70. ギルドと、お腹の主張と、女神たちの昼食
布地の商会を出て、しばらく歩いていると、ふと見覚えのある看板が目に入った。
冒険者ギルドだ。
俺は看板を見上げながら、ひとつのことを思い出した。
(そういえば、ダンジョン通行証……返さないといけないな)
今回のダンジョン探索は、言ってしまえば散々な結果に終わった。俺たちは実際には探索らしい探索をしていないし、今後またダンジョンに潜るかというと――今年中は、まず無い。
ニーナとチャーリーに至っては、もはや今年どころか、しばらくはダンジョンの「ダ」の字すら聞きたくないだろう。あれだけ消耗した後では、当然だ。
通行証を返却しないまま持ち続けるのは、あまり行儀がいいものでもない。ちょうど今、目の前にあるなら、寄っていくに越したことはない。
「冒険者ギルドに寄ろう。通行証を返してから行こう」
俺が声をかけると、ユーナもチャーリーも素直に頷いた。ニーナも小さく「はい」と答えた。
俺たちはギルドの扉を押して、中に入った。
相変わらず、ギルド内は活気に満ちていた。
受付には依頼書を手にした冒険者が列を作り、奥のテーブルでは達成報告を済ませた者たちが仲間と笑い合っている。空気には汗とと金属の匂い、それにうっすらと血の気配が混じっていて、外の爽やかな風とはまるで別の世界だ。
ただ、今日は誰も俺たちに絡んでこなかった。
前回来た時は、いろいろと面倒なことがあった。今日は全員が自分の用件に忙しくしていて、俺たちのことなど目に入っていないようだった。
(……これくらいが、ちょうどいい)
余計な騒ぎはいらない。さっと手続きを済ませて出ていくのが一番だ。
俺は受付窓口に歩み寄り、四人分の通行証をまとめてカウンターに置いた。
「こんにちは。ダンジョンの通行証を返却しに来ました。当分、潜る予定がなくなりましたので」
受付の職員は笑顔で頷き、通行証を受け取った。
「かしこまりました。手続きはすぐに済みますので、少々お待ちください」
礼を言って、俺たちは窓口から離れた。
しばらくして手続き完了の声がかかり、俺たちはギルドを後にした。
扉を開けると、外の陽光が眩しく降り注いでくる。
その瞬間だった。
「くぅ~……」
控えめだが、妙に存在感のある音が、その場にいた全員の耳にきっちり届いた。
俺たちは一斉に足を止め、音の出所へ視線を向けた。
チャーリーがぴたりと固まっていた。
両手で腹を押さえ、目線をふいっと逸らしながら、やや上擦った声で言う。
「べ、別にお腹なんて空いてないから!今のはたまたまっ!」
ユーナとニーナと俺は、顔を見合わせた。
次の瞬間、三人同時に声を合わせて言った。
「お昼ご飯の時間だね~」
語尾を伸ばして、わざとらしく言ってやった。
「な、なんでそうなるの!もうっ!」
チャーリーが真っ赤な顔で怒鳴りながら、両手を振り上げてこちらに突進してきた。
「笑うなっ、絶対笑うなっ!笑ったら許さないからな!」
俺とユーナとニーナは笑いながら逃げ回った。チャーリーが追いかけてくる。日差しの中、路地を駆け回りながら、三人ともやたらと楽しそうだ。
ひとしきり騒いでから、俺たちはようやく足を止めた。
全員、多少息が乱れている。ユーナが額の汗を袖で拭いながら笑って言った。
「もういいでしょ、そろそろごはん行こ。私もお腹空いてきた」
チャーリーも走り疲れて立ち止まり、頭を掻きながらぼそりと言った。
「……わかった、行こ」
顔の赤みはまだ引いていなかった。
行き先は、言わずもがなだった。
迷う理由がない。俺たちが全員、何も言わずとも同じ方向を向いている時点で、もうそういうことだ。
王女レストランへ、まっすぐ向かった。
この店の料理は、俺が直接レシピを伝えて作らせているものだ。
この世界に転生してきた人間が再現した「地球料理」だから、正確には「地球の料理の異世界版」とでも言うべきか。前世で食べていた本物とは微妙に味が違う。素材も調理法も、この世界の制約の中でアレンジされているから、どうしてもズレが生じる。
それでも、あの干からびたパンや塩漬け肉よりは、はるかに「食べた」という実感がある。懐かしい味の輪郭が残っているだけで、十分ありがたい。
道を歩きながら、ふと周囲の飲食店の看板が目に入った。
(……あれ)
どうやら最近、王女レストランの影響を受けた店が増えているようだった。地球料理を真似しようとしたと思しき料理名が、あちこちの看板に並んでいる。
ただ、いかんせん見様見真似すぎて、目も当てられないものがいくつかあった。
ある小さな店の看板には、大きく書かれていた。
「苺と蟹味噌の豆腐スイーツ 新登場!」
俺はそれを見た瞬間、思わず二度見した。
(苺と……蟹味噌……豆腐……甘いやつ?)
頭の中で組み合わせをシミュレーションしようとして、途中で打ち切った。想像するだけで胃がもたれそうだ。
どこで何をどう間違えたら、そういう発想になるんだろう。
俺は無言でその看板から視線を外し、足を速めた。下手に考え続けると、昼前に食欲がなくなる。
王女レストランに着くと、店内はいつも通り混んでいた。
俺たちは顔なじみになりつつある席に落ち着いた。すぐに店員が駆け寄ってきて、メニューを手渡してくれる。
「ご注文はお決まりですか?」
俺はメニューをさっと確認してから、顔を上げた。
「宮保鶏丁飯を一つ、ピーナッツ抜きで。あと、人参と豚骨のスープも一つ」
(前世の俺は、ピーナッツで死にかけたことがある)
食道が締まって、窒息しかけた。あの感覚は、今でも妙にリアルに残っている。今世の体にアレルギーはないが、それでも食べる気にはなれない。記憶というのは、体を乗り換えても案外しぶとく残るものだ。
もっとも今は精灵の体だから、多少は肉食欲が減った気もするが――今日は珍しく、肉料理が食べたい気分だった。
店員がメモを取り、ユーナへ視線を移す。
ユーナはメニューを閉じて、はっきりと言った。
「牛排を一つ、ミディアムで」
この店の鉄板ステーキは、俺が直接レシピを伝えた一品だ。
鉄板の余熱でじっくりと火を入れ、俺の農場が生産したバターで丁寧に焼き上げる。鉄板上でバターがじゅわじゅわと溶けながら、肉の表面を均一に包み込んでいく。この手法だと、肉の水分とミオグロビンが外へ逃げにくく、焼き上がりは外がカリッと香ばしく、中はしっとりとした仕上がりになる。
この世界のもともとの「ステーキ」といえば、薪の上に肉を直置きして、外は焦げ焦げ、中は血が滲むような荒々しいものだ。比べるまでもない。
そのため、この店の鉄板ステーキは冒険者の間でも評判になっていて、「わざわざ食べに来る」客も多い。
店員が記録を取り、次にチャーリーを見た。
チャーリーはメニューも開かずに答えた。
「紅焼肉丼、大盛りで、肉多めでお願い!」
毎回同じ注文だ。前回もこの一択だったし、迷いのかけらもない。彼女はすでに紅焼肉丼の完全な虜になっている。食べている時の顔が毎回幸せそうなので、こちらとしても何も言えない。
最後に店員がニーナへ向く。
ニーナは少し緊張した様子でメニューを手放し、控えめな声で言った。
「……海鮮砂鍋粥を、一つください」
服務員が笑顔でうなずき、注文をまとめて、厨房の方へ去っていった。
しばらくして、料理が順番に運ばれてきた。
俺の宮保鶏丁飯が最初に来た。黄金色の鶏肉に、赤い唐辛子と青ねぎが絡んでいる。見た目からすでに食欲をそそる色合いだ。
俺はスプーンを取り、丁寧に一度かき混ぜてから、中にピーナッツが混入していないかを確かめた。
ない。
それを確認してから、ようやく一口運んだ。
鶏肉の旨味と、辛味と甘みのバランスが取れたソース。柔らかい米飯と一緒に口の中でまとまって、きちんと「食べた」という感じがする。
(やっぱり昼はこれだ。米だ。あの干からびたパンとは比べ物にならない)
社畜として三十年、コンビニおにぎりで命をつないできた魂には、白米というのはどうも特別な意味を持つらしい。
チャーリーの紅焼肉丼はすでに届いていた。彼女はスプーンを持ち上げた瞬間から加速している。
「うまい、うますぎる、やっぱりこれが一番……!」
口の中に肉が入ったまま喋っている。
俺は笑いをこらえながら言った。
「チャーリー、ゆっくり食べなよ。誰も取らないし、太るよ」
チャーリーがぴたりと止まった。
俺の顔をじろりと睨んでから、語気を鋭くして言い返す。
「うるさい。太らない。余計なお世話」
言い切って、また盛大にかっこんだ。
ユーナの鉄板ステーキも運ばれてきた。鉄板の上でまだじゅうじゅうと音を立てながら、湯気を上げている。バターの香ばしい匂いがテーブル全体に漂った。
ユーナはナイフとフォークを手に取り、ひと切れ丁寧に切り離して口に入れた。次の瞬間、表情がぱっと明るくなった。
「ケイシー、このステーキ、本当においしい……!すごい……!」
「おいしければたくさん食べて」
俺は答えながら自分のスープを一口飲んだ。
公爵邸の食事は、父も母もスラフ族の食文化に忠実な精灵族だから、基本的に肉料理は一切出ない。ユーナは名目上は侍女だが、食事は俺と一緒にとる。だから邸では肉料理を食べる機会がほとんどない。
一応、俺が厨房を借りて小鍋料理を仕込んで食べさせることはあるが、それでもちゃんとしたステーキを用意するのは難しかった。牛排は食材の鮮度が大切で、母の買い物リストには載らない食材だからだ。自分が食べないものを買う理由がないのは当然だ。
だから、こうして外食の場でユーナが心から美味しそうにステーキを食べているのを見ると、俺もなんとなく嬉しくなる。
ニーナの海鮮砂鍋粥はほかほかと湯気を立てて、白い粥の中に海鮮が色とりどりに沈んでいた。磯の香りが漂ってくる。彼女はスプーンで少しずつすくいながら、静かに口に運んでいた。表情は穏やかで、口元がほんの少しほころんでいた。
俺たちはそれぞれ自分の料理に集中しながら、ゆったりと話をした。
話題はとりとめのないものだった。今日逃した東方布のこと、チャーリーが籠に詰め込んだ装飾品のこと、ニーナが無言でひとつだけ商品を手に取ってからそっと棚に戻した瞬間のこと。
誰も急いでいなかった。
料理が冷めないうちに食べながら、笑いながら、話しながら。
俺はふと、スプーンを持ったまま窓の外を一瞬眺めた。
(こういう時間も、悪くない)
公爵家の娘としての日常も、学院での勉強も、魔法の研究も、地下城のあれこれも――全部が煩わしくないわけじゃない。でも、こうして四人でたわいもない話をしながら飯を食っている瞬間は、どことなく落ち着く。
前世の俺が食事をとるのはいつも一人で、コンビニの袋と画面と向き合うだけだった。
今はこんなに騒がしい。
それが、どういうわけか、嫌いじゃない。




