69. 布とシルクと、最後の防衛線
時は遡ること、スイーツバイキングの店を出るちょうど一週間前――。
俺たちがレストランを出ると、陽光は相変わらず柔らかく降り注いでいた。風もほどよく、どこからともなく花の香りがふわりと漂ってきて、肌に当たる感触が心地よい。
俺はユーナとぽつぽつと話しながら、指先で白金色の長い髪を無意識に手繰り寄せていた。
そんな時だった。
チャーリーが突然、ぴたりと足を止めた。
視線は前方の一点に釘付けになっていた。少し先に設けられた、ある商会の展示棚だ。布地や装飾品が所狭しと並べられ、色鮮やかで、どれも手の込んだ作りをしている。
(あ、これは完全にチャーリーのツボだ)
心の中でそっと納得する。うちの専属仕立屋にとって、布地や装飾品というものは、まさに命よりも大切なものに等しい。
設計や縫製に情熱を注ぐ彼女にとって、あんなに綺麗に並べられた布地の展示なんて、致命的な吸引力があるに決まっている。
俺は笑いをこらえながら、チャーリーの肩をぽんと叩いた。
「行こ。せっかく時間もあるし、ちょっと見ていこうか」
チャーリーはハッと我に返り、目をキラキラと輝かせながら、思いきり頷いた。
「行く行く、早く行こう!」
そう言うや否や、俺の腕を引いて、迷わず商会の中に入っていった。
ニーナは相変わらず引っ込み思案な様子で、おとなしく後ろにくっついてきた。
歩きながら、ふと思う。
(前世の俺なら、絶対こういう店には興味なんてなかっただろうな)
三十歳の野郎が、布地と装飾品の店に嬉々として入る姿なんて、前世ではちょっと想像もできない。仕事に追われて、服に構う余裕なんてまるでなかったし、「着飾る」という概念自体が遠い国の話だった。
でも今は、 違う。
俺は今、クローディアだ。エリクソン公爵家の娘で、自分で言うのもなんだけど、客観的にどう見ても超絶無敵にかわいいエルフの女の子だ。
こんなに恵まれた外見を持ちながら、磨かないのは天罰のものだ(確信)。
……まあそういうわけで、こういう店にも、最近は少しずつ興味が湧くようになってきた。かわいい子をかわいく飾るのは、人として当然の欲求じゃないだろうか。前世の記憶がどうだろうと関係ない。
店員がすぐに気づいて、にこやかに出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。ぜひごゆっくりご覧になっていってください。布地も装飾品も、すべて最新のラインナップでございます」
俺は軽く目を走らせて、店内を一瞥した。品数は大手の商会ほど多くはないが、棚の整理は行き届いており、どの商品も見やすく陳列されている。特にアクセサリーや髪留めの類が独創的な意匠をしていて、大型の商会ではお目にかかれないようなデザインが揃っていた。
チャーリーは布地コーナーを見た瞬間、目が本当に輝いた。
かごを手に取るや否や、棚に沿ってずんずんと歩き回り、布地や飾りを次々にかごへ放り込んでいく。
「これ可愛い、このリボン……このシルクっぽい布、スカートにしたら絶対いいやつ……」
独り言を呟きながら、もはや止まらない。
俺は傍の棚にもたれかかり、彼女の様子を眺めながら苦笑した。
(なにも心配することはないんだよな、チャーリーの場合)
うちの専属仕立屋として雇用している以上、彼女が購入する布地や装飾品は、価格が妥当な範囲であれば全額経費でまかなわれる。年間の予算だって、金貨十枚に設定してある。これはかなりの高待遇だ。この店の品はどれも銀貨百枚で小物が十個買えるくらいの相場で、布地もかなりリーズナブル。彼女がかごを満タンにしても、たいして懐は痛まない。
ゆえに、チャーリーは今、完全に解き放たれた人間の顔をしていた。
ユーナもいつの間にか棚の前に移動していて、ピンク色の髪留めを手に取り、自分の髪につけてみていた。隣の鏡に顔を近づけて、ピンクの目をくりくりとさせながら確かめている。
「ケイシー、これどうかな?似合う?」
「うん、よく似合ってる。髪の色にぴったりだよ」
俺が答えると、ユーナはぱっと表情を明るくして、さっそく何個かの髪留めを手に取り始めた。
俺も棚をぶらぶらと眺めながら、商品を指先でそっと確かめていった。布の手触りを確かめたり、小さな装飾品を手に取ったり。ニーナは俺の少し後ろをついて歩き、時々小さな小物を手に取ってはそっと棚に戻していた。壊してしまいそうで怖い、とでも言いたそうな、慎重な手つきだ。
――そのとき。
壁に掛けられた布地の端が、俺の手の甲をかすめた。
その瞬間、指先に走った感触に、俺は思わず立ち止まった。
(……なんだ、これ)
細やかで、柔らかく、そして信じられないくらいの滑らかさ。今まで触れてきたどの布地とも、まるで質感が違う。流水に触れているような、とろりとした滑りがある。
俺は急いで振り返り、その布地を目で追った。
壁の隅に一枚だけ、ひっそりと掛けられていた。淡い米白色で、余分な模様は一切なく、無地のまま静かに佇んでいる。だが、光の当たり方によってほんのりと独特の光沢が浮かぶ。
手に取って広げてみると、驚くほど薄い。光に透かせば、布越しに向こう側の輪郭が透けて見えるほどだ。
(これ……シルクじゃないか?)
心拍が少し上がった。
本物の絹は、質のいいものほど希少だ。かつてオリバー商会でシルク・グラスという魔導器絶縁素材を扱っていたことがあったが、衣服に使えるような高品質の絹布など、大型商会でも容易には手に入らない。
それがこんな小さな商会に、しかもほぼ目立たない壁の隅に一枚だけ掛かっている。
俺は迷わず、その布地を丁寧に壁から外した。胸の前に抱え込むと、柔らかな重みが腕に伝わってきた。
(ああ、この感触。前世で高級品を手にした時と同じあの感覚だ)
昔の人が絹を精神的な拠り所にしたというのが、今ならよくわかる。モノ自体の価値だけじゃなく、触れた時の幸福感が違う。
俺は布地を抱えてカウンターへ早足で歩み寄り、後ろで帳簿を確認していた店員に声をかけた。
「すみません、この布、いくらですか?値段にかかわらず買い取ります」
店員が顔を上げ、俺の手の中の布地を見た瞬間、表情がぴたりと固まった。驚きと、それから少しの惜しむような感情が、その顔に滲み出ていた。
しばらく間があってから、店員はゆっくりと口を開いた。
「あの……実はその布は、私が自分で使おうと取っておいたものなんです」
俺の胸に、すうっと冷たい水が流れ込んだような感覚があった。
(……そうか)
顔に出さないように努めたが、笑顔がほんの少し固まったのは自覚している。
「そう……ですか」
なんとか声を絞り出しながら、俺は少し間を置いて、気を取り直して続けた。
「差し支えなければ、どうして売らないのか聞かせてもらえますか?こんな良い布地なら、売れば相当な値がつくはずですが」
店員は苦笑いを浮かべながら、丁寧に答えてくれた。
「この布は、遠東之国から来たもので、私たち商人の間では『東方布』と呼んでいます。絹と同じく非常に珍しい素材で、品質も別格です。ただ……今年から海に魔獣が現れるようになってしまって、遠東之国への航路が完全に遮断されているんです。入荷のルートもそこで途絶えてしまって」
彼は一度言葉を区切り、寂しそうに続けた。
「これが店に残った最後の一反なんです。家族への長寿祝いの贈り物に使おうと思っていまして……本当に申し訳ありません」
言い終えると、店員は深々と頭を下げた。
俺は少しの間、その布地を見つめた。
(そうか。魔獣のせいか)
悪意があって売らないわけじゃない。祝いの品として取っておきたいというのなら、無理に奪うわけにもいかない。
俺は溜め息を一つこぼして、ゆっくりと布地をカウンターに置いた。
「わかりました。ご家族へのお祝いの品なら、私が無理を言うわけにはいかないですよね。残念ですが、諦めます」
「本当に申し訳ありません……」
店員が再び頭を下げるのを見ながら、俺は内心でひっそりと唸っていた。
(くそ、惜しい。本当に惜しすぎる)
この東方布、もし仕入れルートさえ確保できれば、クローディア商会の商品ラインナップに加えることができた。
他の商会にはない希少素材というだけで、商会の格が一段上がる。需要があるのは明白で、収益も期待できる。
でも今は、海に魔獣がいる限り、そのルートを開拓するのは現実的じゃない。
(……いつかな。魔獣問題が解決したら、真っ先に遠東との交易ルートを再開させる。覚えておこう)
「ケイシー、どうしたの?」
ユーナが後ろから俺の袖をそっと引いた。チャーリーもかごを持ったまま、心配そうに俺を見ている。
「なんでもない、ちょっといい布があったけど買えなかっただけ。続き見よう」
「え、買えなかったの?どんな布だったの?」
「絹みたいな布。遠東からの輸入品で、もう仕入れができないんだって」
チャーリーの目が丸くなった。
「東方の絹……!うわ、それは確かに惜しかったね」
ユーナも頷いた。顔に本気の残念そうな表情が浮かんでいる。
(まあ、そうだよな)
俺は内心でもう一度だけこっそり毒づいた。
(魔獣め。休暇を潰しやがった挙句、シルクまで横取りしやがって。いつかまとめて串刺しにしてやる)
気を取り直して、三人で店内の残りを見て回ることにした。
最終的に、チャーリーは金貨一枚分の布地と小物を籠いっぱい買い込んだ。帰宅後に広げるのが待ちきれないという顔をしていた。
俺は小さな髪留めをいくつか、淡い水色のカシミアのマフラーを選んだ。マフラーは自分の瞳の色によく合っていて、巻いたらきっと綺麗だと思った。
ユーナもピンク色の髪留めと髪紐を何点か買い、それぞれ自分の髪に試しながら選んでいた。全部が全部、ピンク色というのが彼女らしい。
ニーナは結局、何も買わなかった。
彼女が日頃身につけている装飾品は全部チャーリーの手作りで、彼女に似合うものばかりが揃っている。
それに、もともと引っ込み思案な性格だ。自分から「これがほしい」と手を伸ばすのが、なんとなく苦手なのかもしれない。
俺たちは会計を済ませて、店を出た。
外の陽光は相変わらず穏やかで、風も柔らかかった。チャーリーは籠の持ち手をしっかり握り、いつになく満足そうにしている。
俺がその様子をぼんやり眺めていると、ふとあることを思い出した。
「そういえばチャーリー、うちの専属仕立屋のくせに、私の新しい服、まだ全然できてないじゃない。これだけ布地を買い込んで、まさかニーナのことばっかり作って、私のは忘れてたりしてない?」
チャーリーはぴたっと歩みを止め、顔に「しまった」と書いてあるような表情を浮かべた。
頭を掻きながら、へへ、と気まずそうに笑う。
「あー……ごめんなさいケイシー、忘れてたとは言わないけど、最近ちょっとバタバタしてて……。帰ったらすぐ作るから!絶対一番かわいいやつ作るから許して!」
ばつが悪そうにそう言う彼女を見ていると、怒る気にもなれない。
俺は笑いをこらえながら手を振った。
「いいって、別に急いでないから。ゆっくりでいいよ。あと……スカートは、しばらく要らない」
何かを言いかけた俺は、途中で言葉を区切った。
(俺がスカートを履くかどうか、という話なんだが……)
まあ、確かに今日も履いているわけだが、それはあくまで日常的な普段着として、だ。公爵家の女性が外出時に普段着のワンピースを着るのは常識の範囲内で、誰も何も言わない。
問題はスカートじゃない。スカート自体が問題なんじゃなくて、スカートを積極的に選ぶ自分の意識が問題で――いや、でも別にそれは前世の価値観だし――でも男として生きてきた記憶が――
――やめよう。この思考ループはよくない。
俺が一人で勝手に考え込んでいると、そのまま章の幕が下りる。
――そして、クローディアには聞こえないところで、誰かの声がぼそりとこぼれた。
(どう見ても、最後の防衛線、もう跡形もないんだよな)




