324. 時代は変わった
やがて、色とりどりの信号旗がひとつづきになって、メインマストの付け根からゆっくりと揚がりはじめた。
昇降索を伝ってマストの頂へ達し、海風のなかでひるがえった。
旗の一枚一枚が、短い指令を意味していた。陣形変更、加速、戦闘準備。
前方の偵察艦が最初に反応した。
二本マストの縦帆船三艘が一斉に針路を変え、両側へ散開して、主力艦隊に射撃の通路を空けた。
主力艦隊がそれに続いた。
左側の重型編隊が加速して前へ出始め、接戦が始まる前に単縦陣の展開を終えようとしていた。
それはインゲリア海軍が最も得意とする陣形だった。
舷側の火力を一本の線に集中させ、できるだけ多くのバリスタを同時に同じ目標へ向けるためのものだ。
右翼の中型編隊はやや減速し、主力との位置をずらしたまま距離を保った。
それは、交戦のあとで包囲や追撃に回るための余裕だった。
ライオネルは指揮台の脇に立ち、陣形を変えつつある艦列に目を走らせてから、再び前方の五つの黒い輪郭へ視線を戻した。
それらはまだ同じ場所にあった。
動かず、散開せず、針路も変えなかった。
あれが何という船なのか、彼には分からなかった。
帆を持たずに海上を進む船など、これまでの海軍人生で見たことがなかった。
だが指揮官としての本能が告げていた。
あれが何であれ、すでにあそこで待ち構えているのだと。
同時刻。
エリクソン公国海軍旗艦「無畏号」。
指揮室のなかには風がなかった。
艦内の壁面を、真鍮の管が上部を一周して走り、数カ所の通風口が新鮮な空気を送り込み続けていた。密閉されたこの空間の空気が淀むことはなかった。
大きな長方形のガラス窓が、区画の正面の壁を一面に占めていた。
ガラス越しに、前方の海面と、遠くのインゲリア艦隊の陣形がそのまま見えた。
ヘレナは窓の前に立ち、片手を背に回し、もう片方の手を窓枠の縁に置いていた。
彼女は今日、濃い藍色の軍服仕立てのコートを着ていた。
白金の長い髪はうしろで一つに束ねて低いポニーテールにし、耳の脇にエリクソン軍の銀の徽章を留めていた。
私はその斜め後ろ、およそ半歩ほど離れた位置に立ち、手に硬い表紙のファイルを挟んでいた。
表紙には、戦況の見取り図が一枚添えられていた。
「娘や」
ヘレナは窓の外から目を離さなかった。
「インゲリアの小僧どもは、どうやらおとなしくしていられないようだね」
私はすぐには応じなかった。
手の中のファイルに一度目を落とし、それから顔を上げて、窓の外で陣形を展開しつつある帆走艦隊を見た。
数百の帆走軍艦が針路を調整し、旗がマストの頂で翻っていた。なるほど確かに壮観な光景だった。
「北方の領土を取り戻せないのなら、せめてこちらにも旨味を与えまい、ということでしょう」
「手に入らない物は壊す。考え方としては悪くないが、実行となると話は別だ」
ヘレナはそう言うと、振り返って区画の側面にある伝声管を一瞥した。
彼女は歩み寄り、伝声管に向けてひとこと告げた。
声は大きくなかったが、静かな室内では十分に聞き取れた。
「全艦、針路を維持せよ。命令なくして、先に火を噴いてはならない」
伝声管の向こうから、男の声が返った。
「了解。針路を維持し、静粛に待機します」
私はファイルを開き、挟まれていた艦隊編成表に目を通した。
十隻。
これが今回、エリクソン公国が差し向けた海軍戦力のすべてだった。
旗艦「無畏号」を筆頭とする。
鉄甲艦、排水量1万トン、蒸気動力、舷側の主装甲帯は厚さ200ミリ。
主砲は単装356ミリ魔導砲二門で、艦首の砲塔に収められていた。
この二門には莫大な資源と工数が注ぎ込まれており、現時点でエリクソン公国が用意しうる最強の長距離打撃兵器だった。
残る九隻は装甲巡洋艦で、排水量は2000トンから3000トンほど、同じく蒸気動力と鉄甲の防御を備えていた。
主砲は連装150ミリ魔導砲で、各艦に二基の砲塔があり、艦首と艦尾に分けて置かれていた。
火力の面では無畏号の主砲二門に及ばない。
だが木造の帆船を相手にするなら、この口径はすでに過剰だった。
私はファイルを閉じた。
今回の両者の差がどれほどのものかは、よく分かっていた。
インゲリア艦隊には300隻近い船がある。
だが奴らが放つのは弩矢と石弾で、風と櫂に頼って動き、船腹は薄い一枚の板だ。
エリクソンには十隻しかない。
しかしこちらが放つのは付呪された砲弾で、蒸気機関で動き、船体は数十ミリ、厚い場所では200ミリの錬鉄装甲に覆われている。
これは海戦ではない。
技術の時代が違う者どうしによる蹂躙だ。
ただ、相手はまだそのことに気づいていない。
インゲリア艦隊は陣形の展開を終えた。
単縦陣が海面に緩やかな弧を描いて連なり、数百の帆走軍艦が陽の下に整然と並んだ。
舷側のバリスタの蓋板はすべて開かれ、鋳鉄の弩腕が光の下で鈍い輝きを放っていた。
ライオネルは「海王戟号かいおうげきごう」の後甲板に立ち、双眼鏡を掲げて、エリクソン艦隊の最も中央にいる船へ向けた。
無畏号。
鏡筒越しに見えたものに、彼は双眼鏡を握る手を一瞬止めた。
あの船にはマストがなかった。
いや、甲板の中央に、極めて短く太い金属の構造物が立っており、その頂からごく淡い灰色の煙が一筋立ちのぼってはいた。
あれはマストではない。
横桁も、帆を操る索も、帆布に関わる構造物は何ひとつなかった。
船体は全体が濃い灰色で、艦首はわずかに反り上がっていた。
舷側にはバリスタの射口も、投石機の支架もなく、その側面は鉋で削り整えた一枚の鉄板のように無駄がなかった。
彼は艦首の砲塔を見た。
金属の外殻に包まれた回転構造物で、頂から二本の並んだ筒が顔を出し、その口は彼のいる方向を向いていた。
筒の外壁は、陽の光の下で冷たい灰色の光沢を帯びていた。
ライオネルには、あれが何なのか分からなかった。
海軍に入って二十三年、彼はさまざまな船を見てきた。
商船、漁船、軍艦、快速艇、櫂船。どれも名前を言い当てられ、速力も積載量も乗員構成も戦い方も知っている。
だが目の前のこれは、名前が出てこなかった。
帆がない。
櫂の口もない。
舷側にバリスタの穴もない。
甲板に投石機もない。あの二本の金属の筒は、マストではない。
何かは分からない。
だが、機を逃せば二度と巡ってこないということなら分かっていた。
彼は双眼鏡を下ろし、伝令へ向き直った。
声は落ち着いていたが、普段よりいくぶん速かった。
「全艦に命じる。撃て」
伝令が一瞬固まった。
「将軍、敵はまだ標準射程に完全には入っておりませ……」
「撃て」
「はっ!」
「海王戟号かいおうげきごう」のメインマストの頂で、信号旗の組み合わせが再び入れ替わった。
ほとんど同時に、インゲリア艦隊の左翼編隊が一斉に攻撃を開始した。
数百台のバリスタが一斉に弓弦を解き放つ音が、海面で重なり、鈍く巨大な轟きとなった。
破裂音ではない。
数百本の弓弦が一斉に反発して弩の機枠を叩く音が、海上で幾重にも積み重なり、まるで巨大な太鼓を思いきり一撃したかのようだった。
千本を超える重型弩矢が弩腕を離れ、半空に低く平らな弧を描いて、エリクソン艦隊の中央、無畏号へ向かって飛んだ。
矢尻は錬鉄を鍛えた三角錐で、矢の全長は両腕を広げたほどもあり、矢尾には安定用の羽が付いていた。
そのひとつひとつが、陽の下でびっしりと冷たい光を散らしていた。
インゲリア海軍のバリスタ技師たちは長年の訓練によって、弩矢の落点をかなり正確な範囲に収めることができた。
標準射程であれば、たいていの木造船殻を貫ける。
ライオネルは艦首に立ち、手すりを握り、いま降りかかろうとしている矢の幕を見上げた。
弩矢が無畏号の舷側の鉄甲に触れた瞬間、彼の耳に届いた音は、予想していたものと違っていた。
木に食い込む鈍い音ではない。
木を貫くときの、こもった裂け音でもない。
それは細かく鋭い金属の擦過音の連なりで、まるで誰かが巨大な銅鑼を爪で引っかいたかのようであり、そのあとに続けて水に落ちる音がいくつも重なった。
双眼鏡越しに、彼は見た。
無畏号に命中した弩矢が、船体の外殻に触れた一瞬、極めて滑らかで硬い面にぶつかったかのように、矢尻が鉄甲の上に白い一条の跡を走らせ、装甲の曲面に沿って滑り、それて、海へ落ちていった。
あの灰色の外殻を貫いた矢は、一本もなかった。
ライオネルは、双眼鏡を握る手を止めた。
二十年余りの海軍人生で、艦隊のバリスタ斉射を正面から受けてなお無傷の船など、見たことがなかった。
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