80. 男爵の謝罪、そして不味い晩餐
ロジャー・エリオット男爵の姿を見た瞬間。
地下牢に残っていた二名の兵士の顔色が、みるみるうちに青ざめていった。
彼らはユーナと対峙していた体勢をあっさりと崩し、「ドシン」と重い音を立てて膝をついた。
ふたり同時に、まるで申し合わせでもしたかのように。
「も、申し訳ございません……っ! 男爵閣下! どうかお許しを……!」
声が震えている。全身が震えている。
一瞬前まで武器を握っていた手が、今は石畳の上で揃えられていた。
――遅いんだよ。
俺は心の中でそっとため息をついた。
母上の動きを眺めながら、俺は足を止める。
ヘレナは二人を見向きもしなかった。
男爵の顔を見た瞬間、その目から刃のような怒気がわずかにやわらいだ。
――それがわかるから、ヘレナ・フォン・エリクソンという人が怖い。
彼女はゆっくりと、細剣を引いた。
刃を守衛の首筋から離し、手首をひと振りする。
細剣は銀の光の線を引いて消えた。収納手環に戻ったのだ。
動作に、迷いがない。
命を奪うことも、命を返すことも、彼女にとってはおそらく同じ重さで行われる。
ヘレナは守衛を見なかった。
守衛がその場でくずおれても、一瞥もくれなかった。
彼女の視線は、まっすぐに俺へと向いてきた。
「クローディア。怪我は?」
「ありません、母上。男爵と合流して、全部話しました」
「そう」
それだけ言って、母上は静かに頷いた。
守衛の男は、細剣が離れた瞬間に膝から崩れ落ちた。
全身が震えていた。鎧の継ぎ目からわずかな液体が滲んでいた。
——失禁している。
俺はそれを見て、特に何も思わなかった。
彼がやったことを考えれば、これはまだ甘い結末だ。
男爵の声が聞こえていただろうに。ヘレナ・フォン・エリクソン。「妃殿下」という二文字。
守衛の顔から最後の色が消えていった。
絶望というのはああいう顔をするのか、と俺は静かに観察した。
彼は今、自分の死を確信している。
その確信は、間違ってはいない。
「ロジャー男爵」
ヘレナが振り返った。
その声は低く、冷たく、感情が削ぎ落とされていた。
「あなたの部下は、思ったより礼儀知らずでしたわ」
ロジャーはヘレナの前に膝をついた。
両手を石畳につけ、頭を深く下げた。
「——妃殿下! 申し訳ございません、申し訳ございません!」
声が上ずっている。脂汗が首筋を伝っている。
「すべて私の監督不行き届きでございます。配下の者どもが大人にこのような無礼を働いたこと、誠に申し訳ございませんでした! クローディア大人にも、ユーナ殿にも、重ねてお詫び申し上げます! 必ずや厳しく処罰いたします、どうか、どうかお許しください……!」
言葉が続く。
男爵という地位の男が、地下牢の床に額を擦りつけている。
俺はそれを黙って見ていた。
ロジャー男爵の館に戻ったときには、さっきまでの慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。
使用人たちが館の門前に整列して頭を下げている。
誰の顔もこわばっていた。
館内で何かがあった。それは全員が察していた。何も知らないふりをして、粛々と礼をとっている。
賢い人たちだ、と俺は思った。
ロジャー男爵が自ら扉を開けた。
「三方とも、どうぞお入りください。最上の客間を御用意しております。食事も間もなく整います」
大広間に通され、ソファに座る。
使用人が茶と菓子を運んできて、音もなく下がった。
ヘレナは茶を一口飲んだ。
館の内装を視線でなぞっていた。何かを観察するような、静かな目つきだ。
ロジャーはしばらく立ったまま、指先を僅かに握ったり開いたりしていた。
「——妃殿下。クローディア大人」
声を出すまでに、少し間があった。
「先ほどの一件、改めて調査いたしました。城門の守衛が独断で、御一行の入城にあたり、お一人につき銀貨十枚の通行料を要求していたことが確認できました。加えて言葉においても、不遜な発言があったとのこと。属下の管理不行き届きであり……属下は、いかなる処罰も甘んじて受ける覚悟でございます」
頭がまた下がっていく。
「処罰はもちろんあります」
ヘレナが茶杯を置いた。
「嗒」という小さな音が、静かな広間にやけに響いた。
「エリクソン殿下もすでにこの件をご存じです。協議の結果——あなたには五年分の税収相当額を罰金として納めていただきます。また、港湾の管理権はエリクソン公爵家が永続的に引き受けます。ただし、純収益の七割はあなたの家に帰属させます」
ロジャーの体が、ぴくりと震えた。
そして次の瞬間、床に額を叩きつけた。
「——ありがたき幸せでございます! 謹んでお受けいたします! 必ず期日通りに納めます、決して再びこのような失態を……!」
声が湿っている。
絶望の底から、一瞬で救い上げられた人間の声だ。
俺は菓子をひとつ摘まんで口に入れながら、心の中で静かに笑った。
――わかっていない。
管理権を渡した時点で、あなたはもう終わりなんですよ、男爵。
(一年後の話になるが——)
(クラーケンが港湾施設に甚大な被害をもたらしたという名目で、エリクソン公爵家はライク郡港湾の全面改修と近代化工事を開始した。工事期間中、港湾収入はゼロになった。)
(エリオット家はエリクソン家への未払い税を埋めるために、残る七割の収益と、ライク郡の管理権そのものを差し出すしかなくなった。)
(かくしてライク郡は、名実ともにエリクソン公爵領に組み込まれた。)
(まあ、それはずっと後の話だ。)
「罪を犯した守衛については」
母上が続けた。
一呼吸、置いた。
「公爵の親族を侮辱した罪は万死に値します。極刑とします。その親族は、エリクソン領南部の開拓区へ送致し、下級開拓民として永世帰還を禁じます」
「——承りました。直ちに手配いたします」
ロジャーは立ち上がり、素早く一礼して大広間を出ていった。
広間がしん、とした。
窓の外で、風が鳴っている。
ユーナが小さな焼き菓子を手に取った。小口で、慎重に食べている。
まるで小さなリスみたいだ、と俺は思った。
ロジャーが戻ってきた頃には、彼の顔に少し血の気が戻っていた。
「手配は整いました。それでは三方とも、夕食の用意ができております。食堂へご案内いたします」
母上が小さく頷いた。
俺とユーナの手を取り、ロジャーの後について歩く。
食堂には長いテーブルが置かれていた。
テーブルの上には —— 孔雀の丸焼き、イノシシの炙り焼き、クリームシチュー、各種パン、果物の盛り合わせ。
どれも丁寧に仕上げられていた。
盛り付けも、華やかだった。
ただ。
俺はテーブルをひとわたり眺めて、そっと目を細めた。
――どれも、ごく普通の中世料理だ。
俺は幼い頃から、前世の記憶を辿りながら料理を作ってきた。
出汁、炒め物、香辛料の調合、発酵調味料。
エリクソン領で食べ慣れた食卓は、この時代の料理水準を大幅に超えていた。
いや、俺たちが引き上げていた、と言うべきか。
「三方とも、どうぞ。こちらの孔雀は十数種の香辛料を用い、三時間かけて丁寧に焼き上げたものです。ぜひ」
料理長が誇らしげに説明している。
俺はフォークで孔雀肉を小さく切り、口に入れた。
――鳥独特の生臭さが残っている。
香辛料でかなり抑えられてはいるが、完全には消しきれていない。
食感もぱさぱさと乾いている。
俺は静かに咀嚼して、飲み込んだ。
口元には何の感情も出さなかった。
ユーナもイノシシの焼き肉を少し食べて、眉をひそめた。
彼女はちらりと俺を見て、それから小声で耳に囁いてくる。
「…… クローディア様、この獣肉、少し歯ごたえが強くて……」
俺はユーナの手をそっと叩いた。
「我慢して。ご厚意だから」
小声で返す。
ユーナはこくりと頷いた。
母上はパンを手に取り、かじった。
――かたい。
俺はその瞬間の母上の目を見て、確認した。
眉がほんの僅か、動いた。
シチューと一緒に食べなければ、まともに噛めない硬さだ。
母上は黙々と、ゆっくり噛んでいた。
「三方とも、お口に合いましたでしょうか? ご不満でしたら厨房に申しつけます、何なりと」
ロジャーが向かい側から、落ち着かなげに問いかけてくる。
俺はナプキンで口元を拭い、微笑んだ。
「とても美味しゅうございます。男爵のおもてなしに感謝いたします」
「大変美味しかったです。料理人の腕が光っていましたわ」
母上も続けた。
ユーナも慌てて頷く。
「は、はい。美味しかったです。ありがとうございます、男爵閣下」
三人とも。
嘘をついている。
でも、それが正解だ。
ロジャーは先ほどまでの罰当たりな一日で、十分すぎるほど痛い目に遭っている。
これ以上ここで「料理が口に合わない」と言っても、俺には何ひとつ得がない。
大人になるというのは、こういうことだ——と俺は思ったが、すぐにやめた。
前世を含めれば俺はもう四十を超えているのに、今さら「大人になる」もない。
ロジャーがほっとした顔をした。
本当に安堵している。
「それはよかった! ではぜひ——」と言いながら、酒瓶を手に取った。
「三方とも、一杯いかがです? 明日の討伐の成功を祝して」
「申し訳ありませんが、私たちはまだ未成年ですので」
「「「お酒はいただけません」」」
三人、声が揃った。
ロジャーは酒瓶を手にしたまま、固まった。




