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88. 墨烏賊の末路、そして母上の「報復」

淡い青の水魔法が、母上の腕を伝って三叉戟へと絶え間なく注ぎ込まれていく。


金色の柄が、波紋のような柔らかな光の輪を幾重にも纏い始めた。


同時に、ヘレナの肌の表面に、深蓝色の繊細な魚の鱗が静かに広がっていく。


頬から手首へ、首筋へと。


頬の両側に、小さくて敏感な鰭がそっと開いた。


これが三叉戟の加護のもと、母上だけが持つ人魚の形態だ。


水中では、ほぼ無敵の存在になる。


クラーケンの小さな目が、その姿を目にした瞬間——


初めて、はっきりとわかる動揺を浮かべた。


その眼差しから、俺はほとんど人間的な崩壊の叫びを読み取れた気がした。


——え、この人チートじゃないですか?!


迷いなどなかった。


クラーケンは勢いよく身体をすくめ、体内から大量の黒い墨汁を一気に噴き出した。


漆黒の墨が海水に素早く広がり、ほんの一瞬で下方の広い海域を、手も足も出ない暗闇に染め上げた。


墨の遮蔽を利用して、こっそり逃げようとしている。


だがそのとき、別の方向から慌ただしい悲鳴が響いた。


俺が振り返ると、心がずんと沈んだ。


メアリー・ローズ号の左舷はすでに完全に破壊されており、船体が大きく傾き、海水が猛然と流れ込んでいる。


船全体が恐ろしい速さで転覆しようとしていた。


まだ脱出できていない水夫たちが慌てふためき、すでに海に飛び込んでいる者も出ていた。


「母上!」俺はすぐに振り返り、大声で叫んだ。「クラーケンはお任せします。私は先に人を助けに行きます!」


ここで俺が母上の役に立てることはない。


メアリー・ローズ号のほうが、俺を必要としている。


「行きなさい。こちらは任せて。」ヘレナは振り向きもせず、声は落ち着いていて力強かった。「無理はしないで、気をつけるのよ。」


俺はうなずき、躊躇わず翼を力いっぱい叩いて、沈みかけているメアリー・ローズ号へ向けて急いだ。


背後で水を割る音が聞こえた。


母上が淡い青色の影となって、墨で染まった海へまっすぐ潜り込んでいった。


メアリー・ローズ号のそばへ到着すると、海面はすでに大混乱だった。


落水した水夫たちが波に揉まれながら必死にもがいている。


割れた板や漂流物が水面に散らばり、船体はどんどん傾いていく。


今にも完全に横倒しになりそうだった。


その混乱の中で——俺はすぐに見慣れたピンク色の人影を見つけた。


ユーナだ。


燃えるような赤い小さな翼を懸命に羽ばたかせながら、飛んでいた。


飛行姿勢は俺より少し覚束なく、翼もひと回り小さい。


一度羽ばたくたびに、少し苦しそうだった。


それでも、彼女は一切たじろがなかった。


全身びしょ濡れで、顔が蒼白になっている水夫を抱きかかえ、一歩一歩、近くに停泊しているスノーウィンド号へ向けて飛んでいた。


俺が現れると、ユーナのこわばっていた顔がほんの少し緩んで、安心の笑みが浮かんだ。


「クローディア様、来てくださったんですね!」


彼女は飛行を安定させながら、腕の中の水夫の体勢をそっと整えた。


「うん、来たよ。」俺は焦る気持ちを押さえ、できるだけ落ち着いた声を出した。


「クラーケンは水の中に隠れているから私には手が出せない。母上に任せてある。私はここで一緒に救助する。」


「わかりました!」


余計なやり取りはいらない。


俺たちは即座に分担して動き出した。


俺は体を低くして、翼で海面すれすれを掠めながら、波に揺られてもがいている水夫の腕をしっかりと掴んだ。


少し力を込めて引き上げ、空中に抱えてスノーウィンド号の方向へ運んでいく。


俺の光魔法の翼は頂点には程遠いが、力量と安定性はユーナを大きく上回る。


成人の男性を一人抱えても、さほど負担ではなかった。


ユーナは歯を食いしばり、一往復また一往復と、落水した水夫を一人ずつ安全な船へ運び続けた。


俺より飛行魔法が未熟なのに、俺が思っていたよりずっと必死だった。


濡れたピンクの髪が頬の両側に張り付いて、少し乱れた顔をしている。


それでも止まらなかった。


しばらくすると、スノーウィンド号も状況を把握した。


予備の短艇が次々と降ろされ、多くの水夫が小舟を漕ぎながら救助に加わった。


海面の混乱が少しずつ落ち着いていき、慌てふためいていた落水者たちが、一人また一人とスノーウィンド号に引き上げられていった。


俺はようやく息をついた。


額に薄く滲んだ汗をぬぐう。


人さえ無事なら、それが一番だ。


——一方、漆黒の深海の底で。


ヘレナは、娘が翼を羽ばたかせて安心して離れていく後ろ姿を見て、ずっと張り詰めていた心が、やっと少しほどけた。


さっきのあの瞬間、本当に心臓が止まりそうになった。


クラーケンは明らかに戦闘経験が豊富だった。


クロディアの戦い方が空中と地上に向いていることを一目で見抜いていた。


しかも、あの子が戦闘中ときおり見せる、勢いに乗って突進しすぎるという癖も、見抜いていた。


触手で挑発して引きつけ、本体は深場に隠れて安全を確保する——計算の上で動いていた。


もし自分の出るのが一瞬遅れていたら、手の中の娘が大きな傷を負っていたかもしれない。


そう思うと、ヘレナの瞳の奥に宿る冷たさが、また一段と深まった。


——この臭い墨烏賊め、随分と大胆なことをしてくれた。


ポセイドンの三叉戟を目にした瞬間、クラーケンは驚きながらも冷静さを失わず、即座に墨を噴いて身を隠し、逃亡を図った。


あの咄嗟の判断力は、魔物の中でも最上位と言っていい。


残念ながら、相手が悪かった。


この海の中で、三叉戟を手にしたヘレナから逃げられる生き物など、いない。


ヘレナの周りを淡い青の水流が渦巻き、漆黒の墨の中を魚のように自在に泳いでいく。


水魔法への高い適性を持つ彼女は、水の中で魔力の探知範囲と精度が大幅に高まる。


視界を墨で完全に遮られていても、水流の揺らぎひとつひとつを、手に取るように感じ取れた。


一瞬で、クラーケンの位置を特定した。


巨大な体躯が八本の触手を振り回しながら、北方向へ必死に逃げていた。


「私の娘に手を出しておいて、逃げるつもり?」


ヘレナは静かに笑い、躊躇なく手首をひと振りした。


ポセイドンの三叉戟が水を割って放たれ、閃光のごとく走った。


クラーケンの触手の一本に、正確に命中した。


「ぷちっ——」


深蓝色の血が、墨色の海水の中に一瞬で弾けた。


三叉戟が触手の内部に深々と刺さり、次の瞬間、戟身から抗いがたい引力が炸裂した。


その触手を掴んだまま、ヘレナの方向へと強引に引き寄せる。


突然の力に引き摺られ、クラーケンの巨体が水中でぐらりとよろめいた。


激怒した鳴き声を上げ、クラーケンは即断した。


まだ無事な触手を一本使い、叉に貫かれた触手をそのまま斬り落とした。


断面は綺麗で、血が勢いよく噴き出した。


触手一本を捨てて引力から脱し、このまま逃げようとした。


だが次の瞬間、金色の三叉戟はその断肢を引き連れたまま水流に乗って弧を描き、再び電光石火のごとく放たれて——別の触手に命中した。


今度の引力は、さっきより強く、より容赦がなかった。


クラーケンの巨体はまったく抗えず、ヘレナの方向へ引き摺られていく。


途中、体が海底の珊瑚礁や岩をいくつも砕き、砂と砕石が水中に舞い上がって視界がさらに濁った。


砂煙と墨の二重の混乱の中で、クラーケンはまた決断した。


今度も、躊躇なく第二の触手を斬り落とした。


これで完全に振り切れると思っていたのだろう。


だが、本物の絶対的な実力の前では、そんな小賢しさは悪あがきにすぎない。


ヘレナの目が細く、鋭くなった。


三叉戟が水の中で美しく一回転し、今度は触手には向かわなかった。


クラーケンの後頸部——そこへ一直線に放たれた。


金色の光が走るように突き刺さった。


「ウォォォ——!!」


クラーケンが苦悶と絶望の入り混じった叫びを上げ、巨体が瞬時に硬直した。


三叉戟が後頸に深々と突き刺さり、そこから抗いきれない引力が再び炸裂した。


ひゅっ、と。


あの巨大な魔物が、まるごとヘレナの目の前まで引き寄せられた。


ヘレナは水の中に悠然と浮かびながら、目の前でまだ無駄にもがいているクラーケンを眺め、その触手のひとつをつま先で軽く蹴った。


口調はどこか戯れるようだった。


「へえ、自分に随分と厳しいのね。触手を斬るのに、迷いもなかった。」


余計な言葉はいらない。


ヘレナは手をのばして三叉戟の柄を握り、静かに引き抜いた。


手首をひと捻り。


金色の三叉戟が高々と振り上げられ——真下へ叩き落とされた。


海の上。


およそ三十分後。


最後の落水者も、無事にスノーウィンド号に引き上げられた。


俺とユーナは肩を並べて中空に浮かびながら、甲板に人でいっぱいになった船を見下ろして、長く長く息をついた。


ただ、二艘だった船が突然一艘になったことで、スノーウィンド号の積載量は一気に限界を超えた。


船体が明らかに深く沈んでいる。


航行の安全を確保するため、船長は即断した。


甲板に搭載していた投石機を取り外し、そのまま海へ投棄した。


さらに、甲板下に備蓄していた食料、真水、ラム酒の一部も、泣く泣く海へ捨てることになった。


全ての処置が終わると、スノーウィンド号は帆を半分まで降ろし、安全速度で近くのライク郡の港へゆっくりと向かい始めた。


もとの討伐船隊のうち、まだ戦える船はメイフラワー号だけになった。


俺はメイフラワー号の甲板に降り立ち、静かになった海面を眺めながら、ぼんやりとしていた。


突然の奇襲、一艘の沈没、大量の物資損耗、救助の混乱——


死者は出なかった。


それでもこの討伐遠征は、最初からどこかおかしいほど歯車が噛み合っていない。


母上は今も水の中でクラーケンと戦っている。


大丈夫だとわかっていながら、胸の片隅にちいさな不安がついてまわった。


そのとき——足元の海面に、巨大な黒い影が揺らぎ始めた。


影はどんどん大きくなり、くっきりしていく。


水流の音を引き連れて、ゆっくりと浮上してきた。


俺は瞬時に体を硬くした。


クラーケンがまた不意打ちをしかけてくるのかと思った。


だが次の瞬間、水面から浮かび上がった光景に——俺はその場で完全に固まった。


母上のヘレナが中空に浮かんでいた。


その手に握る金色の三叉戟には——触手を全て切り落とされ、光秃秃の胴体だけになった、巨大なクラーケンが突き刺さっていた。


八本の触手はすべて綺麗に切断されており、断面は滑らかで、まるで丁寧に揃えたかのようだった。


後頸に三叉戟を刺されたまま、中空にぶら下がっている。


深蓝色の血が傷口から静かに滴り、海に落ちて薄く広がっていく。


「クロディア、こっちよ!」


母上は俺を見つけると、すぐに笑顔で手招きした。


まるで海辺を散歩してきたような、軽やかな声だった。


俺は我に返り、急いで翼を羽ばたかせて母上のそばへ飛んだ。


目の前の、完全に「処理済み」になったクラーケンを見て、表情の制御が追いつかなかった。


——これ……早すぎない?


俺が救助に動いていたのは、まだ三十分そこそこだ。


「お母さん、これって……」


俺は呆然と、怯えた目をして全身傷だらけのクラーケンを見つめながら、なんと言えばいいかわからなかった。


言わなくてもわかる。


あの整然たる断肢の数々——犯人が誰かなど、考えるまでもない。


ヘレナは穏やかに微笑んで、当然のように言った。


「だって、娘のために仇を取りに行ったんですもの。この悪い墨烏賊ったら、あなたの触手で叩こうとしたでしょう。だから水の中まで追いかけて、こってりお説教して、連れ帰ってきたの。あなたのうっぷんを晴らしてもらおうと思って。」


微笑めば微笑むほど、俺の背中が冷たくなっていく。


言葉は優しい。


でも中身が、わりと恐ろしい。


俺は三叉戟に刺さったまま、ぴくりとも動けなくなっているクラーケンを見た。


全身傷だらけ、息も絶え絶え——どう見ても、もう長くなかった。


俺はゆっくりと瞬きした。


「……お母さん。それ、もうほぼ死にかけてるよ。」

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