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68. ダンジョン明けの朝、甘い慰めと女神の食卓

 翌朝、朝の陽光は客室の彫刻入りガラス窓を透かして差し込み、絨毯を敷いた床に温かい光の模様を落としていた。


 俺はふかふかの大きなベッドにうずくまり、肩の前へ垂れかかった白金色の長い髪を、指先で無意識にくるくると手繰り寄せていた。


 髪は柔らかく、滑らかで、椿の香りがふわりと鼻先をかすめていく。この香りは俺がこの体に生まれつき持っているものだ。


 昨日のうちに学院には休暇の届けを出してある。ダンジョンであれだけの目に遭ったのだから、もう一日ゆっくり休んで、英気を養ってから授業に戻ればいい――そう考えたのだ。たかが一日、焦る必要はない。


 だいたい、学院で教えている内容なんて、七歳の頃には全部習得済みなのだから。


 そんな時だった。


「コンコンコン」


 軽いノックの音が扉の向こうから響いてきた。リズムが軽やかで、学院の先生ではない。どちらかというと、顔見知りの音だ。


 俺は体を起こして座り、乱れた裾をさっと整えた。


 ユーナもノックの音に起こされたらしく、とろんとした目を擦っている。ピンクの髪が数本、ぴょんぴょんと寝癖で跳ねていた。


 俺が扉を開けると、やはりそこにいたのはチャーリーとニーナだった。


「んー、二人とも授業行かないの?」


 チャーリーが先に口を開き、俺とユーナを順番に眺める。


 ユーナが目を擦りながら寄ってきた。まだ眠そうな、甘えた声音だった。


「ダンジョンでいろいろありすぎたので……気づいたらこんな時間になってました……」


 この二日間は、本当に過酷だった。ユーナは実戦経験こそあるが、途切れなく続く戦闘に神経が限界まで張り詰めていた。昨日なんて、お風呂も入らずそのまま倒れるように眠ってしまったほどだ。


 ニーナがチャーリーの後ろからひょこっと顔を出した。声は細く小さい。


「……本当に怖かったです。あなたたちがいてくれなかったら、あそこから帰れなかったと思って」


 そう言いながら、彼女の両脚はわずかに震えていた。


(やっぱり、あの二日間はそれだけ堪えたのか)


 俺は心の中でそっとため息をついた。


 ユーナが手を伸ばし、そっとニーナの腕をぽんぽんとたたいた。何か言葉を掛けようとして、どう言えばいいか分からなくて、黙っていた。


 俺は気持ちを切り替え、額にかかった前髪をさっと払うと、できるだけ明るい笑顔を作ってみせた。


「じゃあ、今日は一日みんなで遊びに行こう。何したっていい。ダンジョンのこと全部忘れちゃおう!」


 そう言いながら、俺はニーナの頭をぽんぽんと撫でた。彼女の髪は細くて柔らかく、触り心地がいい。


「賛成!」


 二つの声がぴったり重なった。暗かった空気が、その一言で一気に吹き飛んだ。


 ニーナの目に浮かんでいた涙の気配も、少しずつ引いていって、ほんの淡い笑みが現れた。さっきよりずっと生き生きして見えた。


(やっぱり子供ってすごいな)


 俺は内心でひっそり思う。前の瞬間まで曇り空だったのに、次の瞬間にはもう全回復している。感情の切り替えがえらく速い。


 ユーナも釣られて笑い出した。ピンクの髪が揺れた。


 さて、出かけると決まったなら、まずは朝ご飯の問題だ。


 俺は伸びをしながら立ち上がった。


「隣の食堂でクリームシーフードスープとパンにしたいな。温かくて、飲んでると落ち着くんだよな」


 何となく口から出た言葉だったが、頭の中にはもうシーフードスープの濃厚な香りと、外はカリカリ中はふわふわのパンが浮かんでいた。想像するだけで美味しそうだ。


 だがその言葉が終わるか終わらないかのうちに、手首をつかまれた。


 ユーナがつま先立ちになり、両手で俺の腕をぐいっと引きながら、ピンクの目をきらきらさせて見上げてきた。


「ケイシーケイシー、スイーツバイキング行こうよ~。甘いものって一番元気出るじゃない!」


 返事も待たずに、チャーリーも反対側から腕を引っ張ってきた。力は結構ある。


「そうそう!スイーツのほうが断然おいしいって!シーフードスープより全然!」


 ニーナも寄ってきて、俺の裾をそっと引いた。目が期待でいっぱいだった。


 三人に四方八方から引っ張られて、もはや抵抗の余地はなかった。


「はいはい、分かった。スイーツバイキングでいいよ」


 俺はため息一つついて降参した。


(……なんで朝からスイーツバイキングなんだよ。朝一番から甘いものばっかり食べて、胃がもたれないのか?)


 心の中でぶつぶつ言いながらも、三人のあの目を見たら断れなくて、結局引きずられるようにして近くのスイーツバイキングの店へと向かった。


 店の前に着いて、俺は入り口の看板を見上げた。


 木製の板に精緻な花の彫刻が施されていて、「甘い部屋スウィーティ」と四文字が彫り込まれていた。


 入り口には花の鉢が二つ置かれていて、こじんまりとして温かみのある雰囲気だった。


 店内に入ると、スタッフが笑顔で迎えてきた。


「いらっしゃいませ、お嬢様方。お一人銀貨一枚で、食べ放題になっております」


 俺は少し眉を上げた。


 一人銀貨一枚。正直、安くはない。


 無意識に腰の財布に手が行った。中には零用銭が入っている。


 別にこの数枚の銀貨くらいは惜しくないのだが――。


(一応、考えるふりをしておくか)


 今は毎月クローディア商会から数千枚の金貨が分配金として入ってくる。だが農場の増産に投資し続けているので、手元の生活費は父上からもらった金貨数枚程度に落ち着いている。


 まあでも、砂糖の価格がここのところ下がってきたとはいえ、クリームはまだ贅沢品の部類だ。仕入れコストが高ければ、菓子の値段も下がりようがない。そう考えれば、この値付けは妥当だろう。


 俺たちは窓際の席を選んで座った。ユーナとチャーリーは早速皿を手にして菓子台へと突進した。ニーナも二人の後をゆっくりついて行ったが、時折振り返って俺を確認していた。まるで迷子になるのが心配な子供みたいだ。


 俺もゆっくり立ち上がり、菓子台の前に歩いていって、並んでいるものをひと通り眺めた。


 品数は多くない。前世の世界なら菓子だけで何十種類も並んでいるのに、こちらはせいぜい五、六種類だ。糖霜ケーキ、フルーツタルト、クリームクッキー、それとよく分からない小菓子がいくつか。


 俺は小さな糖霜ケーキを一つ取って皿に置いた。指先がケーキの上の砂糖細工に触れてしまって、べたっとくっついた。甘い。


 席に戻って、フォークで小さく一切れ取り、口に運んだ。


 しっとりしたケーキ生地と甘い砂糖霜。口の中でほろりと溶けて、甘みが舌の上にじわっと広がっていく。喉を伝わって落ちていくと、ずっと張り詰めていた神経が、するするとほどけていくような感覚があった。


 俺は椅子の背もたれに身を預け、窓の外をぼんやりと眺めた。陽光が体の上に降り注いで、ぽかぽかと気持ちいい。


(……これはこれで、悪くないかもしれないな)


 甘いものって本当に気分を上げてくれる。ダンジョンのあの恐怖と不安が、この甘さといっしょに少しずつ溶けていくみたいだった。


 ユーナは食べるペースが速い。口の端にクリームをつけたまま、一口食べてはまた取りに行っている。クリーム泥棒にでもなったような顔で、ピンクの髪には糖霜がいつの間にかくっついていた。


「ケイシー、これ食べてみて、クリームクッキー、おいしいよ!」


 クリームをつけた口でもごもご言いながら、ユーナがクッキーを一枚俺の前に差し出してきた。


 俺は笑って受け取り、ひとかじりした。ざくっとしたクッキー生地に、濃厚なクリームが合わさって、確かに悪くない。


 そうやってのんびり食べながら、気づけば三十分ほど経っていた。全員、お腹がぱんぱんになって、もう一口も入らないという顔をしていた。


 俺は腹をそっと押さえて、小さくげっぷをした。


 ユーナは椅子にぐでっと背中を預けて、お腹を揉んでいた。満足そうな顔だ。


 チャーリーもようやくフォークを置いて、口角の砂糖霜を拭いた。


 俺が店の入り口に目をやると、外にはいつの間にか列ができていた。何人もつま先立ちになって、店内を覗き込もうとしている。甘い香りに誘われてきたのだろう。


「そろそろ出ようか、外並び始めてるし」


 俺は立ち上がり、裾を整えながら三人に合図した。


 ユーナとチャーリーもゆっくり立ち上がった。ニーナが俺たちの後ろにつき従う。まるで子猫みたいだ。


 会計は銀貨四枚。俺が財布から取り出してスタッフに渡し、四人で揃って店を出た。


 歩きながら、俺は頭の中でぼんやりと計算してみた。


 この値段だと、朝から晩まで営業しても、採算が取れるだけの客を集めるのはなかなか難しいだろう。砂糖の価格が下がって、庶民でも手が届くようにはなったとはいえ、あくまで「ぎりぎり届く」程度だ。大多数の人々にとって、菓子屋は年に一度、節目の日にだけ足を運ぶような場所であって、日常的に通う場所ではない。


 だが――その朝、この店には一つの転機が訪れていた。


 窓際の席に座った四人の少女。笑いながら、甘いものを楽しそうに食べていた。


 彼女たちはあまりにも目を引いた。まるで絵本の挿絵から抜け出してきた女神たちの食事会のようで、ただし俺たちはその青春版ではあるが。


 俺たちが楽しそうに食べているのが目に入ったのか、通りすがりの人々が次々に足を止めて店内を覗き込んだ。


 やがてそれが連鎖し、客が雪崩れ込んできた。若い女の子、子連れの親御さん、カップル――気づけばこの小さな店が、開業以来おそらく最もにぎやかな一日を迎えていた。


(店主さん、今頃ニコニコしてるんだろうな)


 俺の脳裏に、笑いが止まらない店主の顔が浮かんだ。もしかしたら心の中で、「あの四人の子、毎日来てくれないかな」と祈っているかもしれない。


 でも残念ながら、それは叶わない。明日からはまた学院に戻る。授業が終わる頃にはこの店はもう閉まっているし、もう一度あの窓際の席に座る余裕はないだろう。


 そして実際、その通りになった。


 数日後、俺たちは普通の授業のリズムを取り戻して、スイーツバイキングに行く機会は自然となくなっていった。


 俺たちが姿を見せなくなると、あの賑わいも静かに引いていって、店は元のひっそりとした日常に戻っていった。常連客もぱらぱらと減り、やがて閑散とするようになった。


 そして一ヶ月後、あの店は運転資金が続かず、静かに閉店した。


 ――少し、惜しかったな。

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