326. 血の雨
ユージンがよろめいて一歩踏み出し、片手を連絡艇の舷縁に突いて、それから艇内へ転がり込んだ。
彼のブーツが艇底の板を踏んで、ドンという音を立てた。
ライオネルが続いて艇へ飛び込んだ。
膝が艇内の座板にぶつかり、膝の骨から鈍い痛みが走った。
彼は揉もうとせず、体を翻してフィリップへ手を伸ばした。
「綱を下ろせ。 乗れ」
フィリップはその場に立っていた。
手には解いたばかりの綱があり、その端が彼の手元から垂れ、海風に軽く揺れていた。
彼は動かなかった。
唇を一度きつく結んでから、綱をライオネルのいる方へ投げた。
綱は連絡艇の底に落ち、鈍い音を立てた。
「行け」
そう言ってから、彼は続けた。
「係留杭が噛んでいて、もう間に合わない」
ライオネルはその綱を握り、フィリップを見た。
何か言おうとしたが、そのことばが形になるより早く、連絡艇の吊り索が放たれた。
艇は重力のままに急激に落下した。
四本の固定索が同時に緩み、艇はダビットから外れて滑走レールを滑り落ち、海面へ叩きつけられた。
艇底が水面を打つ衝撃で、ライオネルの体は前へ弾かれ、膝が再び座板にぶつかった。
艇が姿勢を保った一瞬、彼は顔を上げた。
そのとき、「海王戟号かいおうげきごう」の艦橋を砲弾が貫いた。
彼が見たのは、爆発でも火球でもなかった。
艦橋の中央、ブルワークと上部構造の外殻が同時に内側へ凹み、そして外へ膨れ、その音が鼓膜に届くよりも早く、あの一体が引き裂かれたのだ。
破片が外へ飛び散り、綱が切れ、マストが根元から折れた。
「海王戟号かいおうげきごう」のメインマストが傾きはじめた。
ゆっくり倒れるのではない。
根を断たれた木のように、がくりと沈み、帆布と横桁を伴って左舷側の水中へ倒れ込んだ。
叩かれた海面が白い波を起こし、その波が広がって連絡艇の側面を突き、艇が一度揺れた。
ライオネルは艇の舷をつかんでいた。指の関節が白くなっていた。
燃えながらゆっくりと解体されていく「海王戟号」の残骸を見ていた。
まず上部構造が崩れ、次いでブルワークが外へ崩れ落ち、最後に竜骨が炎のなかに露出した。
その間じゅう、船は音を立て続けていた。
破断の音、燃える音、板の隙間から噴き出す蒸気の音、そして焼けた木に海水がかかって沸き立つ音。
それから、彼は顔に何かが落ちてくるのを感じた。
生温かかった。
途切れ途切れに。
空から降ってくる。
彼は顔を上げた。
空には何もなかった。
だが生温かく細かい雫は落ち続け、額に、頬に、手の甲に降りかかった。
彼はその手を返した。
手の甲に、暗い赤色の液体が何滴か付いていた。
顔は上げなかった。
それがどこから来たかは、分かっていた。
彼は連絡艇の座板に座った。
木の座板には、まだ船体から伝わった熱と震えが残っていた。
手を膝に戻し、その液体は拭わなかった。
ユージンは向かいの艇底に座り、肩をすくめて、ライオネルの手にある暗い赤色の染みを見ていた。
何も言わなかった。
唇が一度開き、新聞紙を折るように滑らかに閉じた。
ライオネルは腰をかがめ、艇底に落ちていた二本の木の櫂を拾い上げた。
その一本を、ユージンの手に押し込んだ。
「漕げ」
ユージンは櫂の柄を握った。
指の力は十分ではなかったが、離すこともなかった。
彼は櫂の葉を水に入れ、ライオネルとともに、一掻きずつ、クーパー港の方へ艇を進めた。
水を割る櫂の音は小さく、ほとんど聞こえないほどだった。
背後の燃える音も、同じだった。
二人は振り返らなかった。
一時間後、一艘の黒い装甲巡洋艦が霧のなかから現れ、連絡艇の進路を塞いだ。
エリクソン公国の装甲巡洋艦で、船体は灰黒に塗られ、舷側の喫水線より上には、リベットを打った跡が一列に並んでいた。
艦首の砲塔は連絡艇の方向を向いたまま、砲身は回らず、しかし引き込められもしなかった。
甲板から綱が一本投げ下ろされ、連絡艇の舳の脇に落ちた。
濃い灰色の制服を着た水兵がブルワークに身を乗り出し、下へ向かって何か叫んだ。
ライオネルにはよく聞き取れなかったが、まず上がれと言っているのだろう。
彼は抵抗しなかった。
その綱をつかみ、連絡艇の舳の杭に結びつけ、それから梯子を伝ってその船の甲板へ上った。
ユージンが後に続いた。
甲板に立ったライオネルは足を止め、この船の内部構造を一瞥した。
甲板は鋼製で、表面に滑り止めの塗料が塗られていた。
踏むと木の甲板よりずっと硬く、船体の揺れに合わせて木がきしむような音もしなかった。
マストは金属製で、細くまっすぐ、頂に二枚の旗が掲げられていた。
一枚はエリクソン公国の旗。
もう一枚は彼には見分けがつかなかった。おそらくこの艦の識別旗だろう。
水兵の数は少なかった。
同程度のトン数の帆走戦艦より、はるかに少ない。
甲板には数人の水兵が作業をしていて、それぞれ黙々と自分の仕事をしていた。
蒸気機関の音が甲板の下のどこかから伝わってきた。
低く、絶え間なく、まるで鉄の殻のなかで巨大な心臓が鼓動しているかのようだった。
濃い灰色の士官制服を着た男が艏楼の方から歩いてきて、ライオネルの前で足を止めた。
年の頃は三十代前半、帽子の鍔の下の髪は短く刈られていた。
彼は敬礼をせず、ただひとこと言った。
「あの旗艦の指揮官だな」
ライオネルはうなずいた。
右手を上げて「海王戟号」の方を指そうとして、指す必要はもうないと気づいた。
海上に立ちのぼるあの黒煙が、なによりの目印だった。
「ライオネル・オブライエン。インゲリア王家海軍大将だ」
その士官は彼を一瞥し、わずかに首を傾げた。
「ここは『勝利号』だ」
そう言ってから、彼は続けた。
「旗艦からの指令で、インゲリアの指揮官級の捕虜はすべて無畏号へ移送することになっている」
ライオネルは何も言わなかった。
彼は「勝利号しょうりごう」の甲板に立ち、足元から絶え間ない蒸気機関の震えを受けていた。
振り返ると、ユージンが背後に立っていた。
両手は空で、あの櫂は連絡艇の底に置いたままだ。
無畏号。
その名を、彼は一昨日から覚えていた。
エリクソン公国の艦隊についてのあらゆる情報。
帆がなく、櫂の穴もなく、みずからを鉄の殻で包んだあの戦艦についてのあらゆる情報は、それぞれ違う形で同じ名を指していた。
彼は双眼鏡越しにも見ていた。
数百本の弩矢の斉射を無傷で受け止める様を、そして艦首の二本の金属の筒で自分の艦隊を一片ずつ引き裂いていく様を。
あの船との再会について、彼はいく通りもの筋書きを思い描いていた。
だが、こうしてその甲板に立つことになる筋書きだけは、想像できなかった。
無畏号に乗り込んだとき、彼は梯子の上端で一拍止まった。
その船のせいではない。
甲板にいた者たちのせいだ。
エリクソンの水兵ではない。
インゲリアの捕虜だった。
彼らは中甲板から後甲板にかけての一帯に集められ、敷かれた帆布の敷物の上に座っていた。
なかには隔壁にもたれている者もいれば、そのまま横になっている者もいた。
片脚を失った若い水兵が、仰向けに横たわっていた。
白いエプロンをつけたエリクソンの衛生兵が腰をかがめ、その太腿の付け根の切断面を処置していた。
真っ白なガーゼは、すでに半ば以上が赤く染まっていた。
その隣に座っている捕虜がいた。
左腕は肘から先がなく、その先は包帯で巻かれ、包帯の端の結びは固く結ばれていた。
顔色はひどく青ざめていたが、気を失ってはいなかった。
ただ隔壁にもたれ、静かに瞬きをしていた。
ライオネルの足取りが緩んだ。
三列目の敷物を通りかかったとき、知っている顔があった。
「海獅号かいしごう」の二等航海士だ。
名は思い出せないが、埠頭で顔を合わせれば会釈をしてくる若者だった。
いま彼の目は厚いガーゼで覆われ、その下の縁から暗い赤色の染みが小さくにごっていた。
口がわずかに開き、胸の起伏は浅かった。
喉の奥から、低い呻きが漏れていた。
小さく、しかし絶えず。
ライオネルはその呻きのなかに、すべてを聞いた。
肺から絞り出された息が声帯を通るときの震え。
きちんと閉まっていない扉が、風のなかで繰り返し開いたり閉じたりしているようだった。
彼はさらに進んだ。
足元の鋼の甲板には薄い滑り止めの塗装が施されていて、踏むと硬く、木の甲板のように足音を吸ってくれない。
だから彼自身の足音が、はっきりと自分の耳に返ってきた。
背後でユージンの足音がした。
彼よりいくぶん軽いが、間合いは同じだった。
鋼の甲板を踏む二人のブーツの音が重なり、鼓動のない拍子のようだった。
彼は後方の船室へ通された。
部屋は広くなく、およそ四五歩四方といったところだった。
金属を溶接したテーブルが一脚、椅子が二脚。
壁に舷窓はなく、天井の中央に白い光を放つ照明の魔導器が、金属の枠にはめ込まれていた。
卓上には何もなく、縁だけが摩耗して光っていた。
ライオネルは外側の椅子に座り、ユージンがその隣に座った。
扉が閉まった。
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