60. 緑の迷宮、星屑に還る王者
森妖の右耳は、直撃の瞬間に半分ほど削ぎ落とされた。
黒い樹液が勢いよく噴き出し、奴の凄まじい哀嚎が森全体を震わせた。声は高く、鋭く、まるで大木がへし折れるような音を伴っていた。
奴は即座に手を振り上げ、俺を掴もうとした。
しかし俺の方が早かった。右耳を貫いた瞬間には既に翼を打ち、後方へ飛び退いていた。巨大な掌が風を切ったのは、俺が離れた直後のことだ。
後退した直後、地面からいきなり数十本の太い刺藤が突き出してきた。
鋭い逆刺に覆われた蔓が、唸りを上げながら俺に向かって一斉に突き上げてくる。
――奴の本命技能か。
(ちっ、焦れたな。)
俺は翼の持つ機動性を存分に活かし、体を傾けながら素早く翻った。三回、五回と繰り返すだけで、刺藤の攻撃はすべて空を切った。
刺藤が空振りするたびに地面へ叩きつけられ、「ドンッドンッ」という重い音が響き、地面には無数の穴が穿たれていった。
攻撃を躱し終えた俺は、そのままの勢いで刺藤の群れへ向かって急降下した。
ブリュンヒルデの槍をしっかりと握り、力任せに振り抜く。「バシュッ」と数本の刺藤が根元から断ち切られた。
切断された刺藤から黒い樹液が溢れ、森妖が一段と凄まじい哀嚎を上げた。頭頂の緑の葉冠が一瞬でしおれ、葉が何枚もはらはらと舞い落ちた。
どうやらこの刺藤は奴の躯体と直結しているらしい。刺藤を断てば、それがそのまま奴へのダメージになる。
俺は空中でその姿を見下ろし、口の端に冷たい笑みを浮かべた。
――そんなに打たれ強いなら、もう少し技を試させてもらおうか。どこまで保つか、見物だ。
俺はゆっくりと空中で体勢を整え、両手でブリュンヒルデの槍を握り直した。
体内の光系魔力を細く、しかし確かに槍へと注ぎ込んでいく。槍先に光の魔力が球状に凝集し、淡い白光がほんのりと輝き始める。
次の攻撃の準備だ。
翼を大きく打ち、できる限り高く飛び上がる。森妖との距離を取りながら、俺は静かに狙いを定めた。
今度こそ、大きな驚きをプレゼントしてやる。
森妖は俺を見上げながら、二本の太い腕を振り回した。樹洞の双眸に怒りと悔しさをにじませ、何とか俺を掴もうと躍起になっている。
しかし奴の身の丈はせいぜい十メートル。俺が高く飛べば、どれだけ手を伸ばそうが届かない。
俺はその間にも翼をひらめかせ、奴の攻撃を何度も軽くかわしていった。奴が腕を振るたびに長い時間がかかり、俺は少し翼を動かすだけで悠々と躱せる。その隙に奴の背後へ回り込み、一撃を叩き込むことすら難しくはなかった。
二度目の攻撃を躱した後、俺はもう迷わなかった。
翼を鋭く打ち、今度は先ほどより速く急降下する。光元素の加護を受けた槍先の白光が、速度を増すにつれてより濃く輝いていく。
俺の視線は、森妖の左の腰部に釘付けだった。
「ズブッ」
槍先は強烈な衝撃を伴い、森妖の左腰に深々と突き刺さった。抵抗など感じさせない、あっさりとした手ごたえで、反対側まで通り抜けた。
黒い樹液が槍先を伝い、地面へとぽたぽた滴り落ちる。
俺はすぐさま槍を引き抜き、翼を打って素早く後退した。反撃を受けないよう、十分な間合いを確保する。
槍先が抜けた瞬間、森妖の左腰の傷口にかすかな光の粒が残った。注意して見なければまず気付かない、小さな小さな輝きだった。
三秒が過ぎた。
「ドォンッ」という炸裂音とともに、傷口が突然弾け飛んだ。
黒い樹液と砕けた樹皮の破片が四方に飛び散り、濃い草木の腥臭が漂う。森妖は驚愕に目を見開き、自分の左腰を覗き込んだ。
先ほどまで小さな穴だったはずの箇所が、今や頭ひとつ分ほどの大穴に変わっていた。樹液が勢いよく噴き出し、周囲の樹皮も爆発で吹き飛んで無残な有り様だ。
俺は空中に浮いたまま、その慌てふためく様子を眺め、口元に狡猾な笑みを浮かべた。
――傷口に残したのが普通の光元素だとでも思ったか?あれは光爆弾の法陣だ。
長槍で何度も刺し続けるだけでは、皮が厚くて肉が硬いこういう相手を止めるには時間がかかりすぎる。
傷口に魔法の法陣を仕込んで二次ダメージを与える。それが今の俺の最適解だ。
これが、ブリュンヒルデの槍の第二技能。槍先に魔法を蓄積し、近接攻撃で傷を付けると同時に、その傷口に予め準備した魔法法陣を植え込む。後から手動で発動させることで、二次ダメージを与えられる。しかも直接攻撃よりダメージが大きい。
さっきは光爆弾の法陣を使った。出し抜き一撃、というやつだ。
痛がり、狼狽え、惨めに叫び続ける森妖の様子を眺めながら、俺の胸に密かな高揚感がこみ上げてきた。
――次は別のやつを試してみよう。
俺はブリュンヒルデの槍に、今度は先ほどとはまったく異なる光属性の魔力を注入した。
光穿刺魔法。発動すると傷口から複数の光柱が射出され、敵の体内を貫通し、抉る技だ。
魔力の注入を終え、俺は翼を打って再び森妖へと急降下した。
森妖はすでに身構えていた。二度痛い目に遭い、もう油断はしない。俺が急降下する瞬間、すかさず掌を正面に翳して攻撃を遮ろうとした。
動作は遅い。しかし頭は愚かではない。俺が毎回急降下して弱点を狙っていると学習し、先手を打ってきたのだ。
俺はその掌を見て、冷たく笑った。
同じ手を三度も使えば通じない。それはとうに計算済みだ。
槍先が奴の掌に触れる寸前、俺は原点から忽然と姿を消した。
次の瞬間、俺は奴の背後に立っていた。
これは、地下城の入口を突破した時に習得した転送系魔法だ。まだ完全には習熟しておらず、視界の届く範囲にしか転送できない。
しかし動きが制限された、反応の遅い相手に対しては、この変則的な機動性は致命的だ。
森妖は背後の気配に気づき、慌てて振り向こうとした。しかし巨体ゆえに動作は鈍く、とても間に合わない。
俺は転送の慣性をそのまま乗せ、ブリュンヒルデの槍を両手で握りしめ、奴の背中に渾身の力で突き刺した。
「嗷嗷嗷嗷――!」
俺の姿が消えた直後から既にパニックに陥っていた森妖は、恐怖の絶叫を上げた。
しかしその悲鳴が響き渡ったその瞬間には、俺の槍はもう奴の背を深々と貫き、腹側から槍先が突き出ていた。
黒い樹液が槍先から溢れ出し、俺の体に飛び散った。かすかな草木の腥臭が鼻を突く。
銀白の鱗甲は黒い樹液に汚れながらも、淡い白光を失わなかった。背の白い翼も少し樹液をかぶったが、動きに支障はない。
俺はすかさず、槍先に蓄積していた光穿刺魔法を発動させた。
腹部の傷口が眩い白光を放ち、数条の光柱が迸って奴の体内を縦横に貫いた。円柱状の小さな貫通孔が連なり、黒い樹液が光柱を伝って滴り落ちた。
「ドォォオオン」
森妖の哀嚎はさらに悲痛なものになった。奴は苦悶に身をよじり、俺を振り落とそうと躯体を激しく揺すった。
俺は槍を握ったまま奴の背にしがみつき、どれだけ揺すられても放さなかった。
しばらくして、俺はようやく槍を引き抜いた。翼を打って素早く距離を取り、反撃を躱しながら半空中で息をついた。
――あの転送系魔法がなかったら、今のは奴の掌に刺さって掴まれていた。ブリュンヒルデの加護があっても、無事では済まなかっただろう。
俺は下方で苦悶しながら激しく身をよじる森妖を見下ろした。その眼に宿るのは、もはや怒りではなく、純粋な怯えだった。
最初は怒りと憎悪。今は恐怖と哀願。
奴の樹洞の双眸に、わずかな哀願の色が滲んでいた。放してくれ、と言いたげに。
しかし俺は心を動かさなかった。
敵への情けは、自分への残酷だ。それに、この地下城が俺たちに与えた試練を、目の前の森妖一匹の懇願のために諦めるつもりなど、俺にはない。
そこからの時間は、淡々とした繰り返しだった。
翼の機動性と転送系魔法を組み合わせ、俺は森妖の周囲を縦横無尽に飛び回った。
毎回、急所を狙って槍を刺す。毎回、傷口に異なる魔法法陣を仕込む。毎回、離れた後に発動させ、二次ダメージを重ねた。
森妖は伝説級の古魔物だ。皮が厚く、肉が硬く、回復力も桁外れだ。
それでも。
一撃、また一撃。傷口は増え、深まり、黒い樹液は止めどなく溢れた。全身の焦げた痕も増える一方で、奴の様子はどんどん惨めになっていった。
約一時間が過ぎた頃、俺自身も消耗を感じ始めた。
背の白い翼が微かに垂れ下がり、息が少し乱れた。白金色の長い髪が汗と樹液で濡れ、頬の両側に張り付いている。
俺は下方の森妖を見下ろした。
かつての威圧感は、もうそこにはなかった。
躯体はよろよろと揺れ、今にも倒れそうだった。全身千創百孔、黒い樹液が無数の傷口から流れ続け、地面には黒い汚水の溜まりができていた。
頭頂の緑の葉冠もとっくに半分以上が枯れ、残り数枚の黄ばんだ葉がかろうじてしがみついているだけで、風が吹くたびに頼りなく揺れた。
誰がどう見ても、強弩之末だった。
最後の一撃で終わる。
俺は深く息を吸い込み、体内に残っているすべての光系魔力をゆっくりと掻き集めた。
すべてをブリュンヒルデの槍に注ぎ込む。
槍身に刻まれた紋様が眩く輝き、濃密な光元素の気配が全身を包み込んだ。背の翼が打つ速さを増し、俺の体が徐々に高く上昇していく。
そして——俺は一気に翼を打ち下ろした。
最高速の急降下。槍先は迷いなく、森妖の首筋へ一直線に向かう。あそこを貫けば、奴は完全に生命反応を失う。
森妖はその動きを察知した。逃そうとした。しかし力が尽きていた。
ただ、その樹洞の双眸で俺を見つめることしかできなかった。絶望と無念がそこに揺れていた。
「ズブッ」
ブリュンヒルデの槍は、強烈な衝撃とともに森妖の首筋を正確に貫いた。槍先が一方から突き込み、反対側まで貫通する。黒い樹液が一気に噴き出し、俺の全身を濡らした。
森妖の躯体がぴくりと硬直した。
奴はゆっくりと頭を持ち上げ、最後に俺をじっと見つめた。樹洞の双眸には、無念と怨念が揺らいでいた。言葉にはならない、ただの眼差しだけが、俺に向けられていた。
しかし。
もう抗う力はなかった。
奴の躯体は次第に支えを失い、数度よろめいた後——「ドォオオオン」という重い地響きとともに、地面へと倒れ伏した。
そして、動かなくなった。
続いて、森妖の遺骸がゆっくりと透き通り始めた。
茶褐色の躯体が、淡い星の粒へと解けていく。無数の輝きが、風に乗って静かに漂い散り——やがてすべては消えた。
後に残ったのは、地面に広がった一面の黒い樹液だけ。それだけが、この戦いが確かにあったことの証だった。
俺は静かに息を吐いた。
体内の魔力は完全に尽きた。背の白い翼が静かに消えていく。
銀白の鱗甲も元の長衣へと戻り、左手の赤金の円盾も霞のように消え、手中のブリュンヒルデの槍もゆっくりと透明になり、腕輪の中へと戻っていった。
支えを失った俺は、ゆっくりと地面へ降りた。着地した瞬間、両膝に力が入らずよろけた。咄嗟に傍の細木に手をついて、なんとか踏みとどまる。
俺は肩で息をした。白金の長い髪が汗と樹液に濡れ、頬に張り付いたまま。
(……終わった。)
そう思った瞬間、俺は気づいた。
眼前の森が、かつてあの草原と同じ消え方をしていた。
森妖が消えた後、森もまたこの世界から静かに抹消されていた。木一本、草一本残さず、ただ一面の剥き出しの地面だけが広がっていた。
そしてその地面が、再び微かに震えた。
眼前の景色がゆっくりと変わり始めた。剥き出しの大地が隆起し、少しずつ高くなっていく。
やがてそれは、天を突くほどの山峰へとそびえ立った。
切り立った岩肌が剥き出しのまま。急峻な稜線が青い空に伸び、頂上には薄く白雪が積もり、陽光を受けてかすかに輝いていた。
俺は顔を上げ、その山峰を見仰いだ。碧玉色の瞳に疑念と警戒が揺れた。
――なるほど。これが第三の試練、ということか。
森妖を倒したより、きっと難しい。それだけははっきりとわかった。




