329. 条約への署名
彼の指が紙の縁を一度押さえ、その腹が紙の上にごく薄い汗の跡を残した。
あの条項を、いまさら一つずつ検証し直す必要はなかった。
最初から、これらの条項が諸島国にとって何を意味するのかは分かっていた。
第五条の真の意味は、インゲリア海軍が今後、帆走軍艦を四隻までしか持てないということだ。
新造するいかなる艦も、エリクソン公国の現役主力を超える大きさにはできない。
第七条は、王国の常備兵力が、二万人規模の二つの部隊に縮められることを意味する。
しかもそのわずかな兵力が、今後数十年にわたって、この遊休状態に縛りつけられる。
第八条は、海峡に面した沿岸防御施設のすべてを、将来の新設の可能性もろともゼロにするということだ。
だが本当に致命的なのは、船でも、人数でも、城壁でもなかった。
クーパー港だ。
クーパー港は、インゲリア海峡の西側で大型艦隊を停泊させられる唯一の天然の深水良港だった。
それがなければ、諸島国は海峡を支配できない。
そして条約は、その深水港と付属施設のすべてを、エリクソンの手に渡してしまった。
インゲリア海峡の支配権は、この紙に署名された瞬間、ランカスター家のものではなくなる。
署名しなければ、戦争は続く。
ヴェセラン城ヴェセランじょうの城門は砲撃の下で完全に崩れ、王宮は旗を替えられ、金雀花の旗は宮の壁から引きずり下ろされ、たたまれ、戦利品としてエリクソンの文書館へ送られて展示される。
署名すれば、過去数百年のあいだに祖先が戦争と婚姻と陰謀で積み上げてきた海権の優位が、彼の代でことごとく失われる。
自分が何をしているのか、分かっていないわけではない。
ただ、選択肢がなかったのだ。
彼の肩が落ちた。
打ち倒された者の落ち方ではない。
自分が袋小路へ入り込んだと確認した者が、みずから防御を解く落ち方だった。
彼は手を伸ばし、天板の上から、金雀花の紋章を刻んだあの筆を取った。
ペン先が紙面に触れる前、彼の手首は三度の呼吸のあいだ、宙に止まった。
そして彼は、自分の名を書きつけた。
墨の跡の最後で、筆画がわずかに上へ跳ねた。
幼いころからの署名の癖で、この世で最後に署名する国書においても、彼はそれを変えなかった。
ヘレナが筆を取り、自分の名を署名した。
条約は発効した。
十日後、インゲリア海軍は軍縮条項の執行を始めた。
造船所で数百枚の金貨を費やして建造された三本マストの戦列艦が、係留場所から引き出され、インゲリア自身の水兵によってクーパー港の沖へ運ばれ、そして船底を破られた。
最初に自沈したのは、「列王権杖号れつおうけんじょうごう」という名の三本マスト旗艦だった。
それはかつて、ライオネルの旗艦「海王戟号かいおうげきごう」が就役する以前、インゲリア海軍で最も強大な戦艦だった。
その船殻が海面下で裂けたあと、船尾から先に沈み、艦首が反り上がり、マストが傾きながらゆっくりと水面をなぞり、そして波に呑まれた。
沈没には二十分近くかかった。
岸に立っていたインゲリアの古参水兵のなかに、帽子を脱ぐ者がいた。
最終的に残ったのは、より新しい四艘の三本マスト帆船だけで、それらは小さな港にぽつんと停まっていた。
同じころ、クーパー港の深水バースには、エリクソン公国の装甲巡洋艦五隻がすでに横づけされていた。
そのマストにはエリクソンの旗が掲げられていた。
白い地の中央に銀の盾、盾の面には牡丹の浮き彫り、その後ろに一振りの剣が立ち、柄頭は天秤の形に刻まれていた。
ハーランド帝国の首都ハーランド城。
エイドリアン・フォン・ハーランドが北方領土の陥落の報告を受け取ったのは、徴発隊の配置に関する行政命令に署名している最中だった。
彼は卓から顔を上げ、その急報をひと目見て、まだ決裁していない書類の山の脇に置いた。
一番上ではない。
脇だ。
彼は指で紙の縁を一度押さえ、それから向き直って、あの徴発令への署名を続けた。
同じ日、南方のハインツ城。
仮の行宮に改められた旧伯爵邸のなかで、ハインツ・フォン・ハーランドは前線から送られてきた魔人化の損耗率統計表を照合していた。
副官が南西部領土の占領の知らせを卓の角に置き、彼は副官の表情を一瞥してから急報を手に取り、一読した。
ハインツはうなずき、急報を脇へ置き、統計表の続きを見た。
千里を隔てた兄弟が、まったく同じ決断を下した。
構うものか、と。
構わないのではない。
構えないのだ。
自国の領土が隣国に占領されたと聞いて、真っ先に「問題ない」と思う君主はいない。
だが内戦は、すでに一年続いている。
一年前、ハーランド帝国にはまだ潤沢な国庫の備えと、無傷の糧道があった。
一年後のいま、両軍の主要な食料源はもはや自国の生産ではなく、エリクソン公国の商路を通じて国外から運び込まれている。
エリクソンは、この補給線の関門、道路、そして沿道の倉庫拠点のすべてを握っている。
奴らはそれを断ち切る必要などない。
断ち切れるとハーランドに告げるだけでいい。
そしてその情報は、北方領土と南西部領土が同時に占領された瞬間、すでに届いていた。
たとえいま内戦を一時停止して一致対外したとしても、エイドリアンとハインツは、それぞれ各戦線に散らばる軍を集め直し、再編し、向きを変えねばならない。
この過程に、少なくとも二カ月はかかる。
二カ月あれば、エリクソンの艦隊は沿岸のどの港からでも悠然と撤収し、自国へ引き揚げられる。
あとはブレン関隘に防衛線を一本敷くだけだ。
ハインツはあの関隘を見たことがある。
あそこは、人命を積み上げて突破できるような突破口ではない。
だから彼は、積み上げないことを選んだ。
エイドリアンも、帝国の首都にある宮殿で同じ判断を下した。
傍らの軍務大臣に、彼はひとこと言った。
声は高くなく、どうでもいい事実を述べるような口調だった。
「奴らは領有を宣言したわけでもあるまい。匪賊討伐の名目で軍事拠点をいくつか建てただけだ。内戦が終わったら、改めて話をつければいい」
軍務大臣は何も言わず、ただうつむいて手帳に二行書き込んだ。
兄弟のどちらも、この件を公の場で二度と口にしなかった。
ハーランド帝国の内戦は続いた。
北方と南西部の失地は、しばらくの間、奪い返そうとする者がいなかった。
新領地の建設は、すでにしばらく前から始まっていた。
私は、まだ完成していない菱形の堡塁の前で足を止めた。
堡塁の外壁は灰色の花崗岩で積まれ、壁面には四角い砲眼が開いていた。
その孔の内側の斜面の角度は、魔導砲が最大の射界を保ちつつ、露出面積をできるだけ減らせるように設定されていた。
作業員たちが堡塁の頂部に木の天板を取り付けており、板を叩く槌の音が上から降ってきて、遠くの波の音と混ざり合っていた。
堡塁の背後には、すでに整地された野営地が広がっていた。
天幕が四列に並び、炊煙が野営地の中央にある数基のレンガのかまどの上から立ちのぼっていた。
堡塁の工事現場を離れると、私たちはさらに内陸へ向かった。
馬車の車輪が砂利道を踏みしめ、車体が路面の起伏に合わせて揺れた。
ユーナが私の肩に寄りかかり、目を閉じ、呼吸は穏やかだった。
外の光が車体の側窓の布のカーテンを透けて、彼女の睫毛に細長い影を落としていた。
馬車は、まだ再建されていない村の前で停まった。
御者が手綱を引き締めたのと同時に、私はこの村には属さない匂いが、車体の外から滲み込んでくるのを感じた。
私は側窓の布のカーテンを押し上げた。
まだ日は落ちていなかった。
土の道に差す陽の角度は、人の影を長く引き伸ばせるだけの低さだった。
路の真ん中に立っていたのは、全身が漆黒の人型だった。
体の輪郭は角張っていて、日照の下で不規則な鏡面の反射を返していた。
肩は異様に幅広く、腕は膝の位置を越えるほど長く、指の先は爪ではなく、鋭い結晶の面が一枚に連なっていた。
「これは何なの」
そのことばが完全に落ちるより早く、首筋の毛が逆立った。
あの黒晶人の体が、何の予兆もなく動いた。
膝を曲げることも、力を溜めることも、何もなく。
前へ一歩踏み出し、そして走り出した。
重く、鈍く、傀儡のような動きではない。
狩る者が疾走する速度だった。
「逃げるわよ」
私はユーナの腰を抱き、車の前部から飛び出して右側へ跳んだ。
足が馬車の踏み段を蹴った。
宙に浮いた一瞬、ユーナが私の腕のなかで体の向きを変え、自分で肩をすくめる角度を見つけた。
叫ばなかった。
御者も御者台から身を躍らせ、馬の嘶きが起こるより先に、ブーツで路傍の土を踏み、重心を沈め、片手を地面について衝撃を逃がしながら転がった。
馬車の車体が、私たちの背後で破裂した。
車体の木の側板が真ん中から折れ、裂け目には炎はなく、断面の木繊維が衝撃波で不揃いな刺のように引き裂かれていただけだった。
馬を引いていた二頭が、同時に苦痛の嘶きを上げた。
後肢の皮と肉が爆発のように引き裂かれて原型を留めず、折れた骨が裂けた皮膚の下から突き出し、血が裂け目からあふれ出て、蹄の下の土を濃い褐色に染めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




