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72. 伝送魔法と、湖底の大惨事

翌朝、夜明けからさほど時間も経っていないうちに、アムニット魔法学院の魔法放送が校内に響き渡った。


澄み切った声が、期末試験の日程と夏期休暇の詳細を告げていく。


夏休みはおよそ二ヶ月。


放送が終わった瞬間、教室の中が一気にざわめいた。


歓声を上げて立ち上がる者、机に突っ伏してうめき声をあげる者。 「期末試験が難しすぎる」「絶対落とす」と嘆く声があちこちから漏れ聞こえてくる。


俺は自分の席に座ったまま、窓の外をぼんやりと眺めた。


別に、何も感じない。


(まあ……そうだろうな)


数年前にとっくに習得済みの知識だ。 今さら試験の内容で動揺するほど、俺のメンタルは初心ではなかった。


期末試験は、予想通り何事もなく終わった。


全科目、全問正解。 ユーナも同じく満点。


結果が張り出された日、俺たちの名前が二人並んで最上段に載っているのを見た何人かが、「またか」という顔をしていた。 ……それが普通の反応だとは思う。


試験翌日、俺たちはチャーリーに別れを告げた。


「田舎のおじいちゃんおばあちゃんに会いに行くんだ!」


チャーリーは満面の笑みでそう言って、大きな荷物を背中に担いでいた。 夏休みの間は実家のある農村に帰るらしい。


「気をつけてね」と言うと、チャーリーは元気よく「うん!」と返事をして、ぱっと飛びついてきた。


あ、ハグされた。


俺は一瞬硬直したが、すぐに小さく背中に手を回した。


「チャーリーも、元気でね」


「ケイシーちゃんもユーナちゃんも、夏休みも絶対無事でいてよ? 約束だよ?」


「……わかった。約束する」


チャーリーは満足そうにほほ笑んで、今度はユーナに飛びついた。 ユーナが「わっ」と小さく声を上げながらも、慣れた様子で受け止めている。


さすがに何度もやられてると慣れるものだ。


それからしばらくして、俺とユーナは簡単な荷物をまとめ、公爵邸から迎えに来た馬車に乗り込んだ。 アムニット市をあとにして、そう遠くない場所に構えるエリクソン公爵邸へと向かう。


馬車の窓際に寄りかかって、俺は流れていく景色をぼんやり眺めた。


(そろそろ、やれるな)


この数日間、ジャックからの情報を頼りに、俺とユーナはひっそりとローブ会のメンバーを捕縛し続けていた。


ジャックの情報は正確だった。 示された場所には、ほぼ確実にローブ会の関係者がいる。 多少の抵抗はあったが、俺とユーナにとっては大した障害でもなかった。


そして——休暇前日の夜。


最後の魔導紋様を描き終えた瞬間、転送魔法の法陣が眩い金色の光を放った。


成功だ。


その後、アムニット市と公爵邸を往復して二日間検証を繰り返した結果、精度はおよそ80パーセントに達した。


(……やっと、だ)


これで、あの件に着手できる。


ずっと気になっていたあの問題——海岸に居座り続けている魔物、クラーケンの討伐だ。


クラーケンはここ半年近く、沿岸一帯を荒らし回っていた。


巨大な身体が波間に現れるたびに、船が沈み、漁村が壊滅する。 犠牲者は数えきれないほどで、沿岸の村々では毎日恐怖の中で暮らす人たちがいる。


公爵邸も何度か討伐隊を派遣したが、そのたびに壊滅的な損害を被っていた。


(それだけじゃない)


俺たちがこれまで動けなかった最大の理由は、ローブ会だ。


あいつらがアムニット市内に潜伏している限り、城から離れるわけにはいかなかった。 万が一、留守を狙って何かされたら目も当てられない。


だが、今は違う。


ジャックの情報によれば、ローブ会の残存戦力は十数名程度。 公爵領のどこかで逃げ回っているらしいが、似顔絵も名前も、逃走ルートも把握済みだ。


捕まえるのは時間の問題だし、俺が一日中べったり見張る必要もない。


それに——転送魔法がある。


多少のズレはまだあるが、毎日海岸まで転送して、夜には家に帰って眠れる。 馬車で往復すれば往路だけで五日、来路合わせて十日かかるところを、一瞬で移動できる。


それなら、もし急を要する事態が起きても即座に対応できる。 父上がいれば、アムニット市の安全は心配いらない。


(今がその時だ)


昨日届いた沿岸駐屯部隊からの情報によれば、クラーケンはライク郡近くの海岸付近を泳いでいるらしかった。 海面からその巨体が姿を現し、波浪で岸辺の民家を数棟つぶしたという。


幸い、駐屯兵が素早く避難誘導したため、大きな人的被害は出ていない。


報告書にはさらに「まだ離れる気配がない」とあった。


(千載一遇のチャンスだ)


決断した。


公爵邸に戻ると、俺はすぐに母上とユーナを捕まえた。


「今から転送で飛ぶ。準備して」


母上は一拍置いて、静かに微笑んだ。


「……いいわよ。行きましょう」


ユーナは少し驚いた表情を見せたが、すぐに頷いた。


俺は母上の手を取り、反対側でユーナの手を握った。


母上の手は温かく、指先にかすかな柔らかさがある。 ユーナの手はいつものように小さくて、でも俺の指をしっかり掴んでいた。


(……よし)


深く息を吸い込んで、目を閉じた。


体内の魔力を指先へと集め、転送の術式を脳内で展開する。 頭の中に浮かべるのは、ライク郡城壁の外、3キロほど離れた森の一角。


あの場所にした理由は、単純だ。 城内に直接転送してしまうと、驚いた衛兵に敵として処理されかねない。


それに、まだ精度に不安がある。 できるだけ人通りが少なく、広いスペースがある場所を選ぶのが安全だ。


魔力が指先で高速に渦を巻き、空気中の魔法波動が三人を包み込むように広がった。


次の瞬間、目の前が眩いほどの白光に包まれ——


体が、急激に軽くなった。


耳元をかすかな風の音が走り抜けていく。


(到着、だ)


そう思った瞬間。


びっしゃああああん。


ぬめった冷水が、全身を叩いた。


「——っ!?」


目を開いた瞬間、視界がぐにゃりと歪んでいた。


周囲は暗く、緑がかっている。 足下には砂地と、のんびり泳ぐ小魚の姿。


空気ではなく、水が俺の喉に流れ込もうとしていた。


(……湖底……だと……!?)


目標は森の入り口だったはずだ。 なぜ、湖の底なのか。


答えなど考える余裕はなかった。 俺は咳き込む衝動を堪えながら、反射的に母上とユーナの手を強く握りしめた。


三人、同時に上を目指して泳ぎ始める。


冷水が全身を包み込み、服が重くまとわりついてくる。 水の抵抗が両腕に食い込み、息がどんどん苦しくなる。


隣を見ると、母上は、まるで庭を散歩するかのような動作で優雅に泳いでいた。


(……さすがに動揺しないんだ、この人)


もう一方のユーナは、やや慌てた様子で手足をバタつかせている。 ときどき水を飲んでいるようで、顔色が青ざめていた。


(ユーナ! 頑張れ!)


心の中でそう叫びながら、俺は水面に向けて腕を動かし続けた。


三人が岸にたどり着いたとき、全員がぜいぜいと草地に倒れ込んだ。


草の感触と土の匂いが、生きているという実感をじわじわと運んでくる。


俺は仰向けになって、大の字に広がりながら荒い呼吸を繰り返した。


服は全身びっしょりで、髪の毛からはぽたぽたと水が滴っている。 体を動かすたびに服がぐちゅぐちゅと音を立てた。


(……やらかした)


白金色の長い髪が胸元に垂れ、首筋にへばりつく。 冷気が肌に染み込んで、鳥肌が立ってくる。


やがて俺は半分起き上がり、探索魔法を展開した。 魔力を無形の糸のように周囲へと広げていき、人の気配がないことを確認する。


(……よし、誰もいない)


とはいえ、俺たちの今の状態を誰かに見られるわけにはいかない。


俺は淡々と立ち上がり、倒れたままのユーナと母上に向かって言った。


「衣服を乾かします。火を起こすので、濡れた服を脱いでください」


母上が小さく笑いながら身を起こし、ユーナが「えっ」と固まった。


「だ、大丈夫なんですか……?」


「誰もいない。確認した」


俺は手近な木の枝と枯れ草を集め、手のひらに小さな炎を灯して火をつけた。 焚き火が勢いよく燃え上がり、橙色の暖かな光が三人を包む。


近くの枝に、湿った服を次々とかけていく。 衣服から白い水蒸気が立ち上り、乾いた繊維の匂いが空気に混ざった。


ほんの少し、息が楽になった気がした。


「娘ちゃん」


母上が、しれっとした顔で口を開いた。


長い金色の髪に魔力を通して、指先でさらさらとほどいていく。 指が発する微かな光が水珠を飛ばし、毛先から小さな雫が草地に落ちていく。


その所作に、一ミリの焦りもない。


「……転送のズレ、少し大きくなかったかしら?」


俺は膝を抱えたまま、ぐっと下を向いた。


「……ごめんなさい。まだ、慣れてなくて」


声が自然と小さくなった。


(わかってる。わかってるんだ)


出発前に「転送魔法、精度は問題ない。絶対に目的地に着ける」と言い張ったのは俺だった。


10分前のことだ。


その10分後に、全員で湖の底に着地している。


白金色の前髪が顔に垂れかかって、視界を狭める。 自然と耳の先が熱を持ちはじめた気がする。


「まあ」と母上は穏やかに言った。


「怪我もないし、よかったじゃない」


「……そういう問題じゃ」


「そういう問題よ。怪我がなければ笑い話になるもの」


笑い話……笑い話にするつもりか、この人は。


いや、でも実際そうかもしれない。 全員無事だったんだから。


俺は口を噤んで、頭をさらに少し下げた。


ユーナが後ろに回り込んできた気配がした。


「クローディア様……」


声はやわらかく、咎める色がない。


小さな手が俺の後頭部に触れたかと思うと、ゆっくりと魔力が流れ込んでくる。 温かくて、心地いい熱だ。 長い白金の髪が少しずつほどけながら、水分が抜けていく。


ユーナの指先が時々、うなじのあたりに当たる。 冷えた肌に、ほんの少し温かい感触が残った。


俺はしばらく、そのままじっとしていた。


(……次は、もっとちゃんと精度を上げてから来る)


心の中でそう誓いながら。


耳の先は、まだかすかに熱を持ったままだった。

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