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74. 蹴り飛ばした代償、そして地牢の仮収監

(…… ぼったくりだ。どう見ても)


 眉がわずかに寄った。


「入城料は銀貨 10 枚?」


 先に口を開いたのは母上だった。声は穏やかだが、揺るぎない。


「公爵様が定めた規定では、馬車乗りで銀貨 1 枚、徒歩なら一人銅貨 100 枚のはずですが。その金額は規定に反しますよね?」


 だが守衛は母上の言葉を鼻で笑った。


 両腕を組み、俺たちを足元から頭の先まで、品定めでもするように舐め回した。その目に隠す気のない軽侮が滲んでいる。


(…… 分かってた。変装していないのが悪かったか)


 今日は変装魔法を使っていない。見た目はいつも通りだ。


 だがこの守衛には、目の前の三人が公爵夫人と公爵令嬢とその侍女だなどと、分かりようがない。


 エリクソン家の家紋を身につけていないのだから当然だ。


 彼の目には、俺たちは後ろ盾もない、どこにでもいる年若い娘たちにしか見えない。


 気軽にゆすれる相手だとそう思っているのだろう。


「俺より規定に詳しいつもりか?」


 守衛はくつくつと笑い、面倒くさそうに俺たちを一瞥した。


「銀貨 10 枚は 10 枚だ。払いたくなきゃ帰れ。俺の昼寝を邪魔するな」


 言い終えると、彼の視線が動いた。


 ユーナのところで —— 止まった。


 じっとりと、剥がれない。口元が緩み、目が細くなる。


 ユーナが背筋をすくめた。俺の背後にじりじりと身を寄せ、ピンクの髪が肩からこぼれる。指先が俺の袖をぎゅっと掴んでいた。


「…… いい娘じゃないか」


 守衛は舌先を唇に這わせた。声のトーンが変わる。粘ついて、おぞましい。


「その娘が三晩付き合ってくれるなら、三人まとめてただで通してやるぞ。どうだ?」


 言いながら、垢と傷だらけの手が、ユーナの頬へと伸びてきた。


 俺の中で何かが、すっと冷えた。


(…………)


 他のことなら多少は我慢できる。


 でもこれは、駄目だ。


 ユーナは俺の人だ。俺が連れてきた子だ。俺が守ると決めた子だ。彼女に向けられる軽い言葉ひとつすら、俺には許せない。


「触ったら試してみろ」


 自分の声が、予想外に低かった。


 右手を少し持ち上げる。指先に魔力を集中させると、一瞬で短剣が凝結した。刃を守衛の方へ向け、静かに構える。


「————」


 守衛は一瞬だけ目を止めた。


 そして —— 噴き出した。


「あははっ、短剣か。可愛いもんだな」


 嘲るように俺を見下ろし、今度は俺に向けて目を細めた。


「よく見たらお前も、なかなかじゃないか」


 唇の端が歪む。


「そっちの娘をかばいたいなら、お前が三晩付き合えばいい。そうしたら全員ただで通してやる。どうだ?」


 俺の中の怒りが、一段階上がった。


 でも。


(…… 駄目だ。殺すな)


 頭の冷たい部分が、ちゃんと動いていた。


 ここはロジャー・エリオット男爵の領地だ。彼は今、クラーケンのせいで苦しみ続けている。俺たちが助けに来るのが遅くなったことへの負い目だって、まだある。


 その男爵の配下をいきなり斬り殺したら、いくら非が向こうにあっても —— 礼に欠ける。

 だから、殺さない。


 でも、このままにしてはしない。


 俺は短剣を消した。


 代わりに、足を引いた。


 腰を落として重心を下げ、右足を一歩踏み出して —— 躊躇なく、守衛の胸板を思い切り蹴り上げた。

 ど、と鈍い音がした。


 守衛の身体が宙に浮いた。くるりと一回転、もう半回転、合わせて一回転半ほど空中で回ってから、どすん、と地面に落ち、ごろごろと転がって、城壁の根元に背中から叩きつけられた。


 静寂。


「…………」


 守衛はしばらく動かなかった。


 やがて、よろよろと立ち上がる。口の端から血が垂れている。胸の服がぐしゃぐしゃになっていた。全身に砂埃がついて、見るも無惨なありさまだった。


(…… まあ、そうなるよな)


 思い切り蹴り飛ばされて、空中で一回転半して、城壁に背中をぶつけたんだ。誰でも怒る。


 まして、毎日好き勝手していた守衛が、急に痛い目を見たんだから、なおさらだ。


 守衛の顔が、みるみると赤く染まった。


「このっ、この……!」


 掠れた声が裂けそうに上がった。


「衛兵!衛兵ー!守衛への暴行だ!こいつらの無法者を捕まえろ!」


「…… あなた、少し大ごとにしてしまったわね」


 母上がそっと俺の頭に手を置いた。


 指先でぽんぽんと頭頂を叩く。声には困惑がある。でも怒りは、ない。


 その目の奥には、むしろ隠し切れない笑みが滲んでいた。「よくやった、でも次は加減しなさいね」とでも言いたそうな顔だ。


 俺はそっと舌を出した。


(…… 後悔は、してない)


 あの手がユーナに届いていたら、俺は今よりもっと容赦しなかっただろう。


 足音が近づいてきた。


 複数。 速い。


 城門の奥から、完全武装の衛兵が数人走り出てきた。槍の先が俺たちに向いている。表情は硬く、目が鋭い。


「動くな!守衛を襲撃したな!」


 俺たちを囲む形で包囲が完成する。


 説明の機会はなかった。


 彼らは話を聞かなかった。先に手を出した経緯を話そうとしても、言葉を遮られた。槍先が俺の胸に突きつけられ、「口を閉じろ」と命じられた。


(…… このまま抵抗すれば、ますます収拾がつかなくなる)


 俺は魔力を指先からゆっくりと散らした。


 両手を静かに持ち上げた。


「抵抗しません。同行します」


 ユーナが俺を見た。一瞬迷う顔をして、それから同じように両手を上げる。


 母上は両腕を組んだまま動かなかった。ただ衛兵たちを静かな目で眺めている。


 手を上げる気配もないが、逃げる気配もない。ただ —— この人には、そもそも本当の意味での緊張というものがないのだろう。


 衛兵たちが俺たちの腕を掴んだ。乱暴に、力任せに。腕の皮が引っ張られて痛い。跡がつきそうだった。

 でも俺は黙っていた。今ここで騒いでも、得るものが何もない。


 地牢は市庁舎の地下にあった。


 階段を降りると、空気が変わった。冷たく、湿っていて、カビと何か腐ったものの匂いが混じっている。足元の石畳は苔で滑る。松明の光が弱く、牢の隅々まで届いていない。


 牢の中には先客がいた。


 破れた服を着た人々が、壁際に蹲っている。目が虚ろだ。俺たちが入ってきても、ちらりと一瞥しただけで、また視線を床に落とした。


(…… この環境は、規定違反だな)


 父上は囚人の最低限の処遇についても通達を出していたはずだ。この状態は、明らかにそれを下回っている。


(…… 領地巡察、早めにやった方がいいな。戻ったら父上に伝えよう)


 そんなことを頭の片隅で考えながら、俺は衛兵に背中を押されて牢の中に入った。


 がちゃん、と鉄扉が閉まった。


 大きな錠前が掛けられる音が、地牢に響いた。


 衛兵は扉の外に立ち、俺たちを冷たく見下ろした。


「おとなしく待っていろ。後で裁判官が来る」


「領主様にお取り次ぎを」


 母上が静かに言った。声は穏やかだが、重かった。


「ロジャー・エリオット男爵に、お目通りを願いたい。話があります」


 衛兵は鼻で笑った。


「下々が領主様に会いたい?笑わせるな。お前たちみたいな連中を通して、万が一領主様に何かあったらどうするんだ。黙って待ってろ」


(…… まあ、そうなるよな)


 俺は鉄格子の冷たい感触を指先に感じながら、小さく息をついた。


 今ここで家紋を見せても意味がない。守衛を蹴り飛ばした後で、どんな証拠を出しても「偽物だ」と言われるだけだ。


(…… 男爵が来るまで待つしかないか)


 俺は壁にたれかかって、目を閉じた。


 牢の空気は冷たく、どこかで水が滴る音がする。


(…… 早く来てくれよ、ロジャー男爵)

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