81. 瑠璃の天使と、廃れた港町
夕餉は、そんな微妙な空気のまま幕を閉じた。
ロジャーが席を立ち、深々と頭を下げた。
「三方とも、今日は本当にご不便をおかけしてしまいました。せめて今宵は、ゆっくりとお休みいただければと思います。お部屋はこちらで —— 三方それぞれに、隣り合わせのお部屋をご用意しております」
俺はちらりと母上を見た。それからユーナを見た。
小さく首を振って、口を開いた。
「いいえ、男爵。三人で一部屋で構いません。大きなベッドが一つあれば十分です。夜も皆で話せた方が、気が休まりますから」
ロジャーは一瞬、目をぱちくりさせた。
それからすぐに、ぱっと顔を引き締めて深く頷いた。
「かしこまりました。では一番広いお部屋を、今すぐご用意いたします。三方がご満足いただけますよう、万全を期します」
そう言うや、すぐに廊下へ足早に向かった。
しばらくして、ロジャーが戻ってきた。
「こちらへどうぞ」
案内された客間は、男爵館の中でも上等な造りの部屋だった。
広い。
天井が高い。
そして —— 天井を見上げた瞬間、俺は思わず足を止めた。
天井いっぱいに、色とりどりの瑠璃が敷き詰められていた。
深い青、金色、朱色、純白。
それが組み合わさって、一枚の大きな絵を描いている。
小さな舟の上に立つ、白い翼を持つ女性。
荒れる海の向こうには、巨大な魔物の影。
「…… きれい」
ユーナが小さく息を漏らした。
部屋の中央には、三人でも十分に眠れる大きなベッドが据えられていた。
脇には小さなソファが二脚。
隅には鏡台があり、洗面用具が一式並べてある。
清潔で、薫り高い燻香がかすかに漂っていた。
ロジャーは入口で丁寧に頭を下げた。
「三方とも、こちらのお部屋です。お休みのところを邪魔いたしますのも心苦しく、このあたりで失礼いたします。何かございましたら、廊下の使用人にお声がけいただければ、すぐに参ります」
母上が静かに頷いた。
「ご苦労でした。下がってよろしい」
ロジャーは一礼し、静かに扉を閉めて退室した。
部屋に静寂が落ちた。
眠れなかった。
三人でベッドに腰かけ、他愛のない話をした。
学院の話、農場の話、ユーナが最近こっそり練習している料理の話。
俺が「それ、本当にこっそりのつもりか」と聞いたら、ユーナは「クローディア様は全部お見通しですよね……」と苦笑いした。
母上はそれを聞いて、くすくすと笑った。
笑う母上を、俺はあまり見たことがない。
—— ああ、こういう夜も、あるんだな。
気が付けば夜は深まっていた。
ユーナの声が段々と遅くなり、
目がうとうととしてきて、
頭が、そっと俺の肩へ傾いた。
均一な寝息。
眠ってしまっていた。
母上がユーナをそっと抱き上げ、丁寧にベッドへ横たえた。
毛布を顎元まで引き上げ、乱れた桃色の髪を指先でそっと整える。
その手つきが、あまりにも優しかったので、俺は黙って見ていた。
母上は俺を振り返り、穏やかに微笑んだ。
「さあ、あなたも」
「…… はい」
俺もベッドに入った。
だが、目が冴えていた。
—— 明日、船に乗る。
その事実が、じわじわと胃を蝕んできた。
前世の俺は、船旅というものに縁がなかった。
縁がなかった、ではなく —— 一度、乗ったことがある。
同僚に誘われて、湾岸クルーズのツアーに。
結果は惨憺たるものだった。
出港して三十分。
俺はデッキの手すりにしがみつき、ひたすら気分の悪さに耐えていた。
あの帆船が出す波の揺れより、遊覧船の方がまだ揺れは穏やかだったはずだ。
それでもあの有様だった。
—— 明日乗る船は、最新の補強も何も施されていない、木造の帆船だ。
揺れの安定感は、比べるまでもない。
胃が嫌な感じを訴えている。
嫌な予感が胸を締めつけている。
俺は覚悟を決めようとして、それをうまく受け入れられずに、横になっていた。
そんな俺の体を、母上の腕がそっと包んだ。
母上が横になり、俺とユーナを両側から引き寄せた。
温かかった。
ヘレナ・フォン・エリクソンの体温は、不思議なほど心が落ち着く。
俺の緊張していた肩が、少しずつゆるんでいった。
仰向けになって、天井を見上げた。
瑠璃の絵が、夜の淡い燭光に照らされていた。
ロジャーが晩餐の席で語っていた。
—— この絵は、ライク郡に伝わる古い伝説を描いたものだ、と。
俺は頭の中で、その話を辿った。
遠い昔、ライク郡はまだひとつの部族の集落だった。
海は豊かで、土地は肥え、漁で暮らす人々は日々に不自由がなかった。
だが、ある日 —— クラーケンが現れた。
巨大な魔物は沿岸を荒らし、漁に出る者を次々と呑み込んだ。
誰も海に出られなくなった。
部族の人々は、最初は大丈夫だと思っていた。
しかし、ライク郡の周囲は広大な平原で、近くにはわずかな雑木林があるだけだった。
野の獣は少なく、作物にも限りがある。
陸の豆穀類も、当時はまだこの地に根付いていなかった。
魚は、人々にとって生きるための大事な栄養の源だった。
日が経つにつれ、人々の栄養が失われていった。
子供から老人まで、少しずつ体が衰えていった。
そして、死者が出はじめた。
そんな絶望の中 —— 一人の女が空から降りてきた。
白い翼を持ち、光をまとった、天使の姿をした女だった。
彼女は言った。「私がクラーケンを討ちましょう。ただ、舟を貸してください」と。
村人たちは信じなかった。
天使に見えても、あの化け物を倒せるはずがないと。
誰一人、舟を貸そうとしなかった。
天使は何度も頭を下げた。
それでも、誰も動かなかった。
最後に一人だけ、舟を差し出した者がいた。
村の端に住む小さな男の子だった。
「ぼくの舟でよければ、どうぞ」
それだけ言って、自分の手作りの丸木舟を差し出した。
天使はその舟に乗り、海へ漕ぎ出した。
そして —— クラーケンを斬り伏せた。
巨体を刻み、肉を村人へ分け与えた。
人々は食いつなぎ、部族は生き延びた。
天使が去った後、村人たちは言い合った。
「なぜあのとき、誰も舟を貸さなかったのか」と。
そして、男の子の先祖が、代々この地の守り手となった —— ロジャー男爵家の始まりは、そこにある。
俺は天井の瑠璃画を見つめながら、ぼんやりと思った。
—— 信じてもらえなかった天使か。
今の俺たちと、少し似ている。
俺たちがライク郡に来たとき、守衛に刁難されて地牢に放り込まれた。
男爵が出てくれなければ、今でも石床の上だったかもしれない。
信じてもらえないどころか、邪魔者扱いだ。
—— 伝説の天使も、こんな気持ちだったんだろうか。
でも、男の子は貸してくれた。
俺たちにとってのあの男の子は —— ロジャーだ、と俺は思う。
気は弱いところもあるが、最後は頼りになった。
明日、クラーケンを倒せるかどうかはわからない。
でも —— やれるだけのことは、やる。
そう思ったら、少し楽になった。
目蓋が少しずつ重くなってきた。
耳元で、母上とユーナの穏やかな寝息が聞こえる。
母上の腕の温もり。
ユーナの、梅の花のような淡い香り。
それと俺の、椿の香りが混ざり合って —— この空間に漂っていた。
安心した。
俺は母上の腕をぎゅっと抱きしめ、口の端に薄い笑みを浮かべた。
明日への期待を胸に、眠りについた。
翌朝、夜明け前の薄明りの中で目が覚めた。
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえていた。
目を開ける。
母上はまだ眠っていた。
横を向いた穏やかな顔で、口元にかすかな笑みを浮かべている。
ユーナも眠っていた。
俺の腕をぎゅっと抱きしめたまま、桃色の長い髪が肩の上に散らばって。
頬がほんのり赤く、寝息は穏やかで、まるで小さな天使みたいだった。
—— ちょっとまって、腕が重くない?
心の中でぼやきながら、俺はそっとユーナの手をほどいた。
静かに起き上がり、窓辺に向かった。
窓を押し開けると ——
清々しい朝の空気が、一気に流れ込んできた。
海風の塩気がほんのり混じっている。
庭には朝露がきらきらと光り、花の葉が晨光を受けてひっそりと輝いていた。
俺は白金の長髪を手で一つにまとめながら、遠くを眺めた。
今日、海に出る。
胃の重たさは残るが、もう成り行きに任せようと思った。
しばらくすると、母上とユーナも目を覚ました。
三人で簡単に身支度を整え、動きやすい服に着替えた。
客間を出ると、ロジャーがすでに広間で待っていた。
軽い鎖帷子をまとい、目元には疲れの名残があったが、顔つきは引き締まっていた。
—— 昨夜はあまり眠れなかったな。
「三方とも、お目覚めでしたか」
「お早うございます、ロジャー殿。ご用意が整いましたら、すぐ出発できます」
ロジャーが深く頭を下げた。
「はい、朝食がご用意できております。食堂へご案内いたします。討伐隊の者たちは、すでに港で待機しているとのことです」
朝食は、昨晩とは打って変わって質素なものだった。
パンと羊乳、それから数種の季節の果物。
これで十分だ。
むしろ、この方がよかった。
俺たちは手早く食べ終え、男爵館を後にした。
玄関前には馬車が待っていた。
二頭の白馬が牽く、格式ある造りの馬車だった。
ただ、車輪には泥が残っていた。
急いで手配したのだろう。
俺たちが乗り込むと、ロジャーも続いて乗り込んだ。
御者が鞭を振るうと、馬車は力強く走り出した。
港へ向かう街道に、人影はなかった。
窓のカーテンを少し引いて、俺は外を眺めた。
通りの両脇に、商店が続いている。
酒場、雑貨屋、服屋、釣り具屋。
看板の色はほとんど褪せていた。
扉はどれも固く閉まっており、窓にうっすらと埃が積もっている。
かつてはここに、水夫たちの声があったはずだ。
酒の笑い声が、夜遅くまで聞こえていたはずだ。
クラーケンが来てから、港に入る船が減った。
船が来なければ、水夫が来ない。
水夫が来なければ、客が来ない。
客が来なければ、店は閉まる。
それだけのことだ。
それだけのことが、街一つを静けさに沈ませていた。
「…… はあ」
ロジャーが、静かにため息をついた。
「拙者の力不足ゆえ、クラーケンをここまで好き勝手に暴れさせてしまいました。ライク郡の民を路頭に迷わせ、街を寂れさせたのも、すべて拙者の不甲斐なさゆえ……」
声に、はっきりと悔恨が滲んでいた。
本心だ、と俺は思った。
少なくとも、この男爵はこの町が好きなのだろう。
俺はひと息をついて、口を開いた。
「男爵殿、あまりご自身を責められませんよう。クラーケンは、一人の力でどうにかなる相手ではありません。過去の討伐隊が全滅した事実が、何より雄弁に物語っています。今回私どもが参ったのは、ともに戦うためです。ライク郡が以前の賑わいを取り戻せるよう、力を尽くします」
—— まあ、半分本音で、半分は儀礼的な言葉だが。
でも、嘘ではない。
ロジャーの目がわずかに輝いた。
顔に、ほっとしたような笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます、クローディア大人! 三方にそう仰っていただけると、心強うございます。きっと、われらは勝てます —— クラーケンに打ち克ち、ライク郡を昔の姿に戻してみせます!」
その言葉は、俺に向けたものというより、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
—— いいじゃないか。
それぐらいの気概がなければ、男爵など務まらない。
馬車は港へと、走り続けた。




