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59. 緑の迷宮、女武神の降臨

 だが、俺とユーナの火球術で森妖に悲鳴を上げさせ、狼狽させていても、俺にははっきりと分かっていた。


 奴は自身の躯を構築するのを、俺たちは止められていない。


 俺は下唇を噛んだ。心の底が、じわりと重く沈む。


 ――クソッ。こいつの回復力、どれほど異常なのだ。これほど高密度の火球を浴びせ続けても、少し傷つけるだけで、成型を妨げることすらできない。


 ほんの一瞬の間に、森妖の躯は完全に凝集を終えた。


 身長十メートル、全身茶褐色の巨人が、俺たちの前にどっしりと立ち塞がる。太い両脚は古木そのもののようで、地を踏みしめるたび大地が微かに震動した。


 頭頂の緑の冠は葉を広げ、光と影の中で淡い輝きを放っている。粗野な樹皮の肌との対比が、一層異様な威圧感を醸し出していた。


 俺は思わず二歩後退した。この巨人の前では、俺など蟻に等しい。


 ユーナも火球を放つ手を止めた。森妖が完全に姿を整えたことで、その気配が一層禍々しくなったと、彼女も感じ取ったのだろう。


 森妖の樹洞のような瞳が、俺とユーナをじっと見据える。黒い洞の奥に怒りが燻り、今にも俺たちを丸ごと飲み込みようの眼差しだった。


 奴は恨みを募らせている。今から報復に来るのだ。


 俺の心臓がひとつ跳ねた。まずい。


 さっきまでは躯の修復に必死だったため、一方的に攻撃を受けるしかなかった。だが完全に成型を終えた今、奴は自由に反撃してくることができる。


 状況が一気に悪化した。


 案の定、次の瞬間――森妖は既に完成している左腕を高々と掲げた。


 その腕は俺の胴体ほど太く、轟音を伴う風圧を纏いながら、俺たちが立つ場所へ振り下ろされる。


 迫り来る圧力が顔を叩きつけ、息が詰まりそうになる。耳元には風の轟きと、森妖の怒りの咆哮が響き渡った。


 考える暇はない。俺は瞬時に風元素を凝集させ、ユーナに加速の風魔法を付与した。


 それだけ済ませ、俺はすぐ隣で震え続けるニーナの腕を掴み、力を込めて左側へ引っ張り、飛び退いた。

 ニーナは引きずられてよろめき、反射的に俺の腕にしがみついた。指先は冷たい。


 体は激しく震えているのに、それでも一声も上げない。ただ唇を強く噛み締め、悲鳴を飲み込んでいた。


 ユーナの反応は瞬く間だった。俺がニーナを引っ張った瞬間、即座に意図を察し、すかさずチャーリーの腕を掴んで右側へ全力で逃走した。


 チャーリーはまだ思考が追いつかない様子だったが、それでも素直にユーナに従って走った。


「ドォオオオン――!」


 大地を揺るがす衝撃音が炸裂した。足元の土がめり込むほどの、凄絶な振動だ。


 森妖の拳が、俺たちが先ほどまで居た地面に叩きつけられ、地表が砕け散った。


 黒い破片が腕から零れ落ちる。奴は怒りの咆哮を上げ――俺たちを仕留め損ない、さらに激昂していた。


 俺はニーナを抱きかかえたままよろめきながら立ち止まり、振り返ってその惨状を一瞥した。


 胸の中で、小さく安堵の息をつく。


 ――間に合った。俺とユーナの反応があと一瞬遅れていたら、肉片となっていた。


 だが逃げながらも、攻撃を止めはしない。


 ニーナを引いて走りながら、右手を空け、火球を次々と生み出し、森妖の左腕へ撃ち続ける。


 狙いは俺たちが焼き傷をつけた箇所だ。確実なダメージを与えつつ、奴の標的を自分一人に集中させ、三人が離脱する時間を稼ぐ。


 火球が左腕に直撃するたび「ジュッ」と焼ける音が響き、新たな焦げ跡が浮かぶ。黒い破片がぱらぱらと落ち、森妖の咆哮は一層凄まじくなった。


「グアアアアアッ――!」


 奴は激昂して吼え、樹洞の瞳を俺の方へ向けた。黒い洞の奥は煮え滾るような怒りで満ちていた。


 ゆっくりと体を旋回させ、標的を俺に定めた奴は、今度は右腕を高々と掲げた。真っ先に俺を叩き潰すつもりだ。


 俺は胸が締め付けられながらも、即座に自身に加速風魔法をかけた。淡い風元素が全身を纏い、俺の体をユーナたちの元へ一気に飛ばす。


 数秒でユーナの傍に着地し、足を止める間もなく次の火球を凝集し、まだ地面についている森妖の左腕の傷口を再び狙い撃つ。


 この攻防を繰り返すうちに、俺は徐々に気づいていた。


 森妖の弱点が、見えてきたのだ。


 強靭な躯、桁外れの膂力。それは本物だ。だが――反応速度と攻撃速度こそ、奴の最大の弱点だった。

 体が巨大すぎるため、体を回すにも腕を振り上げるにも時間がかかる。


 俺たちを狙っても、動作の隙間に必ず空白が生まれる。反応さえ速ければ、回避しながら反撃することは可能だ。


 だが 問題 がある。


 今のままではユーナはチャーリーとニーナを守りながら戦わなければならず、全力を振るえない。このまま四人で戦い続ければ、遅かれ早かれ危険が及ぶ。


 俺はユーナに顔を向け、迷いなく告げた。


「ユーナ。チャーリーとニーナを連れ、先の草原まで戻ってくれ。俺はここで戦い続ける。弱点は把握した。あの二人がいると、足手まといになる」


 口調にためらいも、交渉の余地もなかった。


 言い終わると同時に俺はニーナの腕を離し、彼女をユーナの傍へ軽く押しやった。早く行け、と眼差しで伝える。


 押されてよろめいたニーナは、反射的にユーナの腕に掴まった。


 ユーナは俺の実力を知っている。ドラマのような仲間を逃がすための自己犠牲ではないことも理解していた。


 俺がこう言う理由は単純だ。戦闘に集中しながら二人の安全まで気を配るには、手が足りないだけだ。

 だからユーナは余計な言葉を交わさなかった。


 小さく頷くだけで、すぐにニーナの腕を引き、呆然と立ち尽くすチャーリーの手を取り、踵を返して森の外へ走り去った。


 三人の背中が遠ざかり、やがて視界から消える。


 俺の胸の中の緊張が、すっと軽くなった。


 これで、思う存分戦える。


 深く息を吸い込み、改めて森妖を視界に捉える。


 俺はゆっくりと左手を上げ、手首をわずかに振る。


 手首に巻かれた銀色の腕輪が、淡い白光を帯びた。


 次の瞬間――何もない虚空から一本の銀白の長槍が、俺の手に現れた。


 槍全体は銀白色で、柄には複雑な紋様が彫られている。陽光の下、紋様は淡い金色の輝きを放ち、穂先は鋭く、濃密な光元素の気配を湛えていた。


 これは父が俺の十歳の誕生日に贈ってくれた神話級神兵――ブリュンヒルデの槍。


 俺は槍を強く握り締め、指先で柄の紋様をそっとなぞった。


 正直なところ、植物魔物である森妖相手には、相性の良い火属性攻撃が最も効果的だ。火は木に勝つ――魔法の基本常識だ。


 だが、俺自身は分かっている。火魔法は俺が苦手な分野だ。今使えるのは火球術だけで、火属性本来の威力を引き出せているとは言えない。


 ――我ながら情けない。あの時もっと真面目に修行していれば、今もっと楽に戦えたのに。

 そう思うと悔しさが込み上がり、下唇をわずかに噛んだ。


 それでも俺の火属性適性自体は高い。火球術だけでも、力押しで十分なダメージを与えられる。


 ただ実戦では、やはり俺が最も得意で、最も手に馴染んだ光属性魔法の方が圧倒的に扱いやすい。


 俺は幼い頃から光魔法の素質に恵まれていた。そこにこのブリュンヒルデの槍が持つ光適性強化効果が重なり、俺の光魔法威力は数倍に跳ね上がる。


 迷う必要はない。


 俺は体内の光魔力を、手の銀白の槍へゆっくりと注ぎ込み始めた。


 魔力が指先から流れ込み、柄の紋様が次々と淡く輝き灯っていく。濃密な光気が槍全体から溢れ、俺の全身を包み込んだ。


 直後――俺の身に纏う衣装が、劇的に変化した。


 血痕の残るロングスカートが光に包まれ消滅し、代わりに精巧な銀白色の鱗鎧が現れた。


 細身の体にぴったりとフィットし、くびれを際立たせつつ、軽量かつ堅固だ。陽光の下、淡い光沢を放っていた。


 同時に左手には赤金細工の円盾が虚空から出現した。大きすぎず厚みのある盾で、縁には繊細な紋様が彫られている。


 中心に緑色の宝石が嵌め込まれ、陽光を浴びて際立って輝き、穏やかな魔力を漂わせていた。


 そして俺の背中から――純白の翼が、ゆっくりと伸び広がった。


 羽毛は柔らかく、淡い白光を帯びている。翼を広げると左右合わせて約二メートルになる。


 俺は翼を一度軽く羽ばたかせ、全身に広がる浮遊感を感じ、口元に自信の笑みが浮かんだ。


 ――完全体になれるのは、お前だけじゃない。


 これこそ神話級神兵『ブリュンヒルデの槍』の第一スキル。


 光魔法適性を持つ使用者に限り、槍が持ち主を神話の戦乙女ブリュンヒルデの姿に変容させる。能力・速度・防御力が大幅に上昇し、光魔法の制御精度も飛躍的に高まる。


 ただ欠点がある。変容中は他の全属性魔法が一時封印され、変容を解除するまで効果は続く。


 俺は背中の翼を力強く羽ばたかせた。淡い光気が翼を纏い、俺の体をゆっくりと地面から浮かび上がらせる。


 俺は空中で静止し、眼下の森妖を見下ろす。背後の白い翼が緩やかに揺れていた。


 森妖は瞳を上げ、俺を見据える。樹洞の怒りの奥に、驚愕が混ざっていた。俺がこのような変化をするとは、予想外だったのだろう。


 俺は翼を力一杯羽ばたかせた。


 光の助力で速度が極限まで高まり、白い閃光となって森妖へ突進する。


 手のブリュンヒルデの槍を強く握りしめ、穂先を森妖の右耳に定める。


 巨体故に動きの遅い奴には、俺の突進は間に合わない。気づいた時には既に遅い。


 反射的に腕を上げ防御しようとするが、動作はあまりに鈍い。俺は既に槍を構え急降下し――。


「ズブッ」


 槍先が、森妖の右耳を正確に貫いた。

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