したの。
魔法がなかったら、金属の髪巻きを使ってゆっくり加熱してもいいけど、温度のコントロールには気をつけないと、火傷しちゃうけどな。
ほら、数分保てば、こうして固定されるの。」
俺は巻き上げた髪の一筋をとり、彼のまえにさしだして、思いきってさわってみるようさそった。
オーレリアンはあきらかにとまどっている。目をちいさくみひらき、とても驚いているようすだった。
彼はおそらく、これまで一度も、尊い身分の公爵家の令嬢が、みずから髪をさしだしてふつうの水夫にさわらせるなんて、考えたこともなかったのだろう。
彼の手は本能的にさきにうごきかけたが、ふと身分の差や礼儀のことをおもいだしたのか、またきちんとひっこめて、なんだか落ち着かない様子だった。
俺はちょっと不解で、またちょっとおかしかった。
「俺が触ってもいいって言ってるのに、なんでひっこめるの?」
俺はもう一方の手をのばし、彼がひっこめようとしている手首をつかんで、そのまま自分の髪の上にひっぱっていった。
髪がやわらかく巻かれていて、花の香りと陽光の温度がした。
オーレリアンはもうあらがわず、指先でそっと俺のウェーブ巻きにさわった。動作はおずおずとして、なにか高貴なものを壊してしまわないかとでもいうようだった。
次の一瞬、彼はとつぜん低く笑いはじめた。笑い声はさわやかで温かく、少しも悪意はなかった。
俺は首をかしげて彼をみた。わけがわからず、全然おかしなところがわからない。
オーレリアンは笑いをおさめ、眼差しに几分の感慨と懐かしさをみせ、口調も穏やかになった。
「まさか、アルフレッド様の娘さんが、身分に関わらず我々のような者とも親しく接してくださるとは思いもしませんでした」
父の名を聞いて、俺はちいさく息をのんだ。
「お前…… 俺の父上を知ってるのか?」
オーレリアンは重くうなずき、眼差しを遠くの果てしなく広がる海原にむけ、遠いそして深い記憶のなかに沈みこんだようだった。
彼は俺に語った――二十数年前、彼は俺の父アルフレッドと肩を並べて戦い、蛮族と魔物に占領されたライク郡を奪回したのだ、と。
その日は、彼にとって十年ぶりに故郷の地を踏むことになった記念すべき日で、今も胸に深く刻まれている。
あのころ、父はすでに万軍の指揮官として、地位も高く権勢もあったが、少しも高慢な態度はなかった。
父と母ヘレナは、最前線に立って、オーレリアンのような名もなき兵士たちと食事をともにし、住まいをともにし、身分の高低によって態度を変えることは一度もなかった。
「ああ、そうそう、お話しを忘れていましたが――実は私、あなたの父上に命を救われたことがあるのです。」
そう言って、オーレリアンは湿った眼を拭った。
あの日の記憶が、今も彼の胸に深く刻まれているのだろう。
—— 二十数年前の父とオーレリアンの時代。
ライク郡奪還のあの日。
蛮族と魔物に蹂躙された故郷を奪回した瞬間。
父と母が最前線に立って、一緒に戦った日々。
あの光景は、今も記憶のなかで色褪せることなく光りつづけている。




