56. 緑の迷宮、目覚めと癒しの焚き火
その瞬間、目の前の景色が一変した。
果てしなく広がっていた黄色の草原が、まるで潮が引くように静かに溶けていき、跡形もなく消えてしまった。
代わりに現れたのは、前方約一キロほど先に突如として姿を現した鬱蒼とした森だった。
木々は生い茂り、枝と葉が折り重なって空を覆い隠している。どこか奥のほうからは、不思議な唸り声が微かに聞こえてきて、神秘的でありながらも、ひどく危険な気配を漂わせていた。
俺はその森を眺めながら、心の中で静かに理解した。
——これは、地下迷宮の意志だ。
この場所のすべてを操っているのは、迷宮そのものなのだ。
あの鬱蒼とした森は、おそらくこの地下迷宮が俺たちに課した第二の試練だろう。中には今まで以上に強力な魔物がいるに違いない。
だが、もう退路はない。前に進んで、なんとか攻略口を見つけるしかなかった。
——とはいえ。
今すぐ対処しなければならない問題が、もう一つあった。
惨烈な血の海を目にして気を失い、今も地面に倒れているチャーリーとニーナだ。
俺はユーナのほうを振り向いた。彼女もちょうど、倒れている二人に目を向けているところだった。
視線が合った瞬間、俺たちは互いの目に同じものを見た。
——無奈と、頭痛の種。
思わず、二人同時に苦笑いが零れた。
苦笑いが収まると、俺は前に進んで膝をつき、チャーリーとニーナの鼻元にそっと指を添えて息を確認した。
二人とも、ちゃんと呼吸をしている。単なる失神だ、と確かめてから、俺はようやく胸を撫で下ろした。
ユーナも歩み寄り、ニーナの腕をそっと抱き起こす。その手つきは、丁寧で柔らかかった。
「クローディア様、まず落ち着けるところを探しましょう。いつまでも地べたに寝かせておくわけにはいきませんから」
俺は頷き、何気なく四方に目を走らせた。
そして——森の縁から少し離れたあたりに、うっすらと水の輝きを見つけた。
俺は心に一つの考えが浮かぶのを感じた。ユーナの手を引きながら言う。
「あっちに小川があるみたいだ。二人をそこまで連れていこう。水辺のほうが清潔だし、服についた血も洗い落とせる。野営の準備にも便利だからな」
言い終えると、俺はチャーリーを抱き上げた。ユーナはニーナを抱きかかえる。
俺たちはゆっくりと、水の輝きに向かって歩き出した。足の下の雑草が、さくさくと音を立てて踏み倒されていく。その軽い音が、森の縁から漂う不気味な気配を、少しだけ遠ざけてくれた。
百歩ほど歩いたところで、一条の清らかな小川が俺たちの目の前に現れた。
せせらぎは穏やかで、水面には細かな光の粒が踊っている。底の丸石がくっきりと透けて見えて、ときおり小魚の群れがすり抜けていく。静かで、清潔な場所だった。
(……おそらく、迷宮が森を生成したときに一緒に作り出したのだろう。最初、この一帯には黄草しかなかったのだから)
小川のそばに、平らな空き地があった。背の低い低木がまばらに生えているだけで、野営にちょうどよかった。
俺とユーナは、二人をそっと空き地の柔らかい草の上に横たえた。それから周囲を見渡して、大きくて清潔な葉を何枚か集め、毛布代わりに二人にかけてやった。体が冷えないように。
それだけ済ませると、俺はようやく一息ついて、額の汗を手の甲で拭った。髪が肩口に滑り落ちて、先端に草屑がいくつかくっついている。
俺は無意識にそれを耳の後ろへかき上げた。それからユーナに目を向けて、静かに言った。
「ここで野営しよう」
ユーナは頷くと、振り返って小川のほとりへ歩いていった。携帯していた木製の桶を二つ取り出して腰をかがめ、水を汲み始める。その動きは、慣れた手つきで無駄がなかった。
俺はその後ろ姿を眺めながら、胸の奥にじわりと温かいものが広がるのを感じた。
それから、足元に落ちていた枯れ枝を一本拾い上げた。ざらつく樹皮の感触を指先に感じながら、脳裏に今しがた見た森のことを考え始める。
——チャーリーとニーナが気を失っている間、俺はこっそり森の中へ魔力探知を飛ばしていた。
返ってきた反応は——密集した赤い点の群れだった。
あの森は、植物属性の魔力の気配で満ちている。その数は多く、気配は巧みに隠されていた。俺の読みでは、あれはただの森ではない。
植物属性の魔物が集合体となって森そのものを形成しているのかもしれなかった。
ユーナが桶を二つ抱えて戻ってきた。水は透き通っていて、砂粒一つ混じっていない。
俺たちは手際よく分担作業に入った。俺は天幕を組み立て、ユーナは空き地に簡易のかまどを組んで、近くから集めてきた枯れ枝と乾いた黄草に火をつけて湯を沸かし始めた。
天幕はすぐに組み上がった。帆布製の簡易なものだが、俺たち四人が休むには十分な広さがある。
俺はチャーリーとニーナを丁寧に抱き起こして天幕の中に連れていき、敷いておいた柔らかい草の上に寝かせた。異常がないことを確かめてから、外に出てユーナのそばへ戻った。
かまどの火は勢いよく燃えていた。鍋の中の湯が白い湯気をゆるゆると立ちのぼらせ、あたりに柔らかい水気が漂っている。
俺は近くの木の幹に背中を預け、腕を組んで、目を森に向けた。警戒心が、静かに体の中で燃え続けている。
植物属性の魔物たちの気配は、ひどく巧みに隠されていた。注意して感知しなければ気づくことすらできない。
そして数がずいぶん多い。もし一斉に仕掛けてきたら——さっきのゴブリンより、よほど厄介なことになるかもしれなかった。
ユーナが乾草をかまどへくべながら、顔を上げた。その目に、かすかな憂慮が滲んでいる。
「お嬢様、あの森……なんだか妙な感じがします。さっき水を汲みに行ったとき、何かに見られている気がして」
「ああ、わかってる」俺は淡々と答えた。「さっき魔力探知を飛ばしてみた。森の中はほぼ全域、魔物の気配で満ちてる。しかも全部、植物属性だ。あの森自体が、それらの本体なのかもしれない」
ユーナは一瞬、目をわずかに見開いた。それからすぐに表情を平らに戻して、小さく頷いた。
「……なるほど。変な魔力の揺れを感じると思ってました。では、次はどうしますか?チャーリーとニーナが目を覚ましたら、そのまま突入しますか?」
俺は首を振った。口の端がほんの少しだけ上がる。
「急がなくていい。まず二人が起きるのを待つ。体の血を洗い落として、気持ちを落ち着かせる。あの子たちは今、完全に肝を潰してる状態だ。このまま連れていっても足手まといになるだけだ。
それにもう少し、あの森の弱点を探りたい」
俺が言い終えた直後——天幕の中から、かすかな物音が聞こえてきた。
俺とユーナは目を合わせた。話をやめて、すぐに天幕の中へ入る。
柔らかい草の上に横たわっていたチャーリーが、ぱっと体を起こして座っていた。目を大きく見開いて、顔中に茫然とした色が浮かんでいる。
髪は乱れ、前髪が頬に張りついていた。まだ落とせていない乾いた血の痂が、ところどころに残っていた。
小麦色の顔はまだ蒼白で、目の中に、自分が今どこにいるのかわかっていない様子があった。
その隣で、ニーナもゆっくりと身を起こしていた。蒼い長い髪が胸前に垂れ落ちて、顔の大半を隠している。小柄な身が微かに丸まっていた。
彼女は顔を上げて、天幕の中を見回し、俺とユーナを見て——口を小さく開いたが、声は出てこなかった。
俺は二人の様子を見て、思わず笑いが出た。
軽い足取りで近づきながら、笑顔で声をかける。
「やっと起きたか。気分は?地下迷宮、まだ好き?」
言いながら少し屈んで、チャーリーの肩をそっと叩いた。指先が彼女の体に触れた瞬間、かすかな震えが伝わってきた。
チャーリーは俺の言葉を聞いた途端、体をびくっと震わせた。顔の茫然が、みるみる恐怖に塗り替わっていく。声は、ひどく震えていた。
「い、嫌です!もう絶対に嫌です!地下迷宮なんて二度と来ません!」
俺は目の前でがたがたと震えながら、目に恐怖を満杯にして答えるチャーリーを見て、心の中でそっと苦笑いした。
こうして見ると、とても信じられない。ついさっきまで地下迷宮への冒険を目を輝かせて熱く語っていたあの子と、今ここで縮こまっている子が、同一人物だなんて。
彼女の両手は衣の裾をきつく握りしめていて、指の関節が白くなっている。体は篩にかけるように細かく揺れていた。ゴブリンが爆ぜ散った、あの惨烈な光景が、まだ目の裏に焼き付いているのだろう。
チャーリーは頭を振って少し我に返ると、視線が自然と天幕の外へ向いた。
森が見えた瞬間、彼女の目に一筋の困惑が走った。それからすぐに、おずおずとした期待が滲んでくる。おそるおそる声をかけてきた。
「わたしたち……戻ったんですか?これ、アムニットの森ですか?」
彼女は目の前の鬱蒼とした森を、アムニット城外の森と勘違いしているようだった。もう困難から抜け出して、見知った場所に戻れたと思い込んでいる。
俺はその期待に満ちた瞳を見て、それからそっと首を振った。少しだけ声を柔らかくして、丁寧に教えてやる。
「ゴブリンの包囲を突破しただけで、まだ帰れてない。この森はわたしたちが全部のゴブリンを倒した後に突然現れたんだ。おそらく、この迷宮が用意した第二の試練だよ」
そう言いながら、俺の視線は天幕の外の密林へと向いた。目の奥に、わずかに鋭い光が灯る。
俺は少し間を置いてから、続けた。
「二人が気を失っていた間、こっそり森の中へ魔力探知を飛ばしてみた。中は全部、魔物の気配だった。それも数がかなり多くて、気配がよく隠されてる」
植物属性の魔物だということは、わざと言わなかった。赤い点がどれだけ密集していたかも。
チャーリーはすでにだいぶ消耗している。ニーナも恐怖の中にいる。これ以上刺激しても、事態が悪化するだけだ。
案の定、チャーリーは俺の言葉を聞いた瞬間、顔から期待の光が全部落ちた。両目から光彩が消え、体の力がすうっと抜けていくような様子だった。
彼女はへなへなと草の上に座り直して、両手で地面を支えながら、肩を微かに揺らした。声に絶望の色が滲む。
「じゃあ……迷宮を全部クリアしないと、わたしたちは戻れないってこと?でも……もう、わたし戦えません。あのゴブリンたち、怖すぎて……」
言い終わらないうちに、また涙がぽろぽろとこぼれ始めた。
ニーナはその隣で、相変わらずじっと黙っていた。顔を上げて、恐怖と不安を湛えた瞳で俺を見つめている。
その手は衣の裾を固く握りしめていて、指先が布地に食い込みそうだった。声一つ出さずに、ただ俺を見ていた。助けを求める目で。驚いた子兎のような。
俺は二人の顔を交互に見た。心の中で、ふっと何かが緩んだ。
俺は前に歩み寄って、チャーリーの背中をゆっくり撫でた。それからニーナにも目を向けて、声を柔らかくして言った。
「大丈夫だよ。泣かないで。とりあえず、まず体の血を洗い流そう。後のことはわたしとユーナに任せて。もう二度と気絶させるようなことはしないから」




