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51. 地下迷宮への約束

 一ヶ月という期限は、あっという間に過ぎ去っていった。


 アムニット魔法学院での自由な日々をゆっくり味わう間もなく、俺は帰宅を引き延ばす算段を考え始めなければならなかった。


 期限が来れば、否応なしに公爵邸へ戻り、再び魔法学・礼法学・就寝の三点一線の日々が始まる。


 想像しただけで、頭が重くなる。


(毎日ピシッとした礼服を着込み、細かい礼法を叩き込まれ、退屈な魔法理論を暗記させられる…… 息をするたび「公爵令嬢らしく」なんて言われてたまるか)


 俺は眉を顰め、指先が無意識に肩に垂れた白金の長髪を摘んだ。


 絹のように柔らかい髪が、指の間からするりと逃げていく。


 このまま帰りたくない —— その気持ちが、じわじわと胸の奥に根を下ろしていく。


 仕方なく、俺は意を決して伝達水晶を手に取り、父アルフレッド公爵に滞在延長の申請を送った。


 送信しながら、指先が微かに冷たいことに気づいた。


 父は頭が固い人間ではないが、規律を重んじる方だ。


(俺の我儘を一刀両断に却下されなければいいんだが……)


 数秒の沈黙の後、水晶の向こうから父の声が届いた。


 いつもより少し柔らかく、抑えきれない賞賛が滲んでいた。


「娘よ。この一ヶ月、お前はアムニットで黒袍会の陰謀を二度打ち砕き、オリバー商会という腫れ物まで根こそぎ始末した。その功績は、留学延長に値する」


 張り詰めていた胸が、ふっと緩んだ。


 知らず知らずのうちに、口角が上がっていた。


 父は引き続きアムニットに残ることを認めてくれた。


 ただし、学院の休暇中は必ず公爵領へ戻り、魔法と礼法の不足分を補うこと —— その条件に、俺はすぐに応じた。


(たとえ一時でも帰らなくて済むなら、それで十分だ)


 ここ数日は、珍しく穏やかな日々が続いていた。


 黒袍会に潜入させた間諜のジャックから連絡が入った。


 報告によれば、黒袍会は今、人員が大幅に減少し、しばらくは動けない状態だという。


 俺は走り書きの伝達紙を指先でなぞりながら、大体の事情を察した。


(オリバー商会の摘発で、黒袍会の関係者もかなり巻き込まれたんだな。図らずも、向こうの戦力を削っちまった)


 こういう平和な日々は、俺にとってほとんど贅沢に近い。


 黒袍会の動向に神経を尖らせなくていい。毎日定時に学院へ行く。


 たまにユーナやチャーリーと話したり、街をぶらついたりする。


 長い間張り詰めていた心が、ようやく少しほぐれた気がした。


 だが、その束の間の安らぎは、俺の迂闊さであっけなく崩れた。


 学院でのんびり過ごして三、四日が経った頃から、チャーリーが頻繁に遠回しな催促をしてくるようになった。


「地下迷宮に行った人が、すごく面白いものを持ち帰ってきたらしいですよ」


「以前話してた場所って…… いつ行けるのかな?」


 その黒い瞳の中には期待がいっぱいで、頬までそわそわした様子が滲んでいた。


 彼女が三回目の遠回しをしてきたとき、俺はようやく我に返った。


(そうだ…… 前に約束したんだ。新しく出現した地下迷宮を、みんなで探索しようって。許可証まで取ってたのに、すっかり忘れてた)


 胸の奥に、じわりと罪悪感が広がる。


 俺は軽く額に手を当て、自分の愚かさを内心で悔やんだ。


(約束したことを丸ごと忘れるなんて…… 最低だな)


 幸い、手帳をめくってみると、ちょうど二日間の自由休暇が残っていた。


 公爵領に戻って礼法の補修を受ける必要もない。


 この僥倖が罪悪感を少し薄め、俺はチャーリーの方へ振り返り、目に詫びの色を浮かべながら声を和らげた。


「ごめん、チャーリー。もう少しで忘れるところだった。明日、地下迷宮に行こう」


 チャーリーの目が、一瞬でぱちりと輝いた。


 俺の手をぎゅっと掴んで、声が弾んだ。


「本当ですか、クローディア様! やった! 今すぐニーナに知らせてきます! 明日の朝一番に出発しましょう!」


 飛び上がらんばかりに興奮する彼女を見て、俺は思わず口元を緩め、軽く頷いた。


「分かった。明日の朝、アムニット北門集合。遅刻しないように」


 チャーリーは何度も頷き、くるりと向きを変えて走り出した。


 黒い髪が後ろでぴょんぴょんと弾む。


 数歩進んだところでまた振り返り、大きく手を振った。


「任せてください! 絶対遅刻しません!」


 俺はその後ろ姿を見送りながら、苦笑いで首を振った。


 すると、隣に立っていたユーナがそっと近づいてくる。


 金色の長髪が肩に垂れ、小柄な体が俺の隣に寄り添う。


「お嬢様、明日の朝はわたしがお起こしします。早めに準備いたしますし、朝ごはんと探索に必要なものも揃えておきますね。ご心配なく」


 ユーナの声は柔らかく、いつも通りの穏やかな温もりを帯びていた。


 指先で、俺の肩にかかった乱れた長髪をそっと整えてくれる。


 俺は頷きながら、胸の中にじんわりとした暖かさを感じた。


 ユーナは時々とんでもないことをするが —— それ以外は本当に頼りになる。


 そう思った瞬間、四日前にユーナが突然布団に潜り込んできたことが脳裏に蘇り……


(…… あれは、どう考えても普通じゃないよな)


 俺は無意識に頬に触れ、かすかに眉を顰めてから、その記憶を心の奥に押し込んだ。


 翌朝。


 空がほのかに白み始めた頃、ユーナの声が俺を眠りから引き戻した。


 声は静かで優しく、まだ眠っているかもしれない俺を気遣うように、控えめなトーンで届いた。


「お嬢様、起きる時間です。北門でチャーリーたちと待ち合わせですよ」


「…… ん」


 俺は曖昧に返事をしたが、目はほとんど開かなかった。


 頭が霞んでいて、まだ夢の中にいるような感覚だった。


 ユーナに支えられながらゆっくり起き上がり、指先が無意識に掛け布団をぎゅっと握った。


 白金の長髪は乱れたまま肩に流れるが、顔の半分を覆っている。


 ユーナは苦笑いを浮かべ、脇に用意しておいた服を手に取ると、俺に一枚ずつそっと着せていった。


 音を立てないよう、俺の眠気を妨げないよう、細心の注意を払いながら。


 俺は目を閉じたまま、ユーナの言う通りに腕を伸ばし、脚を上げ、スカートを履き、靴下を履いた。


 意識の半分はまだ夢に引きずられていて、まるで意気消沈した木偶人形のようだった。


 着替えが済むと、ユーナは俺の長髪も軽く整えてくれた。


 凝った編み込みなどはせず、ただふんわりと肩に流すだけで十分だった。


「お嬢様、行きましょう。もたもたしていたら、チャーリーたちを待たせてしまいますよ」


 ユーナが俺を支えてくれるが、足元がふらついてまともに歩けない。


 それを見てユーナはため息をつき、ためらうことなく腰を落として俺を背負い上げた。


 小柄な体に似合わず、彼女の力はかなり強い。


 俺を背負ったままふらつくことなく歩き出す。


 俺はユーナの肩にもたれ、首を傾げてまたうとうとし始めた。


 出発が早すぎたせいで、ユーナが俺を背負ってアムニット北門に着いた頃には、チャーリーもニーナもまだ現れていなかった。


 北門一帯は静まり返っていた。


 まばらな早起きの通行人が数人いるだけで、道端には野草が数株生え、空気に土と青草の匂いが混じっていた。


 ユーナはそっと俺を下ろし、路傍の平らな石の上に座らせた。


 石はひんやりとしていて、肌に触れた瞬間、小さな震えが走った。


「お嬢様、少々お待ちください。温かいものを用意いたしますね」


 ユーナはそう言って、手首の収納手環に指先を触れた。


 魔力を少し込めると、透明なガラス瓶が現れた。中には深紅色の紅茶が満たされていた。


 手環の保温効果のおかげで、淹れたての温度がそのまま保たれている。


 瓶を持つ手のひらにも、じんわりとした暖かさが伝わってくる。


 ユーナは丁寧に栓を抜き、こぼさないよう気を付けながら、収納指輪から取り出した小さな磁器の茶杯へ紅茶をゆっくり注いだ。


 細やかな湯気がゆらゆらと立ち上り、柔らかな茶の香りが漂う。


 紅茶を注ぎ終えると、今度は収納指輪から繊細なビスケットを数枚取り出した。


 淡いピンク色で、表面には小さなシュガーがまぶされ、見た目から美味しそうだ。


 ユーナはビスケットをそっと俺の手に持たせ、指先が俺の手に触れた瞬間、その冷たさに気づいて思わず両手で包み込むように握ってくれた。


 じんわりと温もりが伝わってくる。


「お嬢様、まず何か召し上がって。チャーリーたちが来たらすぐ出発できますから」


 俺はビスケットを握りしめたまま、もう片方の手で茶杯を持ち上げた。


 まだ半分眠いまま、機械的に杯を唇に近づける。


 温かな紅茶が喉を滑り落ち、胃の奥まで暖かさが広がっていく。


 じんわりとした熱が体の冷えを溶かし、霞んでいた意識も少しずつ鮮明になってくる。


 一口飲んでから、俺はゆっくりと目を開いた。


 ぼんやりとした眼差しが、少しずつ焦点を結び始める。


 改めて周囲を見回すと、自分がいつの間にかベッドではなくアムニットの城門外の草地に座っていることに、今さら気づいた。


 石畳の上を、早起きの馬車が一頭、蹄の音を「コツコツ」と鳴らしながらゆっくり通り過ぎていく。


 俺は紅茶を少しずつすすりながら、ビスケットをゆっくりと齧った。


 のんびりしたペースで、急ぐ気にもなれない。


 ユーナは俺の隣に静かに腰を下ろし、何も言わずにそっと寄り添っていた。


 桃色の長髪が肩に流れ、時折手を伸ばして俺の肩に落ちた髪の毛を払いのけてくれる。


 陽が少しずつ昇り、淡い金色の光が肌にやわらかく降り注いだ。

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