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298. 古鎮

 そのあとには、櫂(かい)が水面を掻くざぶざぶという音と、遠くの埠頭から時折届く汽笛の音だけが残っていた。


 湖風が吹き寄せてきて、かすかな花の香りをひと筋携えていた。


 それが岸辺の花田から漂ってくる本当の花香なのか、それともさっきの伝説が脳裏に残した幻覚なのか、見分けがつかない。


 ユーナが藤椅子の肘掛けから手を離し、ゆっくりと背もたれにもたれ、風に乱された一筋のピンクの髪を耳の後ろへ整えた。


 彼女は横へ顔を向けて私を一瞥し、唇を少し動かした。


 何か言いたげだったが、結局何も口にせず、ただそっと私の手を握った。


 指先には、湖風を通り過ぎたあとの微かな冷たさがあった。


 私は何も言わず、ただ応えるように彼女の手を握り返した。


 掌から伝わる温もりは、どんな言葉よりもずっと確かだった。


 湖上の風が不意に少し強くなって、画舫(がほう)の銅鈴を鳴らした。


 ちりんちりんと何度か鳴って、その静寂を少しだけ賑やかなものにした。


「よく語ってくれたわ」


 母ヘレナが突然口を開いた。


 手に持っていた豆乳の紙コップを茶卓に置き、親指でカップの縁に残った豆乳の泡をひと拭きして、ありのままの真摯さを口調に込めて言った。


「涙が湖になった、その話は美しい。魔法の理論体系の中では全く通らないけれど。涙に宿る魔力元素など到底足りぬものを」


「母上」私は思わず彼女を遮った。「そういうときに分析はやめてください」


「私が言いたいのは、その概念自体が美しいということよ」母は動じずに後半を飲み込み、再び豆乳カップを手にして続けた。「私たちにも似たような伝承はある。ただ、大方の場合、恋愛の物語に涙は必要ないの。それは文学に特有のものであって」


「悲劇だからこそ、よく憶えられるんですよ」と、船工のおじさんが一言挟んだ。


 竿を手に、よく出来た笑みを浮かべて。「円満な話もいい。でも人が覚えているのは、いつもあと一歩のものなんで」


 母は少し沈黙した。


「確かに」彼女は言った。「本当に、そうですね」


 それはごく短い間だったが、私は気づいた。


「確かに」と彼女が言う前に、その瞳が蒼海(そうかい)の深みへ落ちて、一瞬、留まっていたのを。


 何か、ずっと考えていなかったことを考えていたような。


 私は尋ねなかった。


 問う必要のないものもある。彼女がそのとき何かを考えていたと知るだけで、十分だ。


 画舫(がほう)は古鎮の石段の埠頭脇にゆっくりと着岸した。


 船体が古いタイヤを巻いた木の緩衝材に軽くぶつかり、重苦しい「どん」という音を立て、埠頭の欄干にとまっていた一列の灰鳩を驚かせて飛ばした。


 船工のおじさんが竿を銅の輪に掛け、船首から岸へ跳び上がると、母から手渡された船賃を受け取り、口を開けて青石の牌坊(はいぼう)を指した。


「姫君たち、ここが六廊(ろくろう)古鎮でござるよ。この表通りをまっすぐ行きなされ、突き当たりに観景台(かんけいだい)があってな、あそこから蒼山(そうざん)を見るのが一番正しい。通りのの中の焼き乳扇(ちちせん)の屋台は、門構えが地味でも、味は城内の大店より本場でござる」


 ユーナがいちばん先に船から飛び降り、石段に爪先がつくなり、蔦が絡まるその石牌坊(はいぼう)を見上げた。


 扁額には金漆で三つの大字が題されていて、文字は歳月に磨かれて少し滲んでいたが、筆の骨格はまだ残っていた。


 彼女は首を傾げてしばらく見ていたが、それから指を差し出して扁額を指した。


「あれに書いてあるのは『六廊(ろくろう)鎮』ですか?」


「そう」私も船を降り、湖風で少し皺になったスカートの裾を伸ばして言った。「この三字は、明の王朝のひとりの進士(しんし)が題したもので、今から六百年ほどになるのよ。あの『廊』の字の最後の一筆、筆をおさめるときに小さな鉤があるでしょ。あの進士(しんし)が昔稽古したのは、顔体(がんたい)という書体なの」


 ヘレナが後ろから上がってきた。


 手にはまだ飲み干さぬ豆乳の紙コップを提げている。


 彼女は私の扁額の読み解きを聞くと、片方の眉を上げ、珍しい種を研究するような眼差しで私を上下に一瞥した。


「娘よ、どうしてそんなことを知っているの?あなたも初めてここに来たんでしょう」


「出発前にネットで少し調べたの、そこに書いてあったのよ」


 ヘレナは「ふん」と一声漏らし、深く詮索する気もなさそうに、豆乳カップを埠頭脇のゴミ箱へ放り込み、手をぱんぱんと叩いて石段へ上がっていった。


 表通りは長くなく、目測で四五百メートルといったところだ。


 両側はすべて白(ぺー)族風の古い家で、三坊一照壁(さんぼういっしょうへき)という伝統的な配置がよく保たれ、青瓦白壁(せいがはくへき)が真昼の陽光の中で眩しいほどに清らかだ。


 壁面は新しく塗ったような冷たい白ではなく、歳月の酸化を帯びた暖かな灰色がかっていて、壁脚には茂ったエノコロ草と名も知らぬ紫色の野花が生えている。


 各家の門の前には細い用水路が一本ずつ走り、蒼海(そうかい)の湖水を引き込んで、石積みの水路に沿って街頭から街尾まで流れ、ざあざあという水音が初めから終わりまで鳴り響いていた。


 この用水路は実に浅く、せいぜい三四十センチ、幅も両足を並べたほどしかない。


 しかしそれは活水で、流れの速さのおかげで渠底に薄い緑の細かな水草が一層生え、水草が流れの向きにそよそよと揺れ、ときおり一匹二匹の透明な小魚が水草のあいだを縫うように泳ぎ、その速さはまるでひと筋の光のようだった。


 通りの果てまで歩いても、この用水路はずっと左側に付き従い、ざあざあという音は六廊(ろくろう)の表通り特有の背景音となって、観光客の話し声や街辺の屋台の呼び売りを覆い、賑わいの中にも古鎮特有の底の静けさを保っていた。


 ユーナが銀器店の扉脇の階段に屈み込み、用水路の中を飛ぶように泳ぐ透明な小魚を長いこと見つめていた。


 ピンクの髪の先が肩から滑り落ち、危うく水に垂れそうになる。


 店主は白(ぺー)族の絞り染めの前掛けを着た老阿嬤(あま)で、カウンターの後ろから顔を出し、目尻の皺を一団に寄せて笑いながら、白(ぺー)族訛りの共通語で彼女を店へ招いた。


「お嬢さん、何がお好き?これらは皆わたしが打ったのよ、純銀でござる。この腕輪を見なされ、模様は蒼山(そうざん)の躑躅(つつじ)の姿を写して作ったのじゃ」


 ユーナが顔を上げたとき、目に留めていたその透明な小魚はとっくに流れに乗って滑り去っていた。


 彼女は店に入り、銀飾りが掛かった木の棚の前を一周して、最後に一つの腕輪を取り上げてじっくり眺めた。


 その腕輪の開口部には二つのターコイズが嵌められ、丸く磨き上げられて光っていて、まるで小さな湖水のかけらを銀枠の中に凝固させたようだった。


 腕輪の紋様は浮き彫りで、相対する二羽の燕が翼を広げた輪郭がちょうど対称の弧を形作り、腕輪そのもののカーブと完璧に一致していた。


「これ、本当にきれい……」


 彼女は腕輪を陽光にかざした。


 ターコイズが光の中で透明な青緑へと変わり、窓の外の蒼海(そうかい)の色と遠く呼応していた。


「気に入ったら買えばいいわ」私は腰の小袋から赤い紙幣を二枚抜き出し、老阿嬤(あま)へ手渡した。「おばあさん、これにします」


 老阿嬤(あま)がお金を受け取ると、目を細めて紙幣の水印を確かめ、カウンターの下の鉄箱から小銭を幾枚か掘り出して私へ渡し、それから小さな赤い天鵝絨(ビロード)の布で腕輪を包み、ユーナの手に押し込んだ。


 ユーナがその布包みを胸に当て、振り返って私を見たとき、眉尻も目尻も隠しきれぬ喜びに満ちていた。


 彼女は頭を垂れて布を開き、腕輪を手首に通し、朝日のなかで回して幾つかの角度を見てから、満足げに布を畳んでポケットへしまった。


「ありがとう」彼女は小さな声で言った。普段よりひと声小さく。「クロティア」


「気に入ったならよかった」私は言った。「行くよ、後ろにもまだあるから」


 彼女は私について銀器店を出たが、二歩歩いてから不意に振り返り、店内の老阿嬤(あま)へ向けて、白(ぺー)族訛りを真似て「ありがとう」と一言口にした。


 老阿嬤(あま)がぽかんとし、それから顔を綻ばせて、彼女へ手を振った。


 私が横目でユーナを見る。


「いつ白(ぺー)族の言葉を覚えたの?」


「さっきおじさんが船で歌ってたあの歌のとき、ついでに聞いたの」彼女はもっともな顔で言った。「一句だけだもの、難しくないわ」


 これがユーナだ。


 私は心の中で小さく笑い、その小さな驚きを胸に収めて、表通りの奥へ歩みを進めた。

1. 蒼山洱海と「風花雪月(ふうかせつげつ)」

物語の舞台となっている「風花城」と「蒼海」は、中国雲南省大理(だいり)の絶景「蒼山洱海(そうざんじかい)」がモデルになっています。大理の魅力を表す言葉として「風花雪月」という有名な四字熟語があります。


下関の風(かかんのかぜ): 大理の南側にある「下関」は風口(風の通り道)にあたり、一年中強い風が吹き抜けます(作中で「帽子が飛ぶほどの風」と表現されている本物の風です)。


上関の花(じょうかんのはな): 北側の「上関」は気候が温暖で、広大な花畑があり、四季折々の花が咲き誇ります。


蒼山の雪(そうざんのゆき): 標高3,500mを超える蒼山の山頂には、夏でも雪が残り、緑の山肌との美しい対比(雪線)を作り出します。


蒼海の月(そうかいのつき): 澄みきった巨大な湖(洱海)の水面に浮かぶ満月は、古くから多くの詩人に愛されてきました。


2. 花母娘娘(かぼにゃんにゃん)の伝説と民間伝承

船工が語った「阿蒼(あそう)と花母娘娘」の物語は、中国の伝統的な「仙凡恋(天上の仙女と人間の恋)」という物語の型(パターン)に基づいています。


悲劇の美学: 中国の民話(『牛郎織女』や『孟姜女』など)では、天の掟によって引き裂かれた二人が「化石」や「涙の湖」となり、年に一度だけ(中秋の夜など)再会できる……という悲恋が多く見られます。「完璧なハッピーエンドよりも、切ない未完の美の方が人々の記憶に長く残る」という船工の言葉は、中国文学の美学そのものです。


3. 白(ぺー)族の伝統建築と書体芸術

三坊一照壁(さんぼういっしょうへき): 白(ぺー)族の伝統的な住宅様式。「三方の建物(母屋と脇屋)」と「一枚の白い照壁(目隠し壁)」で中庭を囲みます。照壁は光を反射して敷地内を明るくする役割も果たします。


青瓦白壁(せいがはくへき): 白を貴ぶ白族は、壁を真っ白に塗り、青灰色の瓦を載せます。水墨画や詩が描かれることも多く、風景に美しく溶け込みます。


進士(しんし): 古代中国の科挙(官吏登用試験)における最高峰の合格者。優秀な政治家であると同時に、優れた文人・書道家でもありました。


顔体(がんたい): 唐代の大書家・顔真卿(がんしんけい)が創始した書体。力強く重厚な骨格と、力強い筆の払い(作中にある「廊」の字の最後の鉤など)が特徴です。


4. 民族文化と特産品

白(ぺー)族: 大理を中心に暮らす少数民族。白い衣装や刺繍入りの帽子を好み、藍染め(絞り染め)などの高度な手工芸技術を持っています。


阿嬤(あま): 中国南部や雲南省などで、おばあさんや年配の女性へ親しみを込めて呼ぶ言葉です。


焼き乳扇(ちちせん): 牛乳を薄いシート状に伸ばして乾かした、白族の伝統的なチーズ(乳製品)。竹串に巻きつけて炭火で炙り、バラのジャムなどを塗って食べる大理名物です。


ターコイズ(緑松石)と銀飾: 白族の手工芸品である銀細工には、よくターコイズ(トルコ石)が嵌め込まれます。その青緑色の輝きは、古くから蒼海の水面を象徴するものとして愛されてきました。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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