79. 細剣と鱗甲と、地牢の決着
かつてヘレナは冒険者だった。
十年以上。様々な魔物と、様々な場所で、様々な方法で戦ってきた。
だから。
守衛が鞭を振り上げる前に、ヘレナはすでに体重の中心をわずかに移動させていた。
「——ッ」
鞭が振り下ろされた瞬間、彼女はほんの少しだけ身をかわした。
無駄のない動き。優雅ですらあった。
鞭は空を切り、牢格子の鉄棒に叩きつけられた。
ガン——と鋭い音が地牢に響き渡り、鉄棒の表面に細い痕が刻まれた。
ヘレナはかわした姿勢のまま、静かに守衛を見据えた。
声は低く、穏やかで、それでいて一本の刃のように澄んでいた。
「最後の警告よ」
「これ以上無礼を続けるなら、私はあなたに剣を向けます。後悔しても知りません」
脅しではなかった。宣言だった。
ヘレナは決して争いを望む人間ではない。だが、自分の隣にいる者が傷つけられることは、絶対に許さない。
それが、彼女の譲れない一線だった。
守衛は、一瞬だけ固まった。
だがすぐに、低く笑った。
「ハハ——剣を向ける、だと?」
腰に手を当て、ヘレナを上から下まで眺め回す。
「武器も持ってないくせに、何を言ってんだ。そんな脅しで俺が——」
言葉が途中で止まった。
ヘレナの右手に、細剣が現れていた。
収納手環から取り出す動作は、あまりにも静かで、あまりにも自然で、守衛が気づいた時にはすでに構えが完成していた。
剣身は細く、しなやかで、淡い銀光を帯びている。柄には小さな宝石が二つ嵌め込まれており、それが単なる装飾品ではないことを示していた。
(……あれは、安物じゃない)
守衛の後ろで、兵士の何人かが顔色を変えた。
足が、じりじりと後ずさりを始める。
「かたん」——一本目の剣が床に落ちた。
「かたん」——もう一本。
「お前ら、どこへ行く!待て!」
守衛が怒鳴るが、もう誰も聞いていない。数人がそのまま踵を返し、階段を駆け上がった。鎧の音が、急ぎ足で遠ざかっていく。
(——わかっている者は、先に逃げる)
ヘレナは一人一人の顔を目で追った。
残ったのは、守衛。そして、二人の兵士。
守衛の目に、恐怖がよぎった。
ほんの一瞬だった。
しかし次の瞬間には、その目に別の色が宿った。
——覚悟、ではなく。追い詰められた者の、退路を失った目だった。
(……詰んでいるのに、それがわかっていない)
ヘレナは静かに息を整えた。
「これ以上は無駄よ。武器を置いて、膝をつきなさい。命は取らない」
守衛は答えなかった。
代わりに、腰の佩剣を引き抜いた。
刃が抜ける音が、地牢の静寂を切り裂く。
(……仕方ない)
ヘレナの目が、すっと細くなった。
細剣を正眼に構える。足を自然に開く。重心を落とす。
貴族の礼法剣術が土台にある。しかしその上に、十年以上の冒険者としての実戦が積み重なっていた。
最初に学んだ剣術は、確かに優雅な貴族剣法だった。立ち居振る舞いが美しく、礼節に則った型の多い流派だ。
しかしそれだけでは、魔物は倒せない。
硬い外骨格を持つ魔物に、型通りの剣を当てても弾かれるだけだ。だから彼女は一つ一つ改良した。戦いながら、身体で覚えながら。
今のヘレナの剣術に名前はない。
ただ、優雅で、正確で、そして容赦がない。
守衛が、剣を大きく振り上げて突進してきた。
力任せの、単純な斬り下ろしだった。
ヘレナは半歩外にずれ、剣圧をかわしながら細剣で守衛の手首に向けて斬りつけた。
鱗甲の袖口の隙間——最も薄い部分を狙った一撃だった。
「——ッ!」
守衛が弾かれたように身を引く。完全に当たりはしなかったが、手首に激痛が走ったことは表情でわかった。
続けて守衛が右から横薙ぎに剣を払ってくる。ヘレナはそれを細剣で受け止めた。
ガン——衝撃が腕に伝わる。
だが彼女の足は動かなかった。
そのまま剣を押し戻し、守衛の体勢が崩れた一瞬に右の側面へと踏み込む。
細剣の腹が、守衛の胸の鱗甲を叩いた。
音よりも先に、衝撃が来た。
「ぐ——!」
守衛が数歩よろめく。
(この男は、訓練を受けていない)
一合二合で、それがわかった。剣の振り方が粗く、足の踏み込みが浅く、体幹が安定していない。
門番だ。城門の前で立っているだけの門番だ。
だが、体格があった。力があった。そして鱗甲があった。
致命傷は与えられない。しかし長引かせる必要もない。
一方。
ヘレナの背後——牢格子の前では、ユーナが二人の兵士の前に立ちふさがっていた。
細い体。薄い肩。それでも、ユーナは一歩も退いていなかった。
収納手環から長剣を取り出し、両手でしっかりと握る。刀身に炎が灯った。
橙色の火が、暗い地牢の中で揺れている。
二人の兵士は、その炎の前に止まっていた。
「……」
「……」
誰も動かない。
ユーナも、動かない。
(クローディア様は、必ず来る。だから——ここを通してはいけない)
目が、揺れない。
炎が 、揺れない。
兵士たちはユーナの目を見て、一歩踏み出すことができなかった。
守衛との戦いは、あと数合で終わった。
守衛の動きが、目に見えて鈍くなっていた。
息が上がっている。剣の振り方が荒くなっている。防御に隙が増えている。
(——今)
ヘレナが細剣で守衛の佩剣を強く打ち払った。
金属音が炸裂する。守衛の手から剣が弾き飛び、石床に落ちた。
「——ッ、か——」
守衛が膝をつきかけた瞬間、ヘレナは一歩踏み込んだ。
細剣の切っ先が、守衛の喉元に当てられた。
冷たい刃の感触。ほんの少しの力で、深く入る距離。
守衛の体が石のように固まった。
「……あ、あ……」
震えている。声が出ない。
ヘレナは剣を引かなかった。
目を細め、静かに守衛を見下ろす。
声は穏やかで、感情がない。それが、余計に重かった。
「言ったでしょう。最後の警告、と」
「——ヘレナ妃殿下。どうかお手を止めてください」
声が階段の上から降ってきた。
切迫した、しかし必死に礼を保とうとしている声だった。
ヘレナはわずかに視線を動かした。
階段を下りてくる二つの人影。
金髪の男——ロジャー・エリオット男爵。正式な礼服のまま、顔に血の気がない。口元が震えている。
その後ろから、もう一人。
白金色の長い髪。整った礼服。乱れた様子は一切ない。ただ冷えた目で、首元に細剣を当てられた守衛を見ている。
クローディアだった。
(……やっと来た)
ヘレナは静かに息をついた。
細剣は、まだ守衛の喉元に当てたままだった。




