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55. 緑の終焉、そして草原の静寂

「お嬢様、左から三体来ます!」


 ユーナの声が飛んできた——急を帯びながらも、落ち着いている。


 彼女は火元素の長剣を握り、身を翻した。  軽やかな動きで、一瞬のうちに俺の左側へ割り込む。


 三体のゴブリンが三尺以内に踏み込むより早く——ユーナの剣が薙いだ。


 炎の魔力が剣身を包んだ瞬間、灼熱の輝きが迸り、三体へ向かって鋭く突き込まれた。


 迷いなく、無駄なく、一切のもたつきもない。


 一体が反応できなかった。  火元素の長剣がその胸に深々と突き刺さると、灼熱の炎が瞬く間に全身へ広がり——「ジュッジュッ」という音とともに、皮膚が目に見える速度で爛れていく。  


 それは苦しそうに嘶きながら、よろめいて後退し、両手で炎を払おうと無意味に振り回した。  やがて草叢に倒れ込み、数度痙攣して、動かなくなった。  


 炎はなおも燃え続け、やがてその体を一塊の黒焦げにした。鼻を突く焦げた臭いが漂ってくる。


 だが残りの二体は諦めなかった。


 狡猾にも——ユーナが長剣を引き戻す隙を見計らって、腐食した木盾と錆びた砍刀を振り回しながら、ユーナの背後へ回り込んだ。  目標は、チャーリーとニーナだ。


(なるほど。正面じゃ勝てないと分かって、弱い方から崩しにきたか)


 戦線の突破口を作り、二人を人質にして俺とユーナを縛る算段だろう。  低級魔物のくせに、考えることだけは一丁前だ。


 チャーリーはもともと恐怖で全身が震えていた。  その二体が牙を剥いて飛びかかってくるのを目にした瞬間——魂が抜けたように凍りついた。  


 膝から力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになる。  ニーナが咄嗟に手を伸ばし、腕をしっかりと掴んで、かろうじて支えた。


 二人は身を寄せ合い、篩にかけられるように震えていた。  チャーリーの顔から血の気が引き、瞳の縁に溜まっていた涙がついにこぼれ落ちた。  


 頬を流れていく。  歯がかちかちと鳴り、匕首を死ぬほど握りしめながら、小さな声で叫んだ。


「クローディア! ユーナ! 助けて! 早く!」


 泣き声がにじんでいた。恐怖と無力感に満ちていた。


 ニーナも全身が強張っていた。  チャーリーと同じように顔が蒼白で、瞳に涙が揺れている。  唇をきつく噛みしめて——嚙み跡が白くなるほど——それでも声一つ出さなかった。  


 もともと寡黙な彼女は、今この瞬間、呼び声すら忘れていた。  匕首の尖端がかすかに震えている。小さな体が微かに縮こまる。  胸元の丸みが、緊張で一層際立って見えた。  


 ただ、恐怖でいっぱいのその瞳だけが——飛びかかってくるゴブリンを凝視し、次の瞬間、助けを求めて俺へと向いた。  怯えた小兎のような目だった。


 俺は余光でその光景を捉えた。  瞳の奥で、冷たい光が一閃した。


 躊躇はなかった。


 指先がわずかに動く——体内の炎魔法が瞬時に起動し、二条の灼熱の紅光が虚空に生じた。  紅光は灼熱の気息を帯びて飛び出し、正確無比に、二体のゴブリンの体を貫いた。


 一秒ほど経ったとき——その二体の体が、みるみる膨張し始めた。


 元の三倍ほどの大きさまで。  皮膚が内側から押し広げられ、今にも弾けそうなほど張り詰めた。


 次の瞬間——「ドンッドンッ」と二つの爆音が連続した。


 肉体が炸裂した。


 目を背けたくなるような惨状だった。  墨緑色の肉片が四方に飛び散り、黄草の上に降り注いだ。  血液が俺たち四人の衣服に飛び散った。


 数滴が、俺の頬に当たった。  冷たい感触。  俺は思わず眉をひそめた——恐怖ではない。ただ単純に、気持ち悪い。


 指先で頬の血をそっと拭う。指先にうっすらと血腥い匂いが残った。  自分の服を見下ろして、染みを確認する。


(……今日は麻布の服でよかった。高い服だったら痛かったな)


 洗いやすい素材で助かった、と心底思う。


 ―――――――――――――


 それにしても——これは少々刺激が強すぎる光景だ。


 十二、三歳の子どもたちには、なおさら。  実戦に慣れていない大人の冒険者でさえ、初めてこういう場面を目にすれば怯むことがある。


 この一幕が、チャーリーとニーナにとどめを刺した。


 二人は完全に硬直し——気を失う前に、衣服を濡らしてしまった。  温かい液体がズボンの裾を伝い、黄草を濡らし、暗い染みを作った。


 チャーリーが膝を折った。  足に力が入らなかった。重力に従ってそのまま崩れ落ちる。  匕首を握りしめたまま、目の前が暗くなった。そのまま意識を手放した。


 ニーナも同じだった。  瞳の焦点が散った。唇が微かに震えている。  数秒後——青い長髪が地面に広がった。蒼白な顔を、髪が静かに覆った。


 俺は二人の様子を見て、小さく息をついた。


(……仕方ないか)


 冒険者協会が「十八歳未満の地下迷宮への立ち入りを禁止」と規定している理由が、今さらながら身に沁みた。  一つは、子どもの実力では迷宮では生き残れない。


 魔物の餌になるだけだ。  もう一つは——こういう血腥い場面が、幼い心に深い傷を残すからだ。


(連れてくるんじゃなかった、と今更思っても遅いが)


 だが——俺自身は前世で四十三年を生きた大人だ。  嵐のような場面など、数え切れないほど見てきた。今さらこの程度で揺れはしない。


 ユーナも同様だった。  俺と幾多の死線をくぐり抜けてきた彼女は、いかなる血腥い光景を前にしても表情を崩さない。  


 今この瞬間も、顔色は平静だった。ただ、目の奥にわずかな無力感が宿っているだけだった。


 ―――――――――――――


 そのとき——背後から、重い足音が迫ってきた。


 普通のゴブリンとは違う。足音が重く、乱れていた。  俺の警戒心が一瞬で跳ね上がった。


 反射的に振り向く。


 一回り大きな体格のゴブリンが——巨大な狼牙棒を振り上げ、俺の後頭部へ向かって叩き込もうとしていた。  不意討ちを狙っていた。一撃で仕留めるつもりだったのだろう。


(……小首領か。普通の個体より少し強い。それに、奇襲を使うとは。あの馬鹿どもよりは多少頭が回るらしい)


 ユーナもその気配を察知した。振り向こうとしたが、間に合わない。  彼女が焦りのにじんだ声で叫んだ。


「お嬢様、後ろ!」


 戦闘中に彼女がこういう声を出したのは、初めてだった。


 だが——狼牙棒が俺の一筋の髪にも触れる前に。


 地面から、数本の深緑色の刺藤が突き出た。


 鋭い逆棘を持つその蔓が、正確無比に、ゴブリン小首領の胸を貫いた。  先端が背中から突き出る。  上には墨緑色の血と、粉色の肉片がこびりついていた。


 小首領の動きが、完全に止まった。  振り上げていた狼牙棒が「ガシャン」と地面に落ちた。


 それは頭を下げ、自分の胸を貫く刺藤を、信じられないという目で見つめた。  次に俺を見た。  緑の目に、恐怖と困惑が混在していた。  


 ——眼前のこの少女が、これほどの力を持つとは思っていなかったのだろう。


 他の二人が気絶するほど怯えたのに、この子は微動だにしないと。


 俺は冷たい目でそれを見下ろした。  碧蓝色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。


 指先が、わずかに動いた。


 刺藤が、地の底へ向かって引き抜かれた。  蔓の表面についていた逆棘が、貫通した胸から数塊の拳大の肉を、生きたまま引きちぎって出てきた。  


 粉色の細片も混じっていた——おそらく内臓だ。凄惨な光景だった。


 五秒も経たないうちに、傲然と構えていた小首領は地に伏せていた。  胸に巨大な穴を開け、墨緑色の血を溢れさせ、もはや息をしていなかった。


 俺は刺藤を引き戻した。  蔓の血が、するすると地面へ染み込んでいく。  まるで最初から何もなかったかのように、消えた。


 ―――――――――――――


 首領を失ったゴブリンたちが、瞬時に乱れた。


 統率された嘶きが消え、ばらばらな叫声だけが残った。  攻撃のリズムが崩れ、隊列が瓦解する。


 後退するものがいた——恐怖で目を泳がせながら、じりじりと下がっていく。  


 まだ突撃しようとするものもいたが、さっきまでの勢いはない。動きが鈍く、連携もばらばらだった。


 戦況が、逆転した。


 俺は息を整えた。  防御と二人の保護に割いていた意識を、魔法操作へ全集中させる。  ユーナが二人のそばに立っている以上、あちらに心配はいらない。


 目を閉じた。  体内の魔力が高速で巡り始める。  俺の両脇に、数枚の法陣が展開された——纹路が金色に輝き、神秘的で、鋭い。


 次の瞬間、金魔法で凝結した金属弾丸が法陣から射出された。  凌厉な気息を帯びて、近くのゴブリンたちへ向かって飛ぶ。速度は視認できないほど速い。


 いくつかのゴブリンが反射的に古びた木盾を構えた。  だが——「ドンッ」という爆音とともに、木盾が粉砕された。  木片が四方に飛び散る。


 まるで蛸壺を叩き割ったようだった。  金属弾丸は速度を落とさず、盾を貫通し、その背後のゴブリンを正確に貫いた。  短い悲鳴。即死。


 近くの数体が次々と倒れた。  一体として、弾丸を止められなかった。  空気に、血腥さと焦げた匂いが重なっていく。


 後方で見ていたゴブリンたちは、もはや戦意を失っていた。


 さっきまでの貪欲さも、凶暴さも、跡形もない。  目にあるのは恐怖だけだ。


 互いに顔を見合わせた。  数秒、迷った。


 ——そして一斉に踵を返した。


 草原の奥へ向かって、我先にと逃げ出す。  無秩序に、やみくもに。ただ俺の視界から消えたい一心で。


 俺はその背中を、冷たい目で見送った。  口の端が、かすかに上がる。


(逃がすとでも、思ったか)


 俺は斬草除根する主義だ。情けをかける相手を選ぶ気はない——少なくとも、俺たちを「そういうもの」にしようとした連中には。


 指先が動いた。


 刺藤が、地の底から再び伸びた。  走り逃げるゴブリンたちの行く手を、一瞬にして塞ぐ。  数本の蔓が、それぞれの体を正確に貫いた。


 ゴブリンたちが宙に持ち上げられた。  手足をばたつかせ、手の武器を振り回して、必死に脱出しようとする。  だが無駄だった。  


 逆棘が体に食い込んでいて、もがくたびに傷が深くなるだけだ。  やがて力が尽きて、ぐったりとした。


 俺は刺藤を引いた。  ゴブリンの体が、どさりと地面に落ちた。


 目を開け、ゆっくりと周囲を見渡す。


 動くものは、何もなかった。


 黄草が、風に揺れているだけだ。


 俺は静かに息を吐いた。  体内の魔力を緩やかに巡らせ、戦闘後の息を整えていく。


 草原は、再び静寂に包まれた。

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