76. 紋章
俺はそっと立ち上がり、濡れた衣服を一枚ずつていねいに脱いで、傍の椅子に置いた。
下着も、例外なく。
それから指先にかすかな火焔魔力を凝縮させ、炎を最小限に絞り込んで、衣服と下着をゆっくりと乾かしにかかった。
温度はちょうどいい。生地を傷めることなく、しかし確実に水分を吸い取っていく。
——浴室に替えの衣服があるかもしれない。頭にちらりとその考えがよぎった。
でも、今日持参した礼服はこれ一着だけだ。
ロジャー・エリオット男爵に会い、クラーケン討伐について話し合うには、きちんとした服装でなければならない。
この礼服を着て行かなければ意味がない。
一方で、俺は心の中でひたすら祈っていた。
(お願いだから、誰も入ってきませんように)
今の俺は、男爵の私用浴室で一糸まとわぬ姿で立っている。
もし誰かに見られたら——自分の名誉が傷つくどころか、家名まで汚すことになる。
厄介事が厄介事を呼んで、本来の目的であるクラーケン討伐が霞んでしまう。
そんな事態は絶対に避けたかった。
——と、ここで視点は変わって、もう一方の話だ。
ライク郡の領主、ロジャー・エリオット男爵は、今日も山積みの書類と向き合っていた。
書斎の机の上には、百姓たちからの嘆願書と、港湾警備隊からの報告書が雑然と積み上げられている。
すべてクラーケンに関するものだ。
(……もう半年になるか)
男爵は疲れた目でその束を眺め、静かなため息をついた。
この半年、思いつく限りの手を打ってきた。守衛を派遣し、腕の立つ冒険者を雇い入れ、海軍にも要請した。
しかし結果は毎回同じだった。
傷一つ与えられないまま、こちらが損害を受けて終わる。
かつてゴードリア半島の要衝として栄えたライク郡の港は、今では商船の姿もなく、市井の活気も失われつつある。
治める者として、その現実が胸に刺さっていた。
それでも——今日だけは違う。
男爵の口元に、珍しく笑みが浮かんでいた。
今朝、エリクソン公爵府からの急書が届いたのだ。
『本日、三名を派遣する。クラーケン討伐の支援を任せよ』
たった一行だが、その重みは相当なものだった。
(エリクソン公爵が直々に……)
領地経営の底力で知られるあの公爵が、わざわざ人を寄越してくれる。それがどれほどの意味を持つか、長年貴族社会で生きてきた男爵にはよく分かっていた。
三名が優秀であることは、最初から疑っていない。
その三名の力を、ライク郡の冒険者たちと、港湾海軍と、新しく徴兵した兵士たちに合わせれば——
今度こそ、クラーケンを仕留められる。
男爵は脳裏に、港が再び活気を取り戻す光景を描いた。
商船が行き交い、漁師が笑顔で戻ってくる。かつての、あの賑わいが。
(きちんと迎えなければ)
万全の状態で貴客を出迎えなければ、ライク郡の領主として恥ずかしい。
まずは身なりを整え、礼服を着て、城門まで自ら出向くべきだろう。
幸い、半時間ほど前に湯を張るよう使用人に命じておいた。
浴槽はもうちょうど適温になっているはずだ。
男爵は書類を机に伏せ、襟元を軽く整えると、弾む気持ちのまま書斎を出た。
廊下の奥へと、軽快な足取りで歩み始める。
支援者たちとともに、クラーケンを討伐する。その日が、いよいよ今日になった——男爵の心に灯った希望の炎は、今まさに最も明るく輝いていた。
クローディアの視点に戻る。
俺の読みは、盛大に外れた。
よく考えれば分かることだ。
わざわざ湯を沸かしておいた浴室を、何の用もなく放置する人間なんているわけがない。
次の瞬間——浴室のドアが静かに押し開けられた。
長身の人影が、さらりと入ってくる。
俺は反射的に顔を上げた。
視線が合った——その瞬間、俺の全身の時が止まった。
浴巾(手環から取り出したもの)を胸元にきつく抱え込みながら、俺は目の前の男性をぼんやりと見つめた。
艶のある金髪。長さは肩口まで。均整の取れた体躯に、健康的な褐色の肌——俺の白い肌とは、正反対だ。
向こうも完全に無防備だった。
男の顔から、みるみる余裕が消えていく。
目が丸くなり、手に持っていたタオルが指の間からずれ落ちそうになった。
口が微かに開いて、そのまま動かない。
「ああああああああ——!」
気づいたときには、俺の口から鋭く細い悲鳴が飛び出していた。
普段の俺とは程遠い声だ。
——少なくとも、骨の髄まで四十三歳の男である俺の魂が出すべき声では、断じてなかった。
俺は咄嗟に両腕で胸元を抱え込み、壁に背中を押しつけた。
頬が、燃えるように熱い。
「じ、十分に失礼しました!すぐ出ます!」
金髪の男が先に立ち直って、頭を下げながら早口でまくしたてた。
しかしすぐに言葉が途切れ、眉が寄る。
「——いや、待てよ?ここは俺の浴室じゃないか。あなたは誰ですか。なぜここにいるんですか」
彼はまくし立てながら、手に持ったタオルを体に巻きつけようと奮闘している。動作がやや不器用で、タオルが落ちないようもう片方の手で押さえながら、もう片方の手で目を塞いだ。
(両手が足りていないぞ)
思わず内心でツッコんだが、それどころじゃない。
俺は深く息を吸って、心の乱れを整えた。声が、わずかに震えている。
「服を乾かしてから話す」
これ以上この状況で話せる気がしなかった。まず着る。話はそれからだ。
男も理解したのか、それ以上は何も言わなかった。
片手で目を塞いだまま、壁際をまさぐるように移動して、浴室の隅の壁の裏側にそっとしゃがみ込んだ。
「分かった。待ちます。ただし絶対に見ません!」
背中に向かってその声が届いた。
俺は彼の姿を一瞥してから、黙って指先に魔力を集め直した。
(ひたすら衣服の乾燥に集中しろ……)
炎の温度を一定に保ちながら、椅子の上の礼服と下着に火焔を当てる。脳の半分は言い訳の文章を組み立てていた。
——俺がエリクソン公爵の娘で、クラーケン討伐の支援として来た、というのは話せる。
問題は、どうしてこの浴室にいるのかの説明だ。
「転送魔法で飛んだら浴槽に落ちた」——それが正直なところだが、このまま言えばいいのか。
(言うしかないな)
五分ほどで、衣服は完全に乾いた。
俺はてきぱきと礼服を身につけ、下着も素早く整える。
乱れた白金色の長髪を耳の後ろへかき上げ、礼服の裾のしわを手のひらで伸ばす。
乱れはない。見苦しい箇所もない。
「もう出てきていいよ」
俺が声をかけると、しばらく間があった。
壁の向こうでごそごそ物音がして、白いバスローブに着替えた金髪の男が、ゆっくりと歩み出てきた。
帯はきちんと結ばれている。さっきのタオル問題はクリアしたようだ。
顔の赤みは多少残っているが、目に宿っていた狼狽はほぼ消えていた。
かわりに、厳しい表情が浮かんでいる。
両手をさりげなく胸の前に構え、重心を少し落としている——戦闘のための体勢だ。
見知らぬ者が私用浴室に侵入していたのだから、警戒するのは当然だ。
「では聞かせてください。あなたは誰ですか。どうしてここにいるんですか」
声は静かだが、緊張している。
俺は静かにため息をつき、軽く首を振った。
(やはりそうなるか)
それでいい。むしろその警戒心は領主として正しい。
無言のまま、俺は手首の収納手環に触れた。
取り出したのは、金属製の盾形の徽章だ。
エリクソン家の家紋。
俺は徽章を軽く指ではじき、そのまま男に向かってふわりと放り投げた。
この徽章を知らない貴族は、このあたりにはいない。




