表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
79/91

79. 細剣と鱗甲と、地牢の決着

 かつてヘレナは冒険者だった。


 十年以上。様々な魔物と、様々な場所で、様々な方法で戦ってきた。


 だから。


 守衛が鞭を振り上げる前に、ヘレナはすでに体重の中心をわずかに移動させていた。


「——ッ」


 鞭が振り下ろされた瞬間、彼女はほんの少しだけ身をかわした。


 無駄のない動き。優雅ですらあった。


 鞭は空を切り、牢格子の鉄棒に叩きつけられた。


 ガン——と鋭い音が地牢に響き渡り、鉄棒の表面に細い痕が刻まれた。


 ヘレナはかわした姿勢のまま、静かに守衛を見据えた。


 声は低く、穏やかで、それでいて一本の刃のように澄んでいた。


「最後の警告よ」


「これ以上無礼を続けるなら、私はあなたに剣を向けます。後悔しても知りません」


 脅しではなかった。宣言だった。


 ヘレナは決して争いを望む人間ではない。だが、自分の隣にいる者が傷つけられることは、絶対に許さない。


 それが、彼女の譲れない一線だった。


 守衛は、一瞬だけ固まった。


 だがすぐに、低く笑った。


「ハハ——剣を向ける、だと?」


 腰に手を当て、ヘレナを上から下まで眺め回す。


「武器も持ってないくせに、何を言ってんだ。そんな脅しで俺が——」


 言葉が途中で止まった。


 ヘレナの右手に、細剣が現れていた。


 収納手環から取り出す動作は、あまりにも静かで、あまりにも自然で、守衛が気づいた時にはすでに構えが完成していた。


 剣身は細く、しなやかで、淡い銀光を帯びている。柄には小さな宝石が二つ嵌め込まれており、それが単なる装飾品ではないことを示していた。


(……あれは、安物じゃない)


 守衛の後ろで、兵士の何人かが顔色を変えた。


 足が、じりじりと後ずさりを始める。


「かたん」——一本目の剣が床に落ちた。


「かたん」——もう一本。


「お前ら、どこへ行く!待て!」


 守衛が怒鳴るが、もう誰も聞いていない。数人がそのまま踵を返し、階段を駆け上がった。鎧の音が、急ぎ足で遠ざかっていく。


(——わかっている者は、先に逃げる)


 ヘレナは一人一人の顔を目で追った。


 残ったのは、守衛。そして、二人の兵士。


 守衛の目に、恐怖がよぎった。


 ほんの一瞬だった。


 しかし次の瞬間には、その目に別の色が宿った。


 ——覚悟、ではなく。追い詰められた者の、退路を失った目だった。


(……詰んでいるのに、それがわかっていない)


 ヘレナは静かに息を整えた。


「これ以上は無駄よ。武器を置いて、膝をつきなさい。命は取らない」


 守衛は答えなかった。


 代わりに、腰の佩剣を引き抜いた。


 刃が抜ける音が、地牢の静寂を切り裂く。


(……仕方ない)


 ヘレナの目が、すっと細くなった。


 細剣を正眼に構える。足を自然に開く。重心を落とす。


 貴族の礼法剣術が土台にある。しかしその上に、十年以上の冒険者としての実戦が積み重なっていた。


 最初に学んだ剣術は、確かに優雅な貴族剣法だった。立ち居振る舞いが美しく、礼節に則った型の多い流派だ。


 しかしそれだけでは、魔物は倒せない。


 硬い外骨格を持つ魔物に、型通りの剣を当てても弾かれるだけだ。だから彼女は一つ一つ改良した。戦いながら、身体で覚えながら。


 今のヘレナの剣術に名前はない。


 ただ、優雅で、正確で、そして容赦がない。


 守衛が、剣を大きく振り上げて突進してきた。


 力任せの、単純な斬り下ろしだった。


 ヘレナは半歩外にずれ、剣圧をかわしながら細剣で守衛の手首に向けて斬りつけた。


 鱗甲の袖口の隙間——最も薄い部分を狙った一撃だった。


「——ッ!」


 守衛が弾かれたように身を引く。完全に当たりはしなかったが、手首に激痛が走ったことは表情でわかった。


 続けて守衛が右から横薙ぎに剣を払ってくる。ヘレナはそれを細剣で受け止めた。


 ガン——衝撃が腕に伝わる。


 だが彼女の足は動かなかった。


 そのまま剣を押し戻し、守衛の体勢が崩れた一瞬に右の側面へと踏み込む。


 細剣の腹が、守衛の胸の鱗甲を叩いた。


 音よりも先に、衝撃が来た。


「ぐ——!」


 守衛が数歩よろめく。


(この男は、訓練を受けていない)


 一合二合で、それがわかった。剣の振り方が粗く、足の踏み込みが浅く、体幹が安定していない。


 門番だ。城門の前で立っているだけの門番だ。


 だが、体格があった。力があった。そして鱗甲があった。


 致命傷は与えられない。しかし長引かせる必要もない。


 一方。


 ヘレナの背後——牢格子の前では、ユーナが二人の兵士の前に立ちふさがっていた。


 細い体。薄い肩。それでも、ユーナは一歩も退いていなかった。


 収納手環から長剣を取り出し、両手でしっかりと握る。刀身に炎が灯った。


 橙色の火が、暗い地牢の中で揺れている。


 二人の兵士は、その炎の前に止まっていた。


「……」


「……」


 誰も動かない。


 ユーナも、動かない。


(クローディア様は、必ず来る。だから——ここを通してはいけない)


 目が、揺れない。


 炎が 、揺れない。


 兵士たちはユーナの目を見て、一歩踏み出すことができなかった。


 守衛との戦いは、あと数合で終わった。


 守衛の動きが、目に見えて鈍くなっていた。


 息が上がっている。剣の振り方が荒くなっている。防御に隙が増えている。


(——今)


 ヘレナが細剣で守衛の佩剣を強く打ち払った。


 金属音が炸裂する。守衛の手から剣が弾き飛び、石床に落ちた。


「——ッ、か——」


 守衛が膝をつきかけた瞬間、ヘレナは一歩踏み込んだ。


 細剣の切っ先が、守衛の喉元に当てられた。


 冷たい刃の感触。ほんの少しの力で、深く入る距離。


 守衛の体が石のように固まった。


「……あ、あ……」


 震えている。声が出ない。


 ヘレナは剣を引かなかった。


 目を細め、静かに守衛を見下ろす。


 声は穏やかで、感情がない。それが、余計に重かった。


「言ったでしょう。最後の警告、と」


「——ヘレナ妃殿下。どうかお手を止めてください」


 声が階段の上から降ってきた。


 切迫した、しかし必死に礼を保とうとしている声だった。


 ヘレナはわずかに視線を動かした。


 階段を下りてくる二つの人影。


 金髪の男——ロジャー・エリオット男爵。正式な礼服のまま、顔に血の気がない。口元が震えている。


 その後ろから、もう一人。


 白金色の長い髪。整った礼服。乱れた様子は一切ない。ただ冷えた目で、首元に細剣を当てられた守衛を見ている。


 クローディアだった。


(……やっと来た)


 ヘレナは静かに息をついた。


 細剣は、まだ守衛の喉元に当てたままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ