77. 家紋の重み、そして地牢の衝撃
反応は、早かった。
男爵の目が鋭く細まった瞬間、手がすでに動いていた。
投げ渡された紋章を、迷いなく片手で掴み取る。
流れるような動作。まったく無駄のない、乱れのない受け取り方。
(……なるほど。鍛えている)
一目でわかった。飽食と安寧にどっぷり浸かってきた類の貴族ではない。それだけでも、少し信頼に値するかもしれない。
男爵は視線を手元に落とし、盾徽章の紋章を黙ってじっと見つめた。
厳しかった表情から、戒めの色が少しずつ薄れていく。
代わりに浮かんできたのは——驚愕と、恭敬と、かすかな狼狽だった。
彼はもう一度、念を押すように確認する。さらにもう一度。
徽章が本物であることを確かめるたびに、表情から余計な感情が一枚ずつ削ぎ落とされていった。
ひと呼吸置いて、彼はすっと腰を折った。
「ライク領領主、男爵ロジャー・エリオットと申します。エリクソン公爵令嬢、クローディア様にご挨拶申し上げます」
声は恭しく、態度は謙虚で、一分の揺らぎもなかった。
ただし——片膝はつかなかった。
(まあ、当然か)
俺は内心で静かに頷く。
俺はあくまで公爵の娘であり、自身の爵位を持つ貴族ではない。
貴族間の礼法に則れば、軽い会釈で十分に礼を示したことになる。片膝をつくのは、君主や直接の上位貴族に対して行う礼だ。
彼のやり方は正しい。
礼を終えると、彼はゆっくりと体を起こし、徽章をていねいに両手で差し出してきた。
目には相変わらず恭敬の色が宿っていたが、戒めはきれいに消えていた。代わりに浮かんでいるのは、純粋な疑問と戸惑いだ。
「クローディア様、少々伺ってもよろしいでしょうか。なぜ、当館の浴室に……? 支援の方々とともにご来館されるか、あるいは城門でお出迎えを受けられるものと思っておりましたが」
俺は徽章を受け取り、手環にそっとしまい込んだ。
彼の戸惑った顔を見ていると、苦笑が漏れそうになる。
(……まあ、そうだよな)
公爵家の令嬢が領地を訪れて、最初に現れた場所が他人の私用浴室だった。誰だって首をかしげる。
「それが——話すと少し長くなりますね」
小さく息をついて、俺は口を開いた。
「まず、ライク郡の城門に到着したときのことからお話しします」
そこから先は、順を追って話した。
城門での一幕——守衛による恣意的な徴収。無礼な態度。それに対して、俺が蹴り飛ばしたこと。
捕縛されて地牢に連れて行かれたこと。転送魔法で脱出して、たまたまこの浴室に降り立ったこと。
ただし、同行者が誰なのかは、あえて伏せた。
男爵はじっと立ったまま、俺の話に耳を傾けていた。
表情が、語りとともに動いた。
最初は戸惑い。次に驚き。それから徐々に、怒りと焦りが色濃くなっていく。
時折、小さく頷きながら呟く声が漏れた。
「ああ、なるほど……転送魔法は便利ですが、着地点が制御できないと確かにそういうことになりますね……」
しかし——俺が「ライク領の地牢から転送してきた」と言い終えた瞬間だった。
男爵が、前に踏み出した。
「待ってください」
声に、熱が入った。目が見開かれる。
「今、なんとおっしゃいましたか。三名で来られたはずのご一行が……ライク領の地牢に収監された、と? クローディア様も、その地牢から転送されてきた、と?」
俺は静かに頷いた。
男爵の顔から血の気が引いていくのが、肉眼でわかった。
(……まあ、そうなるよな)
エリクソン公爵アルフレッドといえば、領内では身内への過保護で知られた人物だ。特に、一人娘である俺への溺愛ぶりは周知の事実だ。
その一人娘が、支援で来た先の地に着くなり敵意ある士兵に拘束され、地牢に放り込まれた——
もし父上の耳に入れば。
「謝れば済む」で終わる話ではない。男爵位など一瞬で吹き飛ぶ。下手をすれば、一族ごとだ。
どうやら男爵も、その計算は済んでいるらしい。
「……ッ」
短く息を詰まらせた後——男爵は両膝をついた。
どすん、と床が鳴った。
「クローディア様、伏してお願い申し上げます」
声が、震えている。
「もし可能であれば——このことを、公爵閣下とご夫人にはどうかご内密に……。いかなるご要望にも応じます。お罰しいただいてかまいません。ただ、どうか……どうか、お父上たちのお耳に入れないでいただけますか」
身を縮め、頭を下げる。目を合わせようとしない。
それは、爵位を持たない者が貴族に拝謁する際の礼法——自らの立場をすべて捨てた、最上位の降伏の姿だった。
(……やはり、わかっているんだな)
俺は男爵を見下ろしながら、無言で首を横に振った。
「——お断りします」
短く、はっきりと。
男爵の肩が、びくりと震えた。
顔を上げる。恭請の色が、みるみる絶望に塗り替えられていく。光が消えていく目で、それでも食らいつくように続けた。
「そ、そんな……お願いです、クローディア様。もう一度だけ——もう一度だけお考え直しを。必ずその守衛を厳しく処罰します。部下の規律も、一から立て直します。だから、どうか……どうか!」
額を床に打ちつけた。
鈍い音がした。
一度。 また一度。
(……必死だな)
俺は沈黙した。
あえて、言葉を続けなかった。
男爵は頭を下げたまま震えている。男爵位だけでなく、家族の命まで心配しているのだろう。
それは、おそらく正しい恐怖だ。公爵家の直系親族を侮辱した家の末路を、この男は頭の中でもう一度なぞっているに違いない。
俺はひとつ息をついて、静かに口を開いた。
「断る理由があります」
「——理由?」
「母が、まだ地牢にいるからです」
しん、と沈黙が落ちた。
男爵が頭を上げた。
ゆっくりと。まるで、聞こえた言葉の意味を脳が処理しきれていないかのように。
「……今、なんと」
「公爵夫人も、地牢にいます」
「ッ……——」
言葉が、出なかった。
男爵の顔が、一瞬で白紙になった。
口が半開きになり、そのまま動かない。目の焦点が定まっていない。体の震えが、一段階上がった。
(御家断絶——というどころではなくなった、か)
令嬢を拘束した段階では、まだ「土下座と賠償で命乞いができた」かもしれない。
しかし公爵夫人まで地牢に放り込んだとなれば——それはエリクソン家への直接の侮辱だ。謝罪でどうにかなる話ではない。
男爵は震える唇をなんとか動かした。
「……こう、こう爵夫人も……あの地牢に……」
呼吸が乱れている。
「——お待ちください!」
男爵は床から飛び起きた。
俺に向き直り、短く「失礼をお許しください」とだけ言って——俺の手を掴んだ。
「参りましょう、今すぐ!」
そのまま、廊下へ走り出した。
(速い……)
ぐいぐいと引っ張られる。長い廊下を一直線に駆け抜けながら、男爵の足は一向に緩む気配がない。
(さっきの受け取り方といい……やはり鍛えてはいるな)
走りながら、俺はぼんやりとそう思った。
男爵府の廊下を折れ、突き当たりの一室の前で男爵がようやく立ち止まった。
「クローディア様、少々お待ちください!すぐに着替えます、すぐに!」
俺の手を離すなり、勢いよくドアを開けて中へ飛び込んでいく。
(……バスローブで地牢に行くつもりだったのか、さっきまで)
俺は扉の前に立ち、静かに待った。
小さく首を横に振りながら。
約三分後——男爵が姿を現した。
濃紺の礼服に、金の縁取り。金色の長髪は手早く整えられ、浴室での狼狽は面影を残しながらも、幾分か落ち着きを取り戻していた。
ただし目の奥の焦りは消えていない。
むしろ、燃えている。
「お待たせいたしました」
声は短く、すでに歩き出している。
俺はその隣に並んだ。
地牢へ、向かう。




