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83. 大海原の夜と、硬くなったパン

 時間が流れるのは早い。


 いつの間にか、正午になっていた。


 外からは水夫や兵士たちの歓声が響いてくる。


 船長の号令も風に乗って聞こえてくる。


 —— 出航の準備が整ったらしい。


 俺たち三人は船室を出て、甲板へと足を踏み出した。


 三艘の戦艦の錨がゆっくりと引き上げられ、


 風帆に海風がはらみ、徐々に大きく広がっていく。


 —— いよいよ出港だ。


 海風を浴びながら、三艘の戦艦はゆっくりとライク郡の港を離れ、西北の方角へ針路を取り、航行を始めた。


 風帆戦艦の進速はさほど速くはない。


 船体は穏やかに揺れ、まるで揺り籠のような緩やかな揺れを続ける。


 —— 眠気を誘う揺れだ。


 とはいえ、俺は船酔いになっていない。


 前世はたった三十分でひどく船酔いに苦しんだのに、今世は案外平気だ。


 悪いことではない。


 ずっと船に乗ると酔うのではないかと心配していただけに、気の揉み損で済んでよかった。


 ユーナが俺の手を強く握りしめ、甲板に立ったまま遠くのライク郡を見つめていた。


「クローディア様、ご覧ください。ライク郡がどんどん小さくなっていきますわ」


 彼女の指す方を眺めると、ライク郡の街並みの輪郭は次第に靄に紛れ、やがて視界から消え去った。


 母上は俺たちの傍らに立ち、鋭い眼差しで広大な大海を見つめている。


 表情は険しく、一言も声を発しない。


 —— 母上は今、きっとクラーケンのことを案じているに違いない。


 クラーケンがいつ姿を現すか分からない以上、


 常に警戒を怠らず、いつでも戦闘に臨める態勢を整えておかねばならない。


 やがて夜の帳が下り始めた。


 大海は漆黒に染まり、


 戦艦の灯りだけが暗闇の中で淡く煌めき、星のように前路を照らし出している。


 ライク郡の姿は完全に視界から消え、


 四方には果てしない大海原が広がる。


 海風だけが激しく吹きすさび、ひときわ冷たさを増していた。


 誰も予測できない —— クラーケンがいつ姿を現すかを。


 眠る刻が来たとはいえ、


 この場を離れて船室で休む気にはなれなかった。


 何しろ俺たちは見張りの身。


 クラーケンは今も深海に潜み、いつ姿を現してもおかしくはない。


 長大な触手で戦艦を襲い掛かってくる可能性も十分にある。


 油断すれば、致命の一撃を受けかねない。


 そうなれば、俺たちだけでなく、討伐隊全員が命の危機に晒される。


 —— だがふと冷静に思い至った。


 ずっと張り詰めて見張り続けても、仕方のないことだ。


 クラーケンのような海の巨獣は、


 毎日のように水面に姿を現すわけではない。


 一日や二日、あるいはそれ以上深海に潜み続けることもある。


 いつまでも気を張り続けていては、長くは持たない。


 いずれ身も心も疲れ果ててしまう。


 そうなっては、いざクラーケンが現れた時に戦う力も失い、


 逆に隙を突かれるだけだ。


「このままではいけませんわ」


 母上は眉を寄せ、真剣な口調で言った。


「交替で見張りにつくことにしましょう。


 そうすればクラーケンの急な襲来にも即座に対応できるし、


 皆も無理なく休息を取れる。


 体力を温存してこそ、これからの戦いに臨めるのです」


 俺もユーナも頷き、母上の考えに賛同した。


 母上の言う通りだ。


 力を蓄えてこそ、クラーケン討伐に臨める。


 話し合いの末、見張りの時間を分担することに決めた。


 母上は夜の見張りを担当 —— 深夜から翌朝まで。


 俺は午前の見張り —— 夜明けから正午まで。


 ユーナは午後の見張り —— 正午から深夜まで。


 見張りの当番でない者は、


 食堂で食事を摂ったり、船室で休んで体力を養ったり、自由に過ごしてよい。


 最初は母上の番だ。


 俺はユーナと手を繋いで船室に戻り、眠りの支度を整えた。


 船室は静まり返り、窓の外から海風の音が微かに響き、


 船体は緩やかに揺れ続けている。


 —— 揺り籠のような揺れが、眠気を誘う。


 俺たちは簡単に身支度を整え、ベッドに横になった。


 ユーナは俺の腕を強く抱きしめたまま、あっという間に眠りに落ちた。


 穏やかな寝息を立て、頬はほんのりと紅く染まっている。


 俺は天井を眺めながらベッドに横たわっていた。


 頭の中にはクラーケンの姿が浮かぶ。


 巨大な触手、闇に紛れる巨体の影……


 考えを巡らせているうちに、瞼が重くなってきた。


 眠気が潮のように押し寄せる。


 耳元にはユーナの穏やかな寝息、窓の外には海風の音。


 心落ち着く瞬間だ。


 俺はユーナの手を強く握りしめ、そのまま夢の中へと沈んでいった。


 こうして穏やかな夜は更け、


 クラーケンの気配は一向に感じられなかった。


 意識は暖かく重たい眠りの中に沈み、


 柔らかなベッドに身を任せ、呼吸も緩やかなリズムを刻む。


 船室は静かで、窓の外から波が船腹を打つ穏やかな音だけが微かに響く。


 単調で穏やかな調べは、ずっとこのまま眠り続けたい気持ちにさせる。


 その時、肩に柔らかな揺れが伝わってきた。


 力は弱く優しく、夢を壊さぬよう気遣うような仕草だ。


 俺は眠たさに唸りを上げ、


 瞼は鉛のように重く、開けるのに力が要った。


 視線を上げると、ヘレナ —— 母上の優しい顔が目に入った。


 彼女はベッドの脇に腰を下ろし、金色の髪をゆるく後ろで束ね、


 額や柔らかな横顔があらわになっている。


 朝の光が舷窓から斜めに差し込み、


 髪先を照らして淡い光の輪を描き出している。


 母上は黙ったまま微笑み、俺を見つめている。


 包容力に満ちた、穏やかな眼差しだ。


 俺が反応を見せると、彼女はそっと手を上げ、窓の外を指し示した。


 俺はその指す方を眺め、窓の外を見渡した。


 眩しい朝日が船室の半分を照らし、


 暖かな黄金の光が床に降り注いでいる。


 —— ああ、そうだ。


 今日は俺の見張りの番だった。


 心の底に、隠しきれないだるさが込み上げる。


 —— また見張りか……


 とはいえ、任務は任務。


 嫌だとわがままを言うわけにもいかない。


 無意識に腕に力を込め、


 腕の中の柔らかな存在をもう少し強く抱きしめた。


 ユーナだ。


 彼女は深い眠りに落ちたまま、小さな体を俺の側に丸め、


 桃色の髪が枕に乱れて広がっている。


 心の中で小さく嘆息し、


 名残惜しそうにゆっくりと腕を離した。


 身を起こし、重たい体をゆっくりと起こして、目を擦る。


 船室の中はさほど明るくはない。


 ベッドの縁を掴んで数秒間じっとし、


 脳が完全に覚めるのを待った。


 それから軽い足取りで衣棚の前へ歩み寄り、


 木製の扉を冷たい感触を感じながらそっと引いた。


 幾着かの衣類に目を通し、


 生地は質素だが動きやすく通気性が良い、身の動きを妨げない簡素な普段着を選んだ。


 着替えを済ませ、裾を整え、


 乱れた白金の髪を肩の後ろへ流した。


 周りをもう一度確認し、誰も起こさぬよう気を配ってから、


 軽い足取りで出口へ向かった。


 だが ——。


 冷たい扉の取っ手に手を伸ばした瞬間、


 背後から微かな気配が伝わってきた。


 反射的に振り返る。


 ユーナが目を覚ましていた。


 眠りから覚めたばかりで桃色の睫が微かに震え、


 瞳にはまだ眠気の靄が残ってぼんやりとしている。


 全身から寝起き特有の柔らかな雰囲気が滲み出ている。


 小さく首を傾げて俺を見つめ、


 声は掠れて緩やかで、まだ眠気が抜けきらぬ遅さを帯びている。


「クローディア様…… それはお出かけですの?」


 まだ夜が明けたことにもはっきり気づいていないらしい。


 そのぼんやりとした様子を見て、


 起きるのが億劫だった気持ちもだいぶん和らいだ。


 思わず口元が緩み、声もいつもより柔らかくなる。


「もう私の見張りの時間なの。


 食堂で軽く食事を済ませてから、甲板で午前中の見張りをしてくるわ。


 ユーナはもう少し眠っていていいのよ」


 ユーナは瞬きを繰り返し、


 やがて何も言わず体を沈め、そのまま柔らかなベッドに倒れ込んだ。


 顔を枕に埋めると、あっという間に穏やかな寝息が戻り、


 再び深い眠りに落ちていった。


 俺はその場に数秒立ち尽くし、少し呆れたように微笑んだ。


 それから取っ手を握り、音を立てぬよう細心の注意を払って扉を閉めた。


 扉が完全に閉まったのを確認し、ようやく息を吐いて食堂へと向かった。


 船内の通路は広くはなく、


 足元の板は軽くきしみ、


 空気には潮の香り、木の香り、それにわずかな食事の匂いが混ざり合っている。


 船ならではの独特な雰囲気だ。


 見慣れぬ匂いだが、どこか新鮮でもある。


 食堂といっても、城の食堂のように立派な造りではない。


 普段水夫たちが休むハンモックを畳んで片付け、


 広めに空けた空間を簡易な食堂として使っているだけだ。


 粗末な木のテーブルと腰掛けが並び、


 隅に食事が用意され、各自が自由に取る形式になっている。


 広くはないが人の姿は多く、


 水夫たちは声を潜めて談笑している。


 質素ながらも人の営みが感じられる、穏やかな雰囲気だ。


 船の食事は豪華とは言えない。


 館で手の込んだ料理とは比べるべくもない。


 幸い今回は長期の航海ではないため、


 食材はまだ新鮮な方だ。


 保存の利く野菜や肉を使った素朴な煮込み料理が中心となっている。


 この世界の旅先ではよく見られる料理だ。


 見た目も味付けも繊細ではないが、


 温かく腹を満たすには十分で、まだ許せる範囲だ。


 だがパンだけは別だ。


 この世界には近代的な製粉施設も発酵技術もなく、


 小麦の殻は完全に取り除かれず、粉の挽き目も粗い。


 焼き上がったパンは粒感が残り、食感もざらついている。


 発酵も果物の自然な力に頼るため、


 出来栄えは毎回まちまちで、


 手に取るとずっしりと重く、固くて食べにくい。


 俺はパンを少しちぎってみるが、そのままでは食べ辛い。


 幸い隣の煮込みのスープはたっぷりと熱く、


 パンを浸して柔らかくしながら食べれば、十分に味わえる。


 こうして朝の見張りを空腹で過ごさずに済む。


 柔らかくなったパンと温かい煮込みをゆっくり味わいながら、


 ふと心の中で思う ——


 たった一日船に乗っただけで、館の柔らかな寝床や繊細な料理、


 静かな部屋が恋しくなるなんて、少し情けないだろうか。


 弱音を吐きすぎか。


 まあ、少しくらいは仕方がないか。

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