78. 走る男爵と、静かな地牢の嵐
「クローディア様、参りましょう!」
男爵は早足で俺の隣に並んだかと思うと、すぐにまた俺の手を引いた。
男爵府の大門に向かって、ほとんど駆け足に近い速度で廊下を進む。
その途中、すれ違う使用人たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしていく。
「馬車を! 早く! 表に回せ!」
「は、はい、ただいま——!」
(……手を引くのはやめてもらえないか)
俺の内心は穏やかではなかった。
爵位がないことは事実だ。男爵が俺に対して軽い会釈で礼を済ませたことも、礼法としては正しかった。
だが、こうして二度三度と断りもなく手を掴んで引き回すのは別の話だ。これは礼法以前に、人の扱い方の問題である。
本来なら御家断絶とは無縁で済んだはずだが、その目算は少しずつ狂い始めている——という自覚は、お前にあるのか。
(……まあ、今は緊急事態だ。後で整理してやろう)
心の中でそっと棚上げして、俺は引かれるまま歩いた。
程なく、男爵府の大門の外に出た。
一台の馬車が、すでに待機していた。
濃紺の幌に金の縁取り。二頭の白馬が並んで牽いている、いかにも格式ばった造りだ。
男爵は俺を引き連れて馬車に乗り込むなり、御者台に向かって鋭く言い放った。
「行け! 守備軍の地牢だ! 一刻も早く! 遅れたら只では済まさないぞ!」
御者はひと言も答えず、すぐに鞭を振った。
「はあッ!」
白馬二頭が一斉に駆け出す。馬車が揺れ、地牢へ向かって疾走した。
車内は重かった。
男爵は座席で両手を膝の上で握り合わせ、ずっと俯いていた。
顔色は、まだ白い。
口の中で何かを繰り返している。
「……どうか間に合ってくれ。公爵夫人が、お怒りになっていなければいいが……」
(奥方の心配をしている場合か。そっちの話は後回しにして、先に足元を見てくれ)
俺はそっと目を伏せた。
ヘレナ母上が怒るかどうか、俺にはわからない。
ただ、俺は怒っている。怒っている、というより——呆れている。
帰ったら父上にひと言入れておこう。こういうことが積み重なると、知らないうちに話がずいぶん大きくなる。
場面転換——地牢
クローディアが転送魔法で姿を消してから、およそ五分後のことだった。
地牢の奥から、重い足音が近づいてきた。
鎧の擦れる音、剣の鳴る音、低い話し声が交じり合って地牢の石壁に響く。
巡回の兵士たちだった。
彼らはいつものように、収監者を確認するために牢の前を通りかかった。
最初に来た一人が、足を止めた。
目が、牢格子の中に向いた。
(……あれ)
頭の中で、何かが引っかかった。
確か——三人いたはずだ。
白髪の娘。ピンクの髪の娘。そして巨大な斧を持った、威圧感のある女。
いまは二人しかいない。
「……」
兵士は無言で一歩退いた。
視線が牢の中をくまなく走る。隅。天井。干し草の下。格子の裏側。
もう一度。 もう一度。
どこにもいない。
(——消えた?)
じわりと焦りが体の中心から広がった。鑓の柄を握り直す手に、汗がにじんだ。
「なんだ、どうした?」後ろの兵士が声をかけてくる。
「白髪のやつが……いなくなった」
「あ?」
静寂。そして一拍置いて——上の床板が、いきなり揺れ始めた。
「ドン、ドン、ドン——」
慌てた足音が、頭上を走り回っている。
怒声が飛ぶ。問い詰める声。「どこに行った」「見張りはどうした」怒鳴り声がひとつ重なり、またひとつ重なって、狭い地牢の天井を伝ってくる。
(……騒がしい)
牢の中のヘレナは、静かな目でその天井を見上げていた。
干し草の上に座ったまま。腕を組んだまま。
表情は、動かない。
ユーナが隣でわずかに肩をすくめるのを感じて、ヘレナは軽くその肩に手を置いた。
「大丈夫よ、ユーナ。クローディアが、すぐに迎えにきてくれるから。あの子がいるなら、ここの人たちは私たちに何もできないわ」
ユーナはこくりと頷いた。ヘレナの腕にそっと寄り添う。
(……早く来なさい、クローディア)
ヘレナは視線を天井に戻しながら、心の中でだけそう呟いた。
声には出さない。表情にも出さない。
ただ待つ。
それができる人間だった。
しばらくして、階段口から足音が降りてきた。
一人ではない。複数の。
鎧の音が揃っている。
剣の輝きが、暗い地牢の中に差し込んだ。
数十人——それに近い数の兵士が、整列して降りてきた。
その先頭に立っていたのは。
(……ああ)
ヘレナの目が、わずかに細くなった。
城門で無礼を働き、クローディアに蹴り飛ばされた守衛だった。
口元に、まだ血が乾いたまま残っている。鎧はよれている。見た目の狼狽は、まだ消えていない。
しかし目の奥の殺気は、さっきより強くなっていた。
彼は牢の前に立ち、腰に手を当てた。
「おい」
乱暴に呼びかける声。
「白髪のやつを、どこへやった。さっさと話せ。手を出すことになっても知らないぞ」
ヘレナは答えなかった。ユーナも答えなかった。
(……話す必要がない)
二人とも、静かにそこに座ったままだった。
守衛はそれを「無言の挑発」と受け取ったのか、苛立ちをあからさまに押し出しながらユーナのほうへ視線を向けた。
細い体。控えめな佇まい。怯えを隠しきれていない目。
鞭を手に取った。
空中を、試すように一振り。
「咻——」
鋭い音が地牢に響いた。
(……この男、やはり頭を使わない種類だ)
ヘレナの中で、何かが静かに固まった。
ユーナが最も「扱いやすい」と判断したのだろう。脅すなら弱い方から——そういう考え方をする人間がいることは知っている。
だが。
ヘレナは動いた。
腕を静かに上げる。収納手環の留め具に指をかけ、開く。
中から取り出したのは——金属製の盾徽章。
クローディアが持っているものと、まったく同じ。エリクソン公爵家の家紋が刻まれた、本物の紋章だ。
ヘレナはそれを高く持ち上げた。
言葉は、短かった。
「無礼を慎みなさい」
地牢に、声が通った。
大きくはなかった。しかし、貴族としての矜持が一本の芯になって声の中に立っていた。
「これはエリクソン公爵家の家紋。私たちはエリクソン家の者です。先刻のあなた方の言動と行動について、ここにいる全員が私たちに謝罪しなさい」
沈黙が落ちた。
兵士の列に、さざ波が立った。
視線が盾徽章に集まる。互いの顔を見合わせる目。わずかに後退する足。
数人が、ゆっくりと武器を下げた。
そして——「かたん」と、一本の剣が床に落ちた。
続いてもう一本。
二人が踵を返し、足早に階段を駆け上がっていった。鎧の音が遠ざかる。
(……わかっている者は、いる)
ヘレナはその背中を目で追いながら、静かに思った。
だが。
「……ハッ」
守衛は鼻で笑った。
冷たい目で盾の徽章を眺め、首をゆっくりと横に振る。
「平民のくせに貴族のふりか。どこで拾ってきた金属くずだ。そんなもので俺が引き下がるとでも思ってるのか」
「黙ってろ」
声が、低く落ちた。
「次は口答えさせない」
鞭が、再び持ち上がった。
今度は——ヘレナに向けて。
真っ直ぐに。




