8. 内着と変態
あの初めての街での買い物から、ちょうど一年が経っていた。
俺は新しく完成したばかりの魔導工房に立ち、指先でそっとハラル麦の籾摺り(もみすり)装置を撫でた。
最初の頃は魔法で直接もみ殻を焼き飛ばして、自分の手を真っ黒にしていたことを思えば……この機械、本当に完璧すぎる出来栄えだ。
父上が屋敷の北西の角にある日当たりのいい斜面を、俺の試験農場として割り当ててくれた。老庭師トマスのベテランの腕もあって、農場はすこぶる順調だ。
半年前に最初の野菜が収穫できたとき、厨房から漂ってきた煮込み料理のいい香りに、屋敷中の使用人たちが思わず足を止めていたっけ。
野菜の種類が極端に乏しいこの異世界で、新鮮な新しい野菜を口にできるとなれば、誰だって顔をほころばずにはいられない。
そしてあの日、オリバー商会から連れ帰ったピンク髪の女の子。
今はユーナ・フランチと呼ぶべき彼女は、一年の侍女修業を経て、今では晴れて俺の専属侍女になっていた。
連れてきたばかりの頃、名前すら持たなかった彼女は、怯えた野良猫のようだった。
部屋の扉を開ける音だけで、ビクッとして部屋の隅へ縮こまってしまうほどに。
だが、老使用人のフランチじいさんの籍に入れてもらい、ようやく自分の苗字と居場所を手に入れた今の彼女は、あの頃とはまるで別人のようだ。
「お嬢様、そろそろお起きになってください」
ユーナの澄んだ声が、俺を回想から引き戻した。
俺は部屋の肘掛け椅子にぐったりとへたり込み、まるで干からびた魚みたいな無様な姿を晒していた。
さっきまでの宮廷作法の授業が、マジで拷問そのものだったせいだ。
あのクソ忌々しいコルセットのせいで、締め付けられた肋骨が今もじんじんと痛む。
……中世貴族のこんな病的な美意識、いい加減どうにかすべきだろう。
「もうちょっとだけ……」
俺は力なく唸った。
「あの家庭教師の老婆ってば、『鶏肉は一口ずつ品よく味わえ』とかうるさいんだよ。淑女の礼儀とか抜かしてさ。ありえなくない!?」
ユーナは慣れた手つきで、俺の背中のコルセットの紐をほどき始めた。まるで壊れやすいガラス細工を扱うみたいに、優しく丁寧に。
「失礼を承知で申し上げますと、クローディア様」
彼女の口元に、ちょっと意地悪な笑みが浮かんだ。
「お食事の際のあの豪快さは、確かに貴族のご令嬢らしくはないですね。どちらかといえば、酒場でのんびりくだを巻いている傭兵のおじさんみたいな感じで」
「ちょっと!」
俺は怒ったふりをして睨みつけたが、コルセットが完全に緩んだ瞬間、思わず「んあ~~……」と情けない声が漏れてしまった。
せき止められていた血流が腰や全身に戻ってくる感覚は、ひび割れた大地に降る久しぶりの雨みたいに心地よかった。
ユーナが最後の下着のホックを外そうとした、その時、突然、後ろから俺の身体をぎゅっと抱きしめてきた。
「ユーナ!?」
思わず飛び上がりそうになった俺の肩に、温かな雫がひとつ落ちた。
「これはお手伝いで……ふふ、ちょっと確認させてください……!」
彼女はニヤニヤしながら、さらに腕に力を込めてくる。
「どうやら確かに……成長されてますね~。奥様に、次の段階に必要なものをご用意していただく時が来たようです」
俺は咄嗟にその手を叩き払い、真っ赤になってうつむいた。
姿見の鏡に目をやると——かつては真っ平らだった胸元が、確かに微かな、だが確実な変化を見せていた。
三十年間を男として生きてきた身にとって、この第二次性徴が引き起こす感情は、絵の具のパレットをひっくり返したみたいにごちゃごちゃで複雑だった。
「あの……」
ユーナが珍しく真面目なトーンで言った。
彼女のそんな真剣な顔は、妙に慣れなくて調子が狂う。
「恥ずがりことなんてないですよ。これは大人の女性への、素敵な第一歩なんですから!」
俺は恥ずかしさのあまり枕に顔を埋めた。
真っ赤になった耳の先だけが、外にひょこっと飛び出ていた。
……女になりたくないからこそ悩んでるのに、ユーナは本当に何も分かっていない。
翌日、母上とユーナの猛プッシュに押し切られる形で、俺はしぶしぶ街行きの馬車に乗せられた。
一時間ほどで馬車が例の馬車小屋に着き、俺たちはオリバー商会へと向かった。
今回は事前連絡なしの突撃訪問だったため、商会長は明らかに準備不足といった慌てた顔をしていた。
いつもの大きなVIPルームは別の客に使われていたが、俺たちはそんなことを気にしなかった。
会長は「すぐにその客を追い出します」と恐ろしいことを申し出てくれたけれど、さすがにそれは丁重にお断りして、普通の小さな個室で十分だと伝えた。
会長は申し訳なさそうに渋い顔をしていたが、お客様側からの強い希望とあっては、それ以上は何も言えない。
案内された小部屋には、ハーブティーと砂糖をまぶしたクッキーが数枚出てきた。
急な訪問だったため、高級な焼き菓子の準備は間に合わなかったらしい。
「本日は、私どもの方にどのような不手際がございましたでしょうか……?」
突然の訪問だったため、てっきり納品した商品にトラブルでもあったのだと思ったのだろう。
商会長は戦々恐々とした慎重な面持ちで切り出した。
「いいえ、ハラル麦も小麦粉も品質は以前と変わらず、大変満足していますよ。今日は少し別の用件で……娘に、新しい下着が必要になりましてね」
母上は、男性である商会長の手前、直接「ブラジャー」や「胸当て」という単語は使わず、柔らかな言い回しで要件を伝えた。
だが、馬鹿では大商会のトップなどには務まらない。
会長はすぐにその意図を察して、「自分がここに残るべきではない」と一瞬で悟った様子だった。
「ただちに、高名な女性の仕立て屋をお呼びいたします」
とだけ言い残して、そそくさと扉を閉めて退出していった。
間もなくして、小部屋の扉がトントンとノックされた。
ユーナが扉を開けると、銀白色のカーリーヘアをした仕立て屋の老婆が、小さな道具箱を持って入ってきた。
彼女は余計な世間話もせず、箱の中から一本の採寸用の紐を取り出すと、誰が下着を必要としているのかを尋ねた。
母上の後ろに隠れていた俺は、背中をグイッと前に押し出された。
老婆は採寸のために、上半身の衣服を緩めるよう促した。
半裸に近い状態で、冷たい紐がするりと肌に当てられる感触に。
前世で男だった頃、よからぬ青年漫画を読んでいた記憶がふっと脳裏を過り、俺は勝手に顔を真っ赤にした。
まさか自分が、そっちの「採寸される側」になる日が来るとは……。
さすがはベテランの職人だった。
わずか数秒で採寸を終えた彼女は、「数日後に出来上がりをお屋敷までお届けします」と言って帰ろうとした。
その瞬間、俺はふと思い立って口を開いた。
「仕立て屋さん、少し待ってください。隣にいる、この子の分も一緒に作ってあげたいんですが」
ユーナは完全に予想外だったらしく、ぽかんとしたマヌケな顔をした。
「お嬢様、私はただの侍女です! ご主人様と同じ高級な下着を仕立てていただくなんて、とんでもありません!」
……でも、家にいるときって、君は俺を全然主人扱いしてくれないよね?
「侍女なら、主人の命令に従うべきでしょ?」
「え……は、はい。それはそうですが……」
「じゃあ、おばさん、彼女の採寸もお願いします。それで、可愛い小動物の刺繍も追加で入れてください。できれば、可愛い小ウサギの絵柄文字で」
そう、ユーナはウサギが大好きだ。
だが同時に、服にウサギがついているのは年齢的に恥ずかしいとも思っている。
だからこそ、俺はここをわざわざ強調して注文したのだ。
「っ……ふぐっ」
ユーナの顔が、一瞬で熟れたリンゴみたいに真っ赤になった。恥ずかしさで早くもキャパオーバーらしい。
ざまあみろ。毎日主人をいじり倒してきた罰だ。
……もっとも、今日の俺のこの意地悪が、後日ぜんぶ自分に何倍にもなって返ってくることになるのだが、この時点の俺にはまだ知る由もなかった。
ユーナの採寸も無事に終わった。
幼少期の栄養不足だった過去のせいか、彼女は俺より一、二ヶ月早く生まれているはずなのに、体格はひと回り小さい。
実際には俺の方がお姉さんに見えるくらいだ。
ちなみに、一年前は酷かったユーナの身体の鞭の傷跡は、半年前、俺の回復魔法で全部きれいに治してある。
今はもう、どこを触っても跡ひとつ残っていない。
本当によかったと思う。
傷跡は人によってはハクが付いてかっこよく見えることもあるかもしれないけれど、女の子の肌には絶対によくない。
それに、ユーナはせっかく可愛い顔をしているんだから、傷跡だらけのままでいてほしくはなかった。
用事を済ませた俺たちは、馬車へと戻ることにした。
急げば父上との夕食の時間に間に合うだろう。
だが、どうやら今日のこの世界は、俺を平穏なままお家に帰す気はないらしい。
「すみませんねえ、そこの綺麗なお姉さん。それから、可愛いお嬢ちゃんたち。お兄さんたちがいいところに連れて行ってあげますよ、ね? 大人しくしてれば、すぐに楽しくなりますから」
「あら、こっちのピンク髪のお嬢ちゃん、めちゃくちゃ可愛いねえ。あっちの白髪の精霊族っぽいお嬢ちゃんもベールをしてるけど、俺の『幼女レーダー』がビンビン反応してるぜ。これ、絶対に中身は超絶美少女のやつじゃん!」
……幼女レーダーって何だよ。
というかここ中世だよね?
レーダーって概念あるの?
どこでそんな単語覚えてきたんだよ。
「おい、そっちの金髪の未亡人風のお姉さんは俺のもんだからな!」
男たちは各々、吐き気のするような気持ちの悪いセリフを口走りながら、下卑た笑みを浮かべてじりじりと距離を詰めてきた。
どうやら、わざと人通りのない行き止まりの路地を選んで俺たちを追い詰めたらしい。
計算通りというわけか。
確かに路地裏へ誘い込むのは賢い選択だ。
相手を選び間違えていなければ、の話だが。
残念だったね、お馬鹿さんたち。
お母様をターゲットに選ぶなんて、それは生存確率ゼロの完全な死亡フラグだよ。
あと、俺のことを「超可愛い」と言ってくれたのにはありがとう。
男を見る眼力だけは認めてあげる。
……自分で言うのは少し気恥ずかしいけれど、今の俺のガワは確かに文句なしに可愛いのでね。
ただ本当に残念なことに、あなたたちはこの話の中で生き残れそうにありません。
その時、ユーナが突然前へ飛び出し、俺たちをかばうように立ちはだかった。
「お嬢様、奥様、早く逃げてください! 私がここで足止めをします!」
……ユーナは何も分かっていない。あの変態のチンピラたちと同じくらい、俺たちの実力を分かっていない。
でも、普段はさんざん俺をからかってオヤジ扱いしてくるくせに、いざ実戦の危機となったら、一秒も躊躇わずに前に出て守ろうとしてくれる。その小さな背中が、やけに眩しく見えた。
不覚にも俺は、めちゃくちゃ感動していた。
「ひっひっひ、どこにも逃げられやしねえよぉ~……ん、んあああああああああっ!?」
男が下劣な高笑いを上げた次の瞬間、その身体がごうっと激しい爆炎に包まれ、激しく燃え上がった。
俺が容赦なく放った『ファイアボール』が、綺麗にその顔面に直撃したのだ。
鼓膜を突き刺すような絶叫が、狭い路地裏に響き渡る。
わざわざ静かで誰も来ない路地を選んでくれたんだもの。
お母様と俺が、ここで思いきり「お掃除」をしても、誰の迷惑にもなりませんよね。
ゴミはゴミ箱へ。ただ、それだけの話だ。




