297. 蒼海伝説
車は湖畔の道をゆっくりと十分ほど走り、にぎやかな埠頭の前で停まった。
首を出して見やると、埠頭の脇には大小十数隻の船が停まっていて、現代風のヨットもあれば、古めかしい木造の画舫もある。
朝の光が湖面に差し、砕けた金のような光点が波に揺れ、埠頭の旗が湖風にはためいてぱたぱたと鳴っていた。
ここでの風は、ホテルのバルコニーで感じたものよりも、ずっと強い。
風花城はやはり名が表す通りで、あの「風」という字は本物の風であり、人の帽子を飛ばしてしまうような風なのだ。
「着いたよ」運転手のおじさんが穏やかに車を止め、振り返って一言言った。
横の扉を押し開けて車から降りると、足元は青石畳の埠頭で、踏むと歳月に磨かれた滑らかな感触が伝わってきた。
朝風はさっきよりも少し強く、長いワンピースの裾を軽く揺らしたので、私は思わず裾の端を押さえ、もう一方の手で風に乱された髪を覆った。
「わあ……」
ユーナが私の直後に車から飛び降りた。
目の前の広々とした湖面と、岸辺に立ち並ぶ船を見るなり、思わず驚きの声を漏らし、瞳の中に星の光を揺らした。
「こんなのが、蒼海なんだ……昨夜ホテルのバルコニーから見たより、もっと……」
ユーナの言葉が終わらぬうちに、不意に吹いてきた湖風に遮られた。
風はなかなかの強さで、彼女の額のピンクの髪を巻き上げたので、彼女は慌てて手で髪を耳の後ろへ整えたが、顔には相変わらず興奮した笑みが溢れていた。
私は彼女のその弾んでいる様子を見て、思わず口元を緩めた。
ユーナが叻沙城で見見たのは熱帯の水、あの広くて浅い、泥沙色の蒼南江だ。
だが蒼海と蒼南江は、まるっきり別のものである。
蒼海の水は青緑で、深くて透き通り、湖面が光を反射する仕方も違う。
川のように光に打たれて浅く白くなるのではなく、空も山影も風の色も全部呑み込んだうえで混ぜ合わせて生まれた、ここだけの複雑な色なのだ。
彼女が「わあ」と言うのも無理はない。
「行こう、船がもうすぐ出るわ」
母ヘレナがいつしか私たちの傍に来ていた。
彼女は今日も軽い白いロングワンピースに、薄い青磁色のショールを羽織り、海藻のように濃い深緑の長い髪をゆるく一本の横編みにして肩にかけている。
全体としては実年齢よりずっと若く見え、二十歳そこそこだと信じる人もいるだろう。
だがその瞳の中に静かに沈んでいるものは、二十歳そこそことも全く別の次元のものだった。
母ヘレナの目は、こんな悠々とした場でもなお、ごくわずかな、いつでも周囲を掃いているような鋭さを帯びていた。
それは冒険者としての日々が彼女に刻み、どうしても消し去れなかったものなのだ。
私たちは木造の画舫に乗り込んだ。
船体は高くなく、中央は開け放たれた展望台になっている。
両側には藤編みの丸椅子が幾つかと、低い脚の茶卓が一つ置かれ、茶卓の上には使い込んだ銅の急須があって、注ぎ口が蒼海のほうを向いていた。
船の客は多くなく、私たち三人のほかには、船首に座る老夫婦が一組いるだけで、二人はそれぞれ熱い茶を一杯ずつ手にして、静かに朝の光を楽しんでいた。
その二人の老人は、おそらく地元の人か、風花城に長く滞在している人で、顔にはすっかり落ち着いた人にしかない平静があり、私たちのような通り一遍の観光客の興奮とは全く違っていた。
船工は日焼けした白族のおじさんだった。
白い円錐形の布帽子を被っていて、風花城あたりの白族の男たちはときどきこういう帽子をかぶる。
帽子には細かな青い花模様が一圈刺繍されていて、色は日差しで少し褪せていた。
だが模様はまだ残っていて、昔の刺繍がとても細かかったのが分かる。
おじさんの手は大きく、大きすぎて画舫の竿一本を片手で掴めるほどで、肌は竿の竹の節のように、歳月に均等に褐色に磨かれていた。
おじさんが竿をもう一節水の中へ送ると、船体はゆっくりと埠頭を離れ、湖心へと漕ぎ出していった。
朝の光が水面に差し、きらきらと画舫の木の軒に映って、砕けた金のような光影を揺らした。
彼は咳払いをひとつして、声の中に講談師めいた調子を幾分込めた。
「この蒼海の不思議を申すにはね、やはり我が風花城のご先祖から伝わる一つの物語から始めねばなりません。皆さん姫君たち、一つお聞きになったことはありますかい。花母娘娘の伝説を」
「昔を申せば……」
船工のおじさんは一拍置き、竿を船尾の水面に軽く一点させると、画舫は悠々と湖心の開けた水域へ漕ぎ入っていった。
「蒼海はな、もとより今のような姿ではなかったのでございます」
朝の光が雲の隙間から漏れ落ち、湖面を淡い橘金色に染めていた。
遠く蒼山の雪線が靄の中にかすかに見え隠れし、山脚から何筋かの炊煙が立ち上がっては、すぐに湖風に吹き散らされた。
画舫の木の軒には色褪せた銅の鈴が一串下がっていて、船体が微かに揺れるとちりんちりんと幾つか鳴り、音は大きくないが、ちょうど櫂が水に入る音を覆うほどだった。
「ずっとずっと昔、風花城というこの土地は、からからに干からびた盆地で、まともな川一本ありませんでした」
おじさんは手を伸ばして比べてみせた。
粗い掌を上に向け、見えない土地を一つ托しているようだった。
「庶民が畑を作るのも、皆お天道様が雨を降らせる頼みでした。旱年に当たれば、口にする水さえままならぬ有様でした」
ユーナの体がわずかに前へ傾き、藤椅子の肘掛けに浅い二筋の圧痕を刻み込んだ。
彼女は口を挟まなかったが、そのピンクの瞳は瞬きもせず船工のおじさんを凝視し、船首から灰白い水鳥が一羽舷に落ちてきたことさえ気づかぬほどだった。
母ヘレナは豆乳の紙コップを手にして、ユーナよりは緩い姿勢だったが、やはりその瞳も真剣に見えていた。
ただ彼女はもっと深く隠していて、何でもないように湖面を見ているように見えて、実は一言一句が皆の耳に入っていた。
私は何も言わず、ただ藤椅子の中に凭れ、蒼海の水を見ながら船工の語る話を聞いていた。
「そのころ、蒼山の東の山脚に、阿蒼という若者が住んでおりました。
阿蒼という小僧、他に取り柄はないが、ただ心が優しくてな。
誰ぞの水甕が底をつけば、三つの山を越えてでも一桶の水を背負って帰ってきてやるような男でした」
おじさんはそう言いながら、竿で水面に漂ってきた一叢の水草を掻き分け、語りを続けた。
「ある日のこと、山で水を探していたとき、怪我をした一頭の白鹿に出くわしたのでございます。
その鹿の後ろ脚は狩人の鉄の罠に挟まれて千切れそうになり、地面に倒れて血の海を作り、もう助からぬ様子でした。
阿蒼は心を痛め、自分が半日も苦労して背負ってきたその桶の水をすっかり白鹿に飲ませ、さらに自分の衣の裾を破ってその千切れた脚を包帯にし、山洞で七日七晩も背負って育てたのでございます」
「その白鹿というのは、どういう来歴なのです?」
ユーナはとうとう堪えきれず、声をとても低くして、何か壊れやすいものを割りそうな語調で尋ねた。
船工のおじさんは口を開けて笑い、煙に燻されて黄ばんだ歯を見せた。
「姫君、的を射ておる。その白鹿、別にただの山獣ではござらぬ。
それこそ花母娘娘が化けた姿にほかなりません。
花母娘娘は天上の百花仙女で、暇に任せて凡界へ遊びに下り、わざと白鹿に化けて人心を試したのでした。
彼女は阿蒼という小僧が心善いと見るや、凡心を動かし、原身を現して彼と夫婦になったのでござる」
母ヘレナはここまで聞いて、豆乳の紙コップを手にしたまま動きを止め、深緑の長い編み髪が風に軽く揺れた。
彼女は横へ顔を向けて私を一瞥し、眉をひそめた。
その表情は分明に、この話はあなたが以前私に話したあの紅龍国の民間伝承とどうして同じ型なのかと言っている。
私は仕方なく肩をすくめ、彼女へ「まだ聞いていれば分かりますよ」という眼差しを返すしかなかった。
実のところ、こういう話は母の世界にだって似たような類型がないわけではない。
精霊族と自然の関係は昔から親しく、精霊が自然の生き物に姿を変える伝説は数えきれぬほどある。
ただ結末が少し違うのだ。
精霊の伝説は、めでたしめでたし、あるいはせめて自然な完結へと傾きがちである。
しかしこの花母娘娘の物語は、明らかに違う方向へ向かっている。
「されど天上の掟、仙女は凡人と夫婦になってはならぬと」
おじさんはため息をつき、竿で舷をこつんと叩き、この言葉に幾分重みを添えるようにした。
「玉帝がこのことを知ると大いに怒り、天兵天将を遣わして花母娘娘を天上へ連れ戻させたのでござる。
阿蒼はその天兵どもを三日三晩も追い続け、蒼山の頂まで追い詰めたが、もう動けず、雪の中に跪いて泣き、涙が涸れるまで泣いたあげく、ついにはそのまま一塊の石と化してしまったのでござる」
画舫は垂柳の影が差す浅瀬を過ぎ、柳の枝が風にさらさらと鳴った。
あの灰白い水鳥がとうとう舷から飛び立ち、翼をぱたぱたと幾つか叩き、水面に丸い波紋を一つ驚かせていった。
「花母娘娘は天上の牢に繋がれ、雲の隙間から阿蒼が石と化した姿を見て、心が砕けそうになりました。
彼女の涙は一滴ずつ天上の雲の隙間から落ち、一滴ごとに一つの泉を生みました。
千万の涙がまるまる七日七晩も流れ、泉水は湖となり、湖水は盆地を呑み、蒼山の山脚まで満ちていったのでござる。
後には、涙が泉となった場所に人々が一片ずつ花畑を植え、花はますます多くなって、湖の畔に敷き詰めるように咲き乱れ、風が吹けば花弁が空いっぱいに舞ったのでござる」
おじさんは遠く岸辺にかすかに見える五彩の畑の畝を指した。
「ほら、あっちを見なされ。今でもあの方角に花田がござるよ。
あと二ヶ月もすればもっと咲き誇り、城全体が花の香りに包まれます。
だからこの土地を風花城と申すのだ。
『下関の風、上関の花、蒼山の雪、蒼海の月』、これこそこの四つを申すのでござる」
「では花母娘娘は、その後は?もう二度と阿蒼と一緒になれなかったのですか?」
ユーナが追いすがって尋ねた。声はさっきより幾分高くなっている。
藤椅子の肘掛けを掴む指の関節がかすかに白くなっていた。
おじさんは首を振り、竿を船尾の銅の輪に収め、画舫が微風に任せてゆっくりと漂うのを任せた。
「なりませぬ。
彼女はずっと天上から、阿蒼の化したあの石を見守っております。
毎日雲の隙間から、この湖を眺めております。
古い人々の伝えでは、心を込めて願いをかければ、花母娘娘が天上でそれを聞き、花の香りを帯びた一陣の風を降らせ、願いをかけた人の悩みを連れ去ってくれるそうでござる。
また、毎年中秋の夜、月がいちばん丸く、いちばん明るいとき、蒼海の湖面に二人の影が映るという者もおります。
一人は阿蒼、もう一人は花母娘娘。
彼らはついにまた一緒になったのでござる。
年に一度だけのことですが」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




