311. 星を見る
私はスマホの時間を確認した。
八時四十五分、集合まであと十五分だった。
ユーナは居間のソファに座って靴を履き替えていた。
彼女がかがんで靴紐を結ぶとき、ピンクの長い髪が肩から滑り落ち、膝の上まで垂れた。
「上着を一枚持っていけ」と私は言った。
「山の上は夜が冷える」
彼女は顔を上げて私を一目見、それからソファの肘掛けに置いてあった薄いダウンジャケットを身にまとった。
ファスナーを上まで上げると、彼女は襟を立て、顎を半分ほどその中へ引っ込めた。
私たちが本館の裏の展望デッキに着くと、そこにはもう七、八人が立っていた。
デッキの中央には三台の望遠鏡が据えられ、接眼レンズには埃よけの布が掛けられていた。
傍らには折りたたみテーブルが置かれ、その上に星座図が数枚と小さな懐中電灯が一つ広げられていた。
懐中電灯の光は赤い布で覆われ、暗い赤の光を放っていた。
暗所視を損なわないためだ。
星空の案内役は四十がらみの男性で、濃い灰色のアウトドアジャケットを着て、眼鏡をかけていた。
彼は教えるような口調で話すのではなく、一台の望遠鏡の傍らに立ち、人が揃うのを待ってから、懐中電灯の光でおおよそ頭上の方向を指し示した。
「今夜は透明度がとても良い。月は後半に昇ってきますので、前半夜は深空観測の最適な窓です。まずは月からご覧いただき、そのあと土星、アンドロメダ銀河、プレアデス星団へと向かいましょう」
彼は一台目の望遠鏡の埃よけをめくり、焦点を少し調整し、それから一歩下がって、前の人が見てよいと合図した。
子供連れの父親が最初に覗き込んだ。
彼は目を接眼レンズに押し当て、五秒ほど静かにしていた。
それから低い「おお」という声を漏らした。
彼が下がると、娘も代わって覗き込んだ。
下がってから何も言わなかったが、その後二分間、ずっと顔を上げたまま、今しがた望遠鏡が向いていた天のあの位置を探していた。
私の番になった。
私は望遠鏡の前へ進み、腰をかがめ、目を接眼レンズの縁へ近づけた。
月が視野の三分の一を占めていた。
夜空に掛かる、あの手の届かない発光円盤ではない。
細部に満ちた、立体の、まるで手が届く距離まで拡大された球体だった。
クレーターの縁が明暗の境にクッキリとした影を落とし、影の中は濃い灰色で、陽の当たる側はごく淡い温かみのある白を帯びていた。
隕石孔の縁は幾重にも重なり、大きいものの中に小さいものが入り、まるで何度もぶつけられた古い硬貨の表面のようだった。
私は目を接眼レンズから離し、体を起こした。
「クレーターが見えました」と私は言った。
案内役の男性はうなずき、望遠鏡の角度を調整した。
「では次は土星を見てみましょう」
彼は数秒かけて位置を再調整し、もう一度見るように合図した。
私は目を押し当て、暗がりに少し目を慣らすと、視界に淡い黄色の光点が現れ、その両側へごく細い線が伸びていた。
線ではない。
環だった。
土星の環。
この倍率では、写真のような鮮やかさはないが、それでもその惑星が丸ではなく、扁平で、それを取り巻く薄い平面によって上下二つに分かたれていることははっきり見てとれた。
その環は暗がりの中で、ほとんど透明な灰色を呈していた。
私は場所をユーナに譲った。
彼女が望遠鏡に近づくとき、足取りはいつもより少し遅かった。
彼女は腰をかがめて目を接眼レンズへ近づけ、焦点を調整することも、何かを口にすることもしなかった。
五秒ほど経って、彼女が息を吸う音が聞こえた。
軽く、短く、それから彼女は下がった。
「見えた」と彼女は言った。
彼女は自分が何を見たのかも、その光景を言葉にすることもできなかった。
下がってから、彼女は両手をダウンのポケットに入れ、すっかり暗くなったあの空を見上げた。
私も顔を上げた。
オリオン座が東の稜線から昇ってくるところだった。
ベテルギウスが左肩の位置で赤みを帯びた光を放ち、リゲルが右下で青白く安定して輝いていた。
オリオン座の帯の三つの星はほぼ等間隔に並び、一本の直線を描いて、シリウスの方角を指していた。
私は都会で何年も暮らしていた。
前世のあの年月、顔を上げて見える夜空はいつもオレンジ色だった。
街の灯りが雲に反射してできる光害が、星をすっかり覆い隠していた。
見える最も明るい数個は、たいてい木星や金星といった惑星の類で、本当の意味での星は、あのオレンジ色の幕を突き抜けられるものがほとんどなかった。
中学のときに一度、私はユーナと。
いや、前世のあの彼女と、彼女の家の屋上へ流星群を見に行く約束をした。
ニュースでは後半夜にペルセウス座流星群が極大を迎えると言っていた。
私たちは前もって天気を調べ、菓子と敷物を用意し、スマホに星座図のアプリも入れておいた。
ところがその夜は十一時から雲が出始め、午前一時には、雲が厚くなりすぎて月さえ見えなくなった。
私たちは屋上に二時間近く座り、風はとても強く、最後には彼女が私の肩に寄りかかって眠ってしまった。
流れ星は一つも見えなかった。
あのとき私が思ったのは、また今度だということだった。
今度こそ、きっと見られる。
そして今、私はこの標高三千メートルのホテルの展望デッキに立っている。
足元は凍りつくように硬くなった板で、頭上には西へ傾いた天の川があった。
天の川は北東から昇り、天頂を横切り、南東の稜線の向こうへ沈んでいた。
その中心部は乳白色で、縁は暗い筋と明るい領域が交互に重なる帯の構造に裂け、まるで誰かが綿の塊で紺色の布を何度も拭った跡のようだった。
ユーナが私の脇に立ち、同じように顔を上げていた。
彼女は長いこと眺めてから、一言口にした。
声は大きくなく、独り言のようだったが、私は聞き取った。
「屋上で見るのより、ずっといい」
「うん」私は言った。
彼女はまたしばらく黙り、それから手を伸ばして、私の指に軽く触れた。
私は避けなかった。
案内役の男性は三号望遠鏡のあたりで角度を調整しながら、残りの人々にアンドロメダ銀河を見るよう呼びかけていた。
人だかりがその方へ集まり、赤い懐中電灯の光が板の上で一度揺れ、また消えた。
私とユーナは動かなかった。
デッキの端に木製の長椅子があった。
夜風に吹かれて表面は冷たくなっていた。
私は腰を下ろし、ユーナも続いて腰を下ろした。
彼女はそれほど近寄らず、二人のあいだには拳ひとつほどの間があった。
彼女のダウンの袖が私のジャケットの袖に軽く触れ、かすかな擦れる音を立てていた。
天の川は私たちの頭上で、ゆっくりと音もなく回り続けていた。
風が雪山の方角から吹いてきて、草の斜面を過ぎ、本館の屋根を過ぎ、展望デッキの欄干を過ぎ、私たちが座るこの長椅子の下を抜けて、二人の体から少しだけ温度を奪っていった。
「こんなにたくさん」とユーナが言った。
彼女は顔を上げたまま、私を見なかった。
「うん」
「前は、本に書いてある数字は大げさなんだと思ってた。何千個、何万個って、どうしてそんなに見えるわけがない」
私は顔を横に向け、彼女を一目見た。
彼女の横顔はかすかな星明かりに縁取られ、鼻筋の線が暗がりの中で昼よりいくぶん柔らかく見えた。
彼女の睫毛は動かなかった。
「けっこうあるね」と私は言った。
彼女は手を下ろし、長椅子の木の板の上を軽く一度なぞった。
指先が木目の流れに沿って、こちら側の端からあちら側の端まで滑っていった。
それから彼女は手を戻し、自分の膝の上に置いた。
案内役の男性はあちらでアンドロメダ銀河の位置を説明していて、誰かが肉眼で見えるかと訊いていた。
彼の声は夜風に途切れ途切れになり、いくつかの言葉が風に散らされていた。
ユーナはまだ顔を上げたまま、まだ私を見なかった。
だが、雪山の方角から夜風がまた一吹きしてきたとき、彼女は風音にかき消されそうなほどのかすかな声で、一言口にした。
「今度こそ、待った甲斐があったね」
私が応じるまでに、数秒かかった。
風が私たちのあいだを抜け、あの冷たさを遠くへ運んでいった。
「うん」私は言った。
天の川は、天の上で自分自身の道を歩いていた。
何年も経ったあと、私たちはおそらくこの夜を覚えているだろう。
冷たい風を、長椅子の木の板の上を指先がなぞったあの筋を、そして頭上に広がる、どんな街の灯りにも邪魔されなかったあの夜空を。
金茂璞修雪山酒店の「星空天体観測(星空パティオ)」
このホテル(旧:アマンダリ/現:金茂璞修)は、標高3,100mの光害がほぼゼロの絶景立地を活かし、敷地内に独自の天文台(天文アストロデッキ)やプロ仕様の天体望遠鏡を備えています。宿泊客向けに夜間ガイド付きの「星空観賞アクティビティ」が毎晩開催されており、作中の描写はまさにこの体験そのものです。
暗所視を保つ「赤色ライト」
人間の目は暗闇に慣れる(暗順応)までに約20〜30分かかりますが、強い白熱光を見ると一瞬で視界がリセットされてしまいます。波長の長い「赤色光」は人間の瞳孔を開かせたまま暗順応を維持できるため、本格的な天体観測では必須のツールです。
ペルセウス座流星群と光害
毎年8月半ばに極大を迎える三大流星群の一つ。都市部では夜空が街灯やビルの明かりで明るくなる「光害」のため、どんなに晴れていても暗い星や流れ星は見えづらくなります。標高の高い山岳リゾートは、そうした光害から逃れて本物の天の川(銀河)を鑑賞できる最高のロケーションです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




