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57. 緑の迷宮、炎と弱点

 そう言いながら、俺は視線を二人の衣服へと落とした。


 チャーリーとニーナの服には、それぞれ大なり小なりゴブリンの墨緑色の血液が付着している。


 乾いた血液は固まって衣服にこびりつき、一部は髪の毛にも絡まって束になっていた。見た目にも汚らしく、鼻をつく微かな異臭を漂わせていた。


 俺の言葉を聞いて、チャーリーはゆっくりと泣き止んだ。涙の跡が残る顔を上げ、自分の服の血痕を見てから、ニーナに目を向け、小さく頷く。


 ニーナもそれに倣って頷いた。その瞳に一瞬感謝の光が浮かんだかと思うと、すぐにまた下を向く。やはり一言も発しなかった。


 ユーナが前に出た。穏やかな笑みを浮かべ、優しく語りかける。


「行きましょう。小川まで案内しますね。きれいに洗い流して、清潔な服に着替えたらずっと楽になりますよ」


 そう言いながら、彼女はそっとチャーリーの腕を取り、ニーナに目配せをして後に続くよう促した。


 チャーリーは一瞬躊躇ったが、結局ユーナの手を握り返した。ニーナもゆっくりと立ち上がり、二人の後ろをついていく。


 二人の足取りはどこかふわついており、まだ先ほどの恐怖から完全に抜け出せていないのが見て取れた。


 三人が小川へ向かう後ろ姿を見送りながら、俺の目の底に静かな決意が宿った。


 俺は踵を返してテントを出て、再び視線を少し先の森へと向けた。


 ――あの森の正体は植物魔物。普通の森じゃない。


 その確信は、既に俺の中でほぼ固まっていた。


 だが、確証を得るためにも、その実力と弱点を直接見極めておく必要がある。


 奴らが突然奇襲を仕掛けてきたとき、チャーリーとニーナの護衛に気を取られながら慌てて対処するのは避けたい。


 俺は軽く服を整えてから、手を上げて白金色の長い髪を脳後でまとめた。体内の魔力をそっと循環させ、いつでも戦闘に入れる準備を整える。


 そして一人、ゆっくりと森へ向かって歩き出した。足音はできる限り殺し、物音を立てないよう慎重に進む。


 視線は森の中の一挙一動に釘付けにし、耳をそばだてて内側の気配を探る。


 森の縁まで来たところで、俺は立ち止まった。無闇に踏み込むつもりはない。その場にとどまったまま、わずかな魔力を外に放出し――中にいる魔物を軽く刺激してみた。


 果たして、俺の予想通りだった。


 魔力を放った直後、一本の濃い緑色の蔓が森の奥からにわかに伸び出してきた。


 鋭い逆棘が無数に生え揃ったその蔓は、まるで素早い毒蛇のように、空を切る風音を纏いながら俺めがけて猛然と飛んでくる。狙いは胸元。速度は驚くほど速い。


 俺の目に、動揺の色はなかった。


 指先をわずかに動かす。体内の風魔法が瞬時に起動し、数条の鋭い風刃が背後から飛び出して、迫り来る蔓めがけて振り下ろされた。


「シュッ、シュッ、シュッ」


 風刃は狙い違わず蔓に命中し、一息でその長い蔓を二つに断ち切った。


 断たれた蔓は地面に落ち、それでもまだかすかに蠢いている。切断面から墨緑色の汁液が滲み出し、何とも言えない生臭い腐臭を漂わせていた。


 当然、相手はそれで引き下がるつもりはなかった。


 一本を断ち切られると、今度は数本の逆棘蔓が一斉に森の奥から這い出してくる。


 密集した蔓の群れは俺を全方位から包囲するように迫ってきた。


 頭部を狙うもの、四肢を狙うもの――あらゆる退路を封じ、絡めとって仕留めようという腹だ。


 俺の口の端に、冷たい笑みが浮かんだ。


 目の底に、一筋の凄みが走る。


 ――そこまでやるなら、遠慮はいらない。


 蔓が体の三尺以内に迫る前に、俺は再び指先を動かした。今度は数十条の風刃が一気に空中に展開し、殺到してくる蔓の群れへ向かって斬りかかる。


「シュシュシュシュッ」


 連続した風切り音が響き渡り、飛び来た蔓は瞬く間に細切れの残骸へと変わった。墨緑色の汁液が地面に飛び散り、「ジュッジュッ」と焦げ臭いような音を立てて、やがて静かになる。


 相手もようやく悟ったようだった――俺は容易に絡め取れる相手ではないと。


 攻撃を続けても、己の力を無駄に消耗するだけ。


 森の縁に残っていた蔓が、ゆっくりと奥へ引き戻されていく。攻撃を止め、力を温存しながら次の好機を待つつもりだろう。


 だが――俺の口元の笑みは、じわりと冷たさを増した。


 甘い。


 俺は昔も今も、心優しい善人じゃない。向こうから仕掛けてきたなら、易々と逃がすつもりはなかった。


 この地下迷宮の中では、敵に向ける情けは、自分への刃だ。そんな初歩的なミスは犯さない。


 深く息を吸い込む。体内の火魔法が急速に循環し始め、指先が燃えるような赤い光を帯びる。周囲の気温が一気に跳ね上がった。


 次の瞬間――。


 一発、また一発。火球が俺の足元から次々と宙に舞い上がり、眼前の森へ向けて散弾のように撃ち込まれた。


 その数は多く、流れ星の雨が降るかのように、一本また一本と大木の幹に叩きつけられていく。


 着弾した火球は幹に貼りつき、魔力の駆動によって燃焼を急速に強め始めた。炽烈な炎が幹を這い上がり、周囲の枝と下草へと燃え広がっていく。


「パチパチパチッ」


 燃焼音が立て続けに響き渡った。黒煙がもうもうと立ち上り、火の舌は瞬く間に森の三分の一を飲み込んだ。


 空気中に焦げた臭いが広がり、植物魔物が滲み出す奇妙な生臭さと混じり合い、鼻が曲がりそうだった。


 ――そして当然のことながら、少し離れた小川で体を洗っていたチャーリーとニーナが、この光景に仰天した。


 二人は小川の縁にしゃがんで血痕を洗い流していた。チャーリーの黒い短髪は濡れて頬に張り付いており、ニーナは頭を下げ、濡れた青い長髪が胸元に垂れて体の輪郭を覆い隠している。


 清水の反射を受けて、その曲線がやけに際立って見えた。


 そんな二人が森の中で上がる炎を目に入れ、「パチパチ」という燃焼音を耳にした瞬間、全身を固めた。顔色が一瞬で蒼白に変わる。


 体を拭く間も、服を着る間も、当然ない。


「きゃああああっ!」


 二人は丸裸のまま小川から飛び上がり、わき目も振らずに仮の野営地へ向かって全力で駆けてくる。走りながら甲高い悲鳴を上げ、顔には恐怖の色が浮かんでいた。


 俺はその場に立ったまま、二人の慌てふためく後ろ姿を目で追いながら、胸中で小さくため息をついた。


 ――まあ、ここは人里離れた場所だしな。俺たち四人以外に誰もいない。この見られたくない光景を目撃した者はいない。もし誰かに見られていたら、二人は恥ずかしさで死んでいたかもしれないが。


 ユーナも悲鳴を聞いて灶台のそばから走ってきた。慌てて駆け込んでくる二人の姿を見て、燃え盛る森をちらりと確認する。


 すぐに自分の上着を脱いで、足を止めた二人の肩にさっとかけてやった。


「大丈夫です、怖くないですよ。お嬢様が森の魔物を試しているだけです。私たちには届きません」


 チャーリーとニーナはユーナの上着をぎゅっと体に巻きつけ、それでも体の震えが収まらない。


 俺はゆっくりと歩み寄り、まだ心ここにあらずといった様子の二人を見据えながら、静かに口を開いた。


「怖がらなくていい。あの火は俺が放ったものだ。森の底を探るためのな」


 そう言いながら、俺は燃え盛る森へ指を向け、目の底に理解の光を宿らせた。


「見てろ。この森は普通の森じゃない。あそこにいる植物魔物たちの体そのものだ。あの木も蔓も、全部奴らの一部なんだ」


 果たして、俺の読み通りだった。


 炎に焼かれる苦痛に耐えきれなくなった植物魔物は、自分の実力を温存することも、痛みをこらえることも忘れた。


 無数の蔓が森の深奥から強引に伸び出し、燃え盛る炎めがけて伸びていく。蔓で魔火を叩き消し、燃え広がる速度を遅らせようと――自らの体を守ろうとしている。


 だが、蔓が炎に触れるたびに、「ジュッジュッ」という焦げる音とともに瞬く間に枯れ、炭化していった。それでも奴らは引かない。


 奥からまた新しい蔓が生え出し、炎へ向かって伸び続ける。その様は無様で、どこか哀れですらあった。


 俺はその惨状を見ながら、思わず笑い声を漏らした。目に軽蔑の色が滲む。


 弱点がわかった以上、そこを絶え間なく突き続ける。それだけだ。


 俺はいわゆる正人君子でも、公正な決闘を好む騎士でもない。


 それに、この地下迷宮の中で放火は罪に問われない。魔物を倒して突破できれば、手段などどうでもいい。


 笑いが収まるにつれ、俺の目の底から笑みがすっと消えた。代わりに宿るのは、冷たく研ぎ澄まされた一点の光。


 指先が動く。体内の火魔法が再び急速に循環し始め、今度は先ほどより遥かに多い火球が足元から次々と宙へ飛び立った。


 熾烈な熱気を纏いながら、森のより深い奥へ向けて一斉に撃ち込まれていく。


 ――これで終わりにする。

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