75. 浴槽へ墜落、そして唖然とする母上
先ほど蹴り飛ばした守衛が、ようやく立ち直って牢格子のそばまで歩み寄ってきた。
口元を歪め、格子に向かって数回思い切り蹴りつける。
カーン、カーン、カーン——金属がぶつかる音が湿った地下に響き渡る。耳障りで、やかましい音だ。
それでも三人とも、一切動じなかった。
俺は静かに守衛を見つめ返した。恐怖もなく、妥協もない。ただ——眺めている。
母上は組んだ両腕もほどかず、目を細めている。こいつのやることなど、取るに足らぬ茶番だとでも言わんばかりの平静さだ。
ユーナはまだ多少顔がこわばっているが、それでも唇を噛みしめたまま身動ぎひとつしない。
俺の隣に寄り添い、指先が俺の袖をぎゅっと掴んでいた。その目に、怯えを押し殺した強さが宿っていた。
三人に完全に無視されると、守衛の顔からじわりと余裕が消えた。
代わりに、悔しさと苛立ちが滲む。
ペッ、と格子に向かって唾を吐いた。
(……最低だな)
吐き捨てるように罵り声を上げた守衛の背中を見送りながら、俺は小さくため息をついた。
守衛たる者が金をたかり、挙句の果てに唾を吐く。ロジャー男爵の警備隊か。
「それで、どうする?領主を呼び出さないといけないんだが」
振り返り、母上とユーナを見た。手を軽く広げ、苦笑する。
「奴ら、絶対俺たちを領主に通す気はない。いつまでもここに閉じこもってるつもりもないし。クラーケン討伐の時間が惜しい」
胸の奥で焦りがじりじりと燻っていた。
ライク郡まで来たのはクラーケンを倒すためだ。それなのに腐った守衛のせいで鉄格子に入れられ、領主の顔も見られないまま足止めを食っている。
このままでは、また誰かが被害に遭う。
その時——母上とユーナの視線が、同時に俺に向いた。
どこか「分かってるでしょ?」と言いたげな、ねっとりとした目つきだ。
「……?」
「あなただけ、ここから出られるじゃない」
母上が穏やかに首を傾け、俺の肩にそっと手を置いた。
「転送魔法で男爵館に飛んで、ロジャー・エリオット男爵に面会して。身分証明をした上で、ここに来てもらいなさい。それで話がつく」
(……ああ、確かにな)
腑に落ちた途端、自分の迂闊さに内心で小さく舌打ちした。
転送魔法があるのに。すっかり頭から抜けていた。
「分かった。 今行く」
小さく息をついてから、代わりに手を軽く振ってみせた。
「すぐ戻る。男爵を連れてね。少し待ってて」
ユーナが小さく頷いた。
「クローディア様、くれぐれも余計なことをしないでください」
母上も静かに頷く。
「心配しないで。こっちは時間を稼ぐから。うまくやってらっしゃい」
簡単な別れの後、俺は余分なことを頭から締め出した。
指先に魔力を集中させる。足元に、転送魔法陣が淡く浮かび上がった。
白光が、薄暗い地牢をほんのりと照らし出す。術式が徐々に形を成し、光は強さを増していく。
深呼吸して、精神を統一する。呪文を静かに紡いだ。
三——
二——
一——
白光が全身を包んだ。次の瞬間、俺の体は光とともに地牢から完全に消え去った。
地牢に、静寂が戻った。
母上は格子にもたれかかり、ユーナへと柔らかく笑いかけた。
「ユーナちゃん、これからはふたりでクローディアに時間を稼いであげましょうか」
だがユーナは答えなかった。
ただ、大きな瞳で真っ直ぐに母上の顔を見上げている。何かを考えているような、曖昧な色がその目に宿っていた。視線を逸らす気配もない。
母上は眉をわずかに寄せ、首を傾けた。
「どうしたの?何か引っかかってる?」
ユーナが少し間を置いてから、真剣な目つきで口を開いた。
「ヘレナ様、クローディア様が転送魔法を使えるなら、私たちもご一緒に転送できたんじゃないでしょうか。わざわざ男爵様を呼んできてもらうより、そっちの方が早くて手間も省けますよね?」
沈黙が落ちた。
母上の表情が、じわじわと固まっていくのが分かった。眉根が寄り、瞳に疑問の色が濃くなる。
数秒後——彼女はまるで今しがた気づいたかのように目をぱちくりとさせた。
「あ」
自分の頭をぽんと軽く叩く。声には気まずさと呆れが混じっている。
しかし今更どうにもならない。転送魔法を使えるクローディアはもう男爵館へ飛んでしまった。
残っているのは、大きな力を持ちながら転送魔法をまだ習得していないヘレナと、ピンク髪の侍女だけだ。
「……そうね、あなたの言う通りかしら」
軽く咳払いをして、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。
「困ったわね。うっかり失念してたわ」
ユーナはその気まずそうな笑みをじっと見つめた。
(……精霊でも40歳だと、頭の中はやっぱり子供のままなのかしら。こんな簡単なことを忘れるなんて)
その考えが頭をよぎった、次の瞬間——
ぴしっ。
手を刃のように研ぎ澄まし、ヘレナが容赦なくユーナの頭頂へ振り下ろした。
ずん、という鈍く重い音。
ユーナの瞳からすっと光が抜けた。前へ一傾きし、そのまま地牢の藁の山へと崩れ落ちた。
動かなくなった。
母上は倒れ込んだユーナを見下ろし、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべている。
「あらあら、つい手が出てしまったわね。次からはもう少し自分を抑えないといけないわね」
軽く手をはたき、まるで何ともないかのように佇んでいる。
一方、クローディアの視点へ。
白光の残滓が消えた瞬間、俺は見知らぬ場所に立っていた。
すばやく体勢を立て直し、あたりを見回す。
部屋の内装は精緻だった。床は質の良い大理石で敷かれ、光沢がある。片隅には一輪挿しが置かれ、淡い花の香りが漂っている。転送の不快感を少しだけ和らげてくれた。
この部屋の雰囲気からすると、ここの主は間違いなく貴族、しかも身分の低くない人物だ。とすれば、転送はうまくいったのだろう。ロジャー・エリオット男爵の館に着いたはず——
そう思った直後。
足元が、空いた。
視界が傾き、体が前へと崩れる。後ろに引っ張られるような浮遊感だけが残った。
ざぶん——!
熱い水が全身を包んだ。息が詰まり、咳き込みながら手足が暴れる。髪も服も瞬く間に水を吸い、肌にぺったりと張り付いた。
幸い水温はそれほど高くはなかった。ほんのりと温かい程度で、やけどを負う心配はない。
ぱちゃぱちゃと水をかきながら湯船の縁を掴み、全身の力を振り絞ってなんとか這い上がった。
床に座り込み、荒い息をつく。胸が上下する。顔にはまだ水が伝っていて、見るも無惨な有様だった。
息を整えてから、もう一度あたりを見渡す。
ここは普通の部屋ではなかった。広々とした、華やかな浴室だ。
大理石造りの広い浴槽、その傍らには洗面具が並び、壁には柔らかなタオルが掛けてある。隅々まで丁寧に整えられている。
どうやら俺は、ロジャー・エリオット男爵の私用浴槽にめでたく着水したらしい。
(……全部外れたな)
脱力感が全身を貫いた。
服が肌にべったりと張り付き、細身の体が浮き出ている。湯気のせいで肌は白く際立ち、白金の髪が肩を伝ってしたたり落ち、床に小さな水たまりを作っていく。
転送そのものは成功したのに、着地点が男爵の浴槽だった。身分証明の話どころじゃない。
まず服を乾かしてから男爵に会うしかないようだ。
浴室内をざっと確認する。誰もいない。昼の時間帯だし、今は入浴の時間でもない。人が来る可能性は低いだろう。
(……取り敢えず、乾かしてから出よう)
そう判断した俺は、静かに魔力を指先に集め始めた。




