41. 二足の材木
「く……く……クローディア様……どう……どうぞ……どうぞお許しください……っ」
エステラの声は震えていた。
「わ……わたくしが、わたくしが悪うございます……っ! もう、もう二度と……二度とご無礼はいたします……っ! ですから、どうぞ……どうぞ、お許しを……っ!」
涙が、とめどなく零れ落ちた。頬を伝い、顎先から落ちて、華やかな紫の礼服に染みこんでいく。二本のドリルツインテールは乱れ、先ほどまでの傲岸さは影も形もなかった。
残ったのは——恐怖と、絶望だけだった。
彼女は床に額を打ちつけ続けた。額が赤く染まっても、止める気配はなかった。
ラティ・モルガンは、賢い男だった。
(今できることは、一つだけだ)
彼はすぐに判断した。迷うことなく、俺の前へどさりと跪いた。全身を細かく震わせながら、声には恐怖と哀願が滲んでいた。
「小娘が、大変なご無礼を……! すべては私の不徳の致すところ、私の躾が至らなかったゆえのことです。领主様、クローディア様、どうか罰はこの私一人に。娘のことは、どうかご寛恕を賜りますよう……!」
声は恭順に満ちていた。頭は深く下がっていた。
だが——その目の奥には、わずかに計算の色が混じっていた。
(……まだ、取り返せる)
彼は内心でそう読んでいた。
娘が過ちを犯したのは、口が過ぎたこと。紅茶を飲ませたこと。——それだけだ。
クローディア様の命を傷つけたわけではない。致命的な情報を漏らしたわけでもない。
……オリバー商会との取引さえ露見していなければ。
(罰金であれば、払えばいい。高級礼服でも、宝石でも、喜ぶものを贈れば——公爵令嬢など、そんなものだ)
彼は膝をついたまま、かすかに口の端を動かした。
どんな小娘でも、きらきら光るものには目が眩むんだろう。機嫌さえ直してもらえれば、あとはこちらの勝ちだ——。
しかし、その読みは外れた。
彼の眼には映らなかった。眼前の少女が、いかに容赦なく、残酷に彼を追い詰めているか。
ユーナがゆっくりと立ち上がった。
彼女は右手の腕輪に触れると、そこから一冊の帳簿を取り出した。
白い表紙。びっしりと文字が刻まれている。
——エリクソン公爵家に毎年提出される、ラティ・モルガン男爵領の納税台帳だ。
ユーナはそれを静かにテーブルの上に置いた。
「パン」と、乾いた音が、応接間に響いた。
続いて、もう一つ。
腕輪から取り出されたのは、一粒の淡い青い石だった。
透明感のある、ほのかに光を帯びた石——留影石だ。
ユーナはそれをテーブルに並べると、指先で軽く触った。
すると——光が広がった。
応接間の壁に、映像が映し出される。
そこに映っていたのは——エステラだった。
学院の廊下で、俺とユーナに侮辱の言葉を投げつけている場面。 教室で、紅茶を俺の白いドレスに浴びせた場面。 公爵邸の門前で、門衛に向かって「俺たちを追い払え」と命じている場面。
だが——焦点は、冒涜の証拠ではなかった。
カメラは、エステラの全身を舐めるように捉えていた。
身に纏った礼服の刺繍の一針一針。首のチョーカー、手首のブレスレット、耳元のイヤリング、指のリング——その一つひとつが、鮮明に、くっきりと映し出されていた。
俺はゆっくりと立ち上がった。
腕輪から、小さな細長い器具を取り出す。ペンほどの大きさで、ボタンを押すと先端から赤い光点が出る——指示棒だ。
「ラティ様」
声は穏やかだった。威圧はなかった。ただ、抗いがたい何かが、言葉の奥にあった。
「去年、ご提出いただいた納税台帳によりますと——ラティ様の領地の一年間の純収入は、76枚の金貨でございます」
俺は赤い光点を、映像の中のエステラのドレスへと向けた。
「しかしながら——お嬢様がお召しになっているこちらのドレス。オリバー商会製の特大高峰定礼服でございますが、単体で50枚の金貨に相当します」
光点が動く。
「首飾り、腕輪、耳飾り、指輪——装身具すべての合計は46枚の金貨。そのうち21枚分の装身具は、今年、オリバー商会に新入荷したばかりの限定品でございます」
俺はそこで一拍置いた。
「ラティ様の年間純収入は76枚。ドレスと装身具を合わせれば、合計96枚。一家の生活费とご家族の生活維持費、さらに税金を差し引けば——」
俺はゆっくりとラティを見下ろした。碧い瞳に、温度がなかった。
「——どうなさいますか?」
応接間に、静寂が落ちた。
ラティは完全に硬まっていた。
膝をついたまま、目を見開いて、俺を見上げていた。口が半開きになり、言葉が出てこない。顔色が、じわりと灰白色に変わっていく。
(……まさか)
(まさか、そこまで——)
納税台帳まで調べているとは、思っていなかった。娘の装身具の値段を、ここまで精緻に把握しているとは。
(この少女は、ただの公爵令嬢ではない——!)
思考が追いつかない。冷汗がじわりと額を伝い始めた。
俺はゆっくりと、腕輪に手を当てた。
もう一度。
今度取り出したのは——黒い表紙の帳簿だった。
表紙は黒い。材質は硬質な布張り。文様もタイトルもない。ただ、それだけで十分だった。
ラティの顔から、血の気が完全に引いた。
全身が、がくがくと震えだした。歯まで鳴り始めた。
彼は知っていた。
あの黒い帳簿が、何ものであるかを。
——闇の取引のすべてが記されている。あの数字が世に出れば、モルガン家は終わりだ。
「まあ、参りましたわね」
俺は口元に笑みを浮かべた。むしろ楽しそうでさえあった。
「ラティ様の領地では、珍しい動物をお育てになるのだそう」
俺は黒い帳簿の表紙をゆっくりと撫でた。
「『二足の材木』——ですって?」
言葉は柔らかかった。だが、その声の奥底には、炎より冷たいものが宿っていた。
「私、不勉強で存じませんでしたの。二足で歩く『材木』とは——一体、何のことなのでしょう?」
俺はわずかに首を傾げ、ラティを見下ろした。
「……もしかして」
にっこりと——笑った。
「人間、かしら?」
ラティ・モルガンの背中に、冷たい雫が伝った。冷や汗が、背中を伝いゆっくりと流れ落ち、黒い礼服を濡らしていく。
顔は、もはや紙よりも白かった。
目には、ただ——絶望だけが残っていた。
(……この少女は、全部わかっている)
俺は唇の端を微かに上げた。
「ねえ、わかったフリをしてみようか?」
声は冷たく、穏やかだった。
「モルガン男爵領では去年より全面的に奴隷交易を禁止しました。禁令を破り、人身を取引する者はすべて死刑に処する——例外はない」
俺は一拍、置いた。
「けれど、オリバー商会の内部にはまだ闇市場があるそう。そしてその闇市場最大の供給元が——あなた、ラティ・モルガン、だったのだけれど?」
俺はゆっくりと瞳を細めた。
「証拠がいる? あるわよ、ある」
ラティは息を呑んだ。
すべてが終わったと。 すべてが暴露されたと。
彼が知っていた——俺がなぜ今、敢えて面と向かって対質ができるか。
それは——俺がすでにすべての証拠を掌握しているからだ。




