47. 商会崩壊の刻
客席に座っていた人々は、その惨状を目の当たりにして顔から血の気が引いた。
さっきまで顔中に貼り付いていた、あの醜い貪欲さも欲望も —— 跡形もなく消え失せた。
(まあ、当然だろうな)
俺は内心でそう呟いた。
代わりに広がったのは、深い深い恐怖と慄き。
もう俺たちを人間として見てすらいない。
まるで死神でも見るような眼差しで —— ただひたすらに怯えている。
気絶する者がいた。その場で嘔吐する者もいた。我先にと出口に向かって怒鳴り合いながら逃げ出す者の群れ。
全員が「ここから逃げ出したい」という一念しか持っていなかった。
人間地獄から、一刻も早く。
────
その時、俺はステージ上部にある凸型の観察室から魔力の波動が滲み出してくるのを感じた。
しかも、どんどん乱れていく。
(ほう。中の人間がようやく気づいたか)
増幅していく魔力の揺らぎ —— 明らかに焦りが滲んでいる。
「逃げるつもりか? 遅い」
俺は低く冷たく、ほとんど自分にだけ聞こえる声で呟いた。
ユーナの手を引いて、脚部への魔力強化を一瞬で施す。
────
次の瞬間、俺は跳んだ。
ステージの上から、天井近くの観察室へ。
「ドン —— ッ!!」
拳が一面のガラスに激突する。
強化硝子の特注品だろうが関係ない。
粉砕。
ガラスの破片が四方に飛び散る中 —— 俺はユーナを引いたまま、その空間へと飛び込んだ。
────
内部は…… 豪奢だった。
公爵邸の応接間より、さらに一段上を行く趣向の室内。
足元には深紅の絨毯。壁には一枚一枚が途方もない値打ちを持つ油絵が飾られている。
磨き抜かれたアンティークの家具、精緻な装飾品の数々—— そして、外の血腥さを塗り潰すように漂う濃厚な香水の匂い。
(なるほど。こっちが本当の「舞台裏」か)
俺は素早く室内を視認した。
そこには二人。
一人目 —— 黒いローブを纏い、黒い布で顔を隠したままの人物。手には長剣を握りしめ、明らかな狼狽を隠せていない。
チャーリー・マルトだ。
二人目 —— 小柄な黒髪の男性。豪奢な黒の礼服。隙のない髪型。しかし今その眼は、恐怖と不信で揺れている。
オリバー商会総会長 —— アイラ・オリバー。
今回の件の核心にして真の標的。
「アイラ・オリバー会長、夜分遅くにご連絡もなくお邪魔してしまい、ご不便をおかけして誠に申し訳ございません」
俺はユーナの手をゆっくりと放した。
一歩、また一歩。
淡々と、静かに、けれど確実に詰めていく。
眼の中には何もない —— 温度も感情も波紋も。あるのはただ、冷たい冷たい威圧だけ。
「—— これより会長のお手を少々煩わせる必要がございます。昔馴染みの場所で、一杯お茶でもご一緒いただけますでしょうか。なにとぞ奴隷取引に関わる全ての記録と、この別荘に関わる全ての資料をお持ちのうえで。ご協力、よろしくお願いいたします」
アイラ・オリバーは硬直した。
眉を寄せ、訝しむような、信じられないような目で俺を見る。
(そりゃそうだろうな。ピンク色の精霊少女が突然一面ガラスを破って降ってきたんだから)
彼が俺の正体を知るはずもない。
公爵を知っている。公爵夫人を知っている。公爵令嬢クローディアを知っている。
—— でも、どちらもピンク色の髪ではない。
まして、これほど容易く自分の観察室に踏み込んでくる存在など、想定の外にあった。
だが —— 危機だとは理解できる。
目の前の二人が只者ではないと、本能が告げている。
アイラ・オリバーは表情を引き締め、眼に凶気を宿した。
「チャーリー! お前たちも聞け! この礼儀知らずの小娘どもを叩き斬れ! 首を取った者には褒賞を与える!」
命令一下 ——
チャーリー・マルトは一切の躊躇なく長剣を振り上げ、俺へと斬りかかる。
後方で固まっていた甲冑兵たちも、その動きに引きずられるように奮起し、鉄製の長槍を握り締め怒号を上げながら突進してきた。
俺が魔力を練り上げようとした —— その瞬間。
「お嬢様、今回はわたしが」
スッと。
ユーナが俺の前に出た。
────
(…… ああ)
俺はすぐに理解した。
この道中、ユーナは見ていた。あの地下室の子供たちを、直接この目で。
かつて自分が経験したものと、重なるものを全て。
押さえつけてきた怒りが —— ついに限界に近づいている。
今はその怒りを解き放つべき時だ。
俺は静かに二歩退いた。
戦闘の余波に巻き込まれないため —— そして観察室の全ての角を視野に入れ、不測の事態に備えるために。
────
ユーナの手の中に、炎の剣が生まれた。
深紅の炎。
跳ね回る火舌が剣身を舐め、周囲の空気を微かに揺らめかせる。
(あの剣は —— そう、俺が作ったやつだ)
ユーナが火属性・風属性の精通を覚醒させた時、俺が彼女専用に打ち込んだ一本。
魔力との適合性を突き詰め、炎魔法の出力を極限まで引き出せるよう設計した魔法剣。
ユーナの剣だ。
「ッ ——!」
チャーリーの剣が振り下ろされる。
「カッ —— ン!」
甲高い金属音。
チャーリーの長剣が、真っ二つに断ち切られた。
切断面は炎の高温でじわりと赤く焼け焦げている。
反応する間もなく、ユーナの手首が返る。
炎の剣が横一文字に薙がれ —— 最前列にいた甲冑兵たちの長槍の穂先が、まとめて斬り落とされた。
金属の矛が地に落ち、床板に乾いた音を立てる。
チャーリーは恐怖に目を見開いた。
(こいつ…… この、一歩後ろにいた少女が……)
彼の中での算段が、根底から崩れ去る。
ずっと精霊少女の背に隠れ、怯えているように見えた白金の髪の少女が —— 実のところ精霊少女よりも、いっそう鋭い剣腕を持っていた。
驕りも、凶悍さも。全部が恐怖に塗り替えられた。
「あなたたちの行いの対価を、今払わせてあげる」
ユーナの声は静かだった。
ひどく静かで、それゆえに氷のように冷たかった。
炎の剣の火舌が、さらに激しく燃え上がる。
言い終わるより早く —— 彼女は動いた。
炎の残光を引きながら、前方の男たちへと剣を振り抜く。
────
チャーリー・マルトは躱す間もなかった。
ユーナの炎剣が、腰から彼を両断した。
しかし奇妙なことに、傷口から大量の血が噴き出ることはなかった。
火剣の高熱が断面を瞬時に炭化させ、血管を焼き塞いでいたから。
僅かに散った血液さえも、炎に触れた瞬間に蒸発した。
残ったのは、焼け焦げた匂いだけ。
チャーリーの上半身が絨毯の上に崩れ落ちる。眼にはまだ —— 恐怖の色が残っていた。
────
甲冑兵たちもそれ以上ではなかった。
彼らの板鎧は通常の物理攻撃に対してこそ有効だが —— 魔力を帯びた炎剣の前では、紙に等しい。
炎が金属に纏わりつき、瞬く間に赤熱化させる。
兵士たちは悲鳴を上げて甲冑を脱ごうとした。しかし既に皮膚と融着しかけた甲冑は、もう剥がせなかった。
ユーナは一人一人、それを見極めるように動いた。
剣が両腕を断ち —— 返す刃で首を落とす。
数秒。
数秒で、全員が終わった。
────
ユーナが歩く。
今やたった一人残った、震えるアイラ・オリバーへと。
炎の剣の切先が、彼の心臓へ向く。
眼の中の怒りが —— ついに臨界に達しようとしていた。
「ユーナ! まだ駄目だ!」
俺は叫んだ。
同時に水の壁を呼び出し、炎の剣を包み込む。
冷たい水流が、灼熱の炎を押さえつけた。
「彼はオリバー商会を潰すための鍵だと、家で話したこと —— 覚えてるか?! 全ての罪証を吐かせて、衆人の前で裁判を受けさせる。あの子たちに、ちゃんとした決着を付けてやるんだろ!」
俺の声に、ユーナの体が止まる。
剣を握る手から、力が抜けていく。
炎の剣が ——「カン」と音を立てて床に落ちた。
目の前に転がっている、既に気絶したアイラ・オリバーを見て。
ユーナは両手で顔を覆った。
「…… ごめんなさい、クローディア様。わたし、我を忘れていました。もう少しで、ご迷惑をおかけするところでした」
嗚咽が、静かな室内に漏れた。
俺はそっと歩み寄り、彼女の頭に手を乗せた。
小さな、温かい頭。
言葉は要らなかった。
(お前が一番苦しかったんだ。それで十分すぎる)
────
気絶したアイラ・オリバーは丁寧に拘束した。
そして —— 事前に取り決めた合図を受け、公爵家の禁衛軍が別荘を完全に包囲した。
逃げ道は、一切ない。
禁衛兵たちは迅速に別荘内に突入し、その場にいた全員を捕縛した。
今夜この別荘に足を踏み入れた者は全員 —— 奴隷競売を見物した客も、働いていた使用人も、甲冑兵も、取引に関わった全員が、例外なく確保された。
────
地下室の子供たちのことも、忘れていない。
俺たちは全員を救出した。
清潔な服を着せ、温かい食事と水を用意した。
泣きじゃくる子もいた。声も出せず震えている子もいた。それでも俺たちは一人一人に付き添った。
遠方から連れてこられた子たちは —— エリクソン公爵と俺の計らいで、アムニット市への定住を支援した。
俺が立ち上げたクローディア農場に職を用意した。
(給料は出る。住む場所もある。もう誰かに売られることはない)
アムニット市生まれの子たちは、身内のいる者を公爵家の馬車で家族の元へ届けた。
身内のいない子、帰りたくない子 —— そういう子たちにも、市内近辺に住居と仕事を確保した。
自分の手で生きていけるように。
過去の影を、少しずつ脱ぎ捨てていけるように。
────
翌朝、夜明けと共にエリクソン公爵領はオリバー商会の徹底的な家宅捜査に踏み切った。
領内の全拠点。
全財産と全商品。
奴隷取引に関わった人間の全員。
何一つ漏らさなかった。
かつてエリクソン公爵領内で絶大な影響力を誇ったオリバー商会は —— 何の変哲もない、ごく普通の夜に。
静かに、しかし完全に、潰えた。
────
アイラ・オリバー会長は投獄後、それほど間を置かず、奇妙な理由で獄中にて息絶えた。
自殺だという者がいる。
アルフレッド公爵に始末されたという者もいる。
…… だが、俺だけは知っていた。
(これは —— 黒袍会の仕事だ)
ハランド帝国皇帝の傀儡、ローブ会。
あの闇の組織が、俺たちより先に「口を塞いだ」のだ。
都合の悪い証言者を、世界から消す前に。
俺はその事実を、静かに心の中に刻んだ。
(いつか —— 必ず、清算する時が来る)




