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73. 海風と廃れた港町

 自分の髪もまだびしょ濡れで、背中にべったりと貼り付いているのに、肩をかすかに震わせながら俺のことを気遣ってくれている。


(……ユーナって、本当にいい子だな)


 心の中でこっそりそう思うと、口元がつい、ほんの少しだけ緩んだ。さっきまでの罪悪感と羞恥心が、少しだけ薄らいでいく気がした。


「夫人も、怒ってるわけじゃないと思いますよ?クローディア様、あんまり気にしすぎないでください」


 ユーナの声は小さく、どこか不器用な温かさがあった。指先はまだ魔力を操りながら、こつこつと俺の髪を乾かし続けている。


「だって、人間だれでも失敗することありますし。それに今日だって、クローディア様が転送魔法を開発してくれたから、こうして早くここに来られたじゃないですか。 本当にすごいと思いますよ。じゃなかったら、私たちあの水たまりに落ちることすらできなかったわけですし」


「……」


 さっきよりも少しだけ軽くなりかけた気持ちが、その一言でまた底まで沈み込んだ。


 俯いていた顔が、さらに深く垂れ下がる。あごが胸に触れそうなくらいだ。


(……やっぱりこの子、根に持ってるよな。慰めの言葉にちゃんと毒が入ってるもん)


 母上は草の上に座ったまま、両手で頬杖をつき、俺たち二人のやり取りをにこにこと眺めていた。口元を手で隠しながら、くすくす笑い声が漏れてくる。


 二ヶ月ほど会えていなかったせいか、その目には安堵と満足が混じっているように見えた。


(……まあ、久しぶりに娘の顔を見たら、あんな騒ぎでも嬉しいか)


 若い子たちがこんなにぎやかに絡み合っている姿を黙って眺めるのが、大人の楽しみのひとつなのかもしれない。そういうものなのだろう。


 ――と、ふとそこで思った。


 そういえば母上って、精霊族だよな。


 精霊族の寿命は人間とは比べ物にならないほど長い。軽く千年を超えることも珍しくない。


 だとしたら、精霊の換算で言えば、母上って今何歳くらいなんだろう。


 ひょっとして俺たちと同じような、まだ幼い頃に相当するんじゃないか……?


 俺は顔を上げないまま、ちらりと横目でそっと母上の方を盗み見た。


 外見だけ見れば、どう見ても十八歳前後の女の子だ。精霊族特有の美しさのせいか、人間の少女よりもずっと整った顔立ちをしている。


 金色の長い髪、すっと通った鼻筋、白磁のような肌。それでいてどこにも年齢の翳りがない。


 もしかして本当は四……


 パコン。


「――っ!?」


 思考が終わる前に、頭頂部に鈍い衝撃が炸裂した。


 目の前が一瞬真っ暗になって、舌がずるっと口から出て、そのまま全身の力が抜けた。


 俺はゆっくりと横に倒れ、草の上に崩れ落ちた。白金の長い髪がふわりと広がって、緑の草原の上に白い絨毯を敷いたみたいになった。


「ヘレナ様!何を突然!」


 ユーナが目を丸くして飛び起き、慌てて俺のそばに膝をついた。倒れた俺の上体をそっと抱き上げ、心配そうに顔を覗き込んでくる。


 母上は草の上からゆっくりと立ち上がり、懐からひらりと白いハンカチを取り出すと、たった今クローディアの頭を叩いた手のひらをてきぱきと拭いた。


 口元にはほんのかすかな笑みが浮かんでいる。だが目の色には、いつもの穏やかさの奥に、ほんの少しだけ厳しいものが宿っていた。


「ちょっと失礼なことを考えていた気がしたので」


 語調は平坦だった。


 言い訳にも謝罪にも聞こえないが、そこに何の疑念もなかった。


 それだけで説明は終わりだと言わんばかりに、ハンカチを丁寧に折り畳んで、懐にしまう。


 しばらくして、俺は目を覚ました。


(……やっぱりなんか怖いんだよ母上は)


 こめかみをそっと押さえながら身を起こすと、衣服はすでにほぼ乾いていた。三人で各自手早く着替え、乱れた髪を整える。


 準備が終わったところで、俺たちはライク郡へと歩き出した。


 ライク郡は、エリクソン公爵領の最北端に位置する沿岸の郡だ。


 海風がひっきりなしに吹き込み、空気には常に塩と魚の匂いが混じっている。


 かつては、ゴードリア半島とグリンマン帝国を行き来する商人たちにとって欠かせない中継地点だった。


 往来する商船が碇を降ろし、補給を済ませ、また次の港へと出航していく。その繰り返しの中で、ライク郡はゆっくりと豊かになっていった。


 寄港料と補給費だけで積み上げた財力は、エリクソン領内においてアムニット市に次ぐ規模の都市を育て上げた。


 街並みには整然とした建物が並び、通りも広く、他の町よりも洗練された空気が漂っていた。


 さらに後日、俺が改良したクローディア式下水道システムがここにも導入された。


 それまで雨が降るたびに溢れていた汚水が消え、街の空気が格段に清潔になった。かつて周期的に流行っていた疫病の懸念も、ほぼ根絶されたといっていい。


 港の安定収入に加え、近代的な衛生インフラを手に入れたライク郡の暮らしは、豊かで落ち着いていた。漁師も商人も職人も、みな顔に余裕の笑みを持っていた。


 ――あの頃は、そうだった。


 その穏やかな日常を壊したのが、クラーケンだ。


 ライク郡の沖合に突如として現れたその魔物は、理性も情もなく、ただ圧倒的な暴力だけを持っていた。


 商船が通るたびに、海中から巨大な触手が伸びてくる。船体を締め付け、乗組員ごと引きずり込み、そのまま海の底へ消えていく。


 クラーケンの全体像を見た者はいない。ただ、誰もが言う——あれは、人の力で抗えるものじゃない、と。


 長年この航路を行き来してきた商人たちの非公式な統計によると、ライク郡の沖を通る船の五割が帰ってこない。


 半分だ。


 その数字が広まると、商人たちは一斉に航路を変えた。


 多少の遠回りになっても、北のインゲリア諸島沿いに迂回するルートを選んだ。数十日余分にかかっても、もうライク郡の港には寄らないと決めた。


 人の流れが止まれば、金の流れも止まる。


 港は静まり返った。かつて荷物の積み下ろしで騒がしかった埠頭に、今は空の係船柱だけが残っている。補給店は店をたたみ、荷役の仕事も消え、埠頭の人々はひとりまたひとりと去っていった。


 街から活気が失われていく様子を、俺は情報として知っていた。


 それでも、こうして実際に近づいてみると、胸のどこかがじんと痛んだ。


(……あれだけ豊かだった町が、こうなるのか)


 ライク郡を治めるロジャー・エリオット男爵は、相当参っているに違いない。


 公爵邸に届く彼の書簡は、回を追うごとに文字が乱れていった。


 あの律儀で几帳面な男が、崩れた字で援助を請うている。それだけで、状況がどれほど逼迫しているかが伝わってくる。


 だがあの頃は、俺たちもアムニット市内でローブ会の監視に手を取られていた。クラーケンに人手を割く余裕がなく、送れるのは経済的な支援だけだった。


 それでも支援がなかったよりは、人の流出が幾分か抑えられた。完全には止められなかったが、最悪の事態は防げていたはずだ。


 でも、それは答えじゃない。


 クラーケンを倒さない限り、ライク郡に本当の意味での復活はない。


 男爵もそれは分かっている。守備隊を出したこともある。冒険者ギルドに依頼を出したこともある。


 どちらも成果がなかった。守備隊は壊滅し、腕に覚えのある冒険者たちも、あの魔物の前ではなす術なく退いた。


 誰もクラーケンには勝てなかった。


(今日まで、な)


 俺たちはライク郡の城門へと続く小道を進んだ。


 海風の匂いが濃くなっていく。錆びと塩と、かすかな腐敗の匂い。かつてはなかったはずの、荒廃の気配だ。


 城門の前では、守衛がひとり、城壁にもたれかかって舟を漕いでいた。


 頭がゆっくりと上下している。口の端に、よだれがひと筋。こっちが近づいてきても、まったく気がついていない。


「すみません、入城したいのですが」


 俺は前に出て、小声で声をかけた。指先が無意識に耳元の髪を一束掻き上げる。海風に乗って椿の香りがふわりと広がり、潮の匂いの中に溶け込んだ。


 守衛がびくりと肩を震わせた。


 勢いよく顔を持ち上げて、目をぱちぱちさせる。ごしごしと目元を拭い、大きなあくびをひとつ。それからようやく、完全に覚醒した目で俺たちを見た。


「あ、ああ、入城ね?」


 眠気の名残りを声に乗せながら、頭を掻く。


 だが——俺たちが身なりの地味な、若い女三人組だと分かった瞬間、その目の色が変わった。


 眠気が引いた代わりに、品定めするような光が浮かんだ。舐め回すような視線が、俺からユーナ、ニーナへと動いた。


「珍しいな、こんな時期にこんなとこまで来るのか。入城料、一人銀貨10枚だ」


 口の端が、にやりと歪んだ。

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