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296. 蒼海

 目が覚めると、母ヘレナはとっくに起きていた。


 今の彼女は、部屋付きのバルコニーに立って、遠くの蒼海(そうかい)を眺めている。


 白い軽いロングワンピースに、薄い青磁色のショールを羽織っている。


 黄金色の長い髪は気ままに一本の横編みにされて肩に垂れ、バルコニーの朝風に何筋かの細い髪がふわりと持ち上がった。


 もし彼女が二十一世紀のホテルのバルコニーに立っていなかったなら、どこかの古典画から抜け出してきた人物のように見えただろう。


 その輪郭も気質も、そもそもこの時代のものではない。


 蒼海(そうかい)は、見渡す限りの広がりを持っている。


 ホテルの上の階から遠くを見やっても、湖面の一片しか見えない。


 だがその一片だけで、この湖の規模が十分に伝わってくる。


 湖水は、とても深い青緑だった。


 熱帯の海のような、浅く透き通った青ではない。


 高所の山影と空が一緒に混ざり合って作り出したような、そんな色だ。


 落ち着いていて、重厚で、叻沙(ラクサ)城とはまるで違う、抑制の効いた美しさを帯びている。


 だからこそ、風花(ふうか)城という街全体が、蒼海(そうかい)と呼ばれるこの巨大な湖を囲むようにして築かれている。


 風花(ふうか)城は四方を山に囲まれ、ただその中央にだけ、巨大な湖と小さな盆地がある。


 この湖をめぐって、この土地は数多くの輝かしい歴史を生んできたという。


 西詔(せいしょう)国も、風花(ふうか)国も、どの王朝も都をこの盆地に置き、蒼山(そうざん)と蒼海(そうかい)を王城の左右の守りとしてきた。


 今の風花(ふうか)城の古城は、かつてここにあった歴史を証言する街である。


 古い城壁も、白(ぺー)族の民家の白い壁と青い瓦も、観光地として整えられながらも、細部にまだ歴史の温度を触れさせてくれる通りも、皆、その長い歳月から少しずつ堆積してきたものだ。


 私は母の傍らに立ち、同じように湖を見た。


「昨夜はよく見てなかったけど、今朝になって気づいたの」


 母は振り返らず、ただ静かに言った。


「この湖、エリクソン領のなかの湖を全部合わせたより、大きいわ」


「ええ」と私は言った。


「彩雲(さいうん)行省には大きな湖がいくつもあるけど、蒼海(そうかい)はそのなかで一番名高いものよ」


「湖のほうから雪山は見えるの?」


「蒼山(そうざん)には雪があるけど、雪山というほどのものではないわ」と私は言った。


「本格的な大雪山を見るなら、雪月(せつげつ)城まで行かないと」


 母はうなずき、それ以上は何も言わず、遠くの湖面を眺め続けた。


 風がバルコニーから入ってきて、高原の朝の冷たさと、かすかな水気を帯びていた。


 叻沙(ラクサ)城のような湿った熱のもやもやではなく、清らかで高原の気配を含んだ涼しさが、肌に沿って滑っていき、誰かが冷水で絞った布巾で軽く拭ってくれたような、とても気持ちのいいものだった。


 母ヘレナは上着を羽織っていなかったが、そんな朝風のなかでいつまでも立っていても、姿勢は落ち着いたままで、寒がる気配は少しもなかった。


 長生種の体温調節能力なら、おそらく服に頼らなくても済むのだろう。


 私たちが目覚めたのを見て、母は手環からビニール袋に入ったパンと饅頭(まんじゅう)、豆乳とコーヒーを幾つか取り出し、バルコニーの小さな茶卓に並べた。


 どうやら近くの店で買ってきたらしい。


「娘よ、見て。私、もうこの世界の通貨で朝飯が買えるようになったのよ。しかもあんたがくれた翻訳魔導器は使ってないの。すごいでしょ」


 そのとき目の前の母は、子供を持つ親というより、ひとつのことを覚えて私に自慢する友人のように見えた。


 私は首を振り、脳裏に浮かんだ失礼な光景を振り払った。


 たぶん精霊は百を超える年齢でも十八歳の面影を保ち、決して老いることがないから、いつでもただの十代後半のようにしか見えないのだろう。


 しかしその裏には、とても本当らしいものがある。


 精霊族の誇りは、年齢を分け隔てしない。


 ひとつのことを覚えること、それが山脈全体を魔法で割くことであれ、風花(ふうか)城の朝七時にまだ開いている包子(パオズ)店をひとりで見つけることであれ、喜ぶに値するのだ。


「さすがは私の母、学習能力が本当に強いな」


 この褒め言葉に嘘はなかった。


 なにしろ彼女がこの世界に来て半月ほど、紅龍国で暮らすようになってからは一週間にも満たない。


 それなのに今、いかなる補助も借りずに、紅龍国の現地の商人の手から朝食を買ってこれるのだ。


 この言語学習の能力と、学び続ける根気は、確かに感心させられる。


 なにしろ前世の私は、学校で青龍語を学んでいたころ、よく分からなくなって授業の声にゆっくりと眠りに落ちていた。


 あのとき三年かかって、満点百の期末試験で四十数点しか取れなかった。


 ところが目の前のこの世の母は、専門の語学教師に頼らずに、たった一週間で基礎の紅龍語を身につけてしまった。


 心底からの敬意を抱かずにはいられない。


 もっとも、彼女は数百年生きた精霊なのだから、見てきた言語は百を下らないだろう。


 その前提での学習速度には、やはり歴史の蓄積が込められているのだろう。


 だが、少し調子に乗りすぎたようだ。


「ふふん」


 そのとき母は「私って本当にすごいでしょ」という顔つきをしていた。


 もし尻尾があれば、とっくに天高く突き上げていたに違いない。


「母上、わざわざお話しできる店主さんを見つけていったんですか?」


 ユーナが寝室から出てきて、バルコニーの茶卓の上の朝食を見つけると、優しく驚かされたような笑みを浮かべた。


「それとも、どこの店でも平気で入って話せるようになったんですか?」


「どこの店でもよ」母はユーナに豆乳の紙コップを手渡した。


「言葉っていうものは、口を開かなきゃ永遠にでも覚えられないのよ。ハーランド語を学んでいたときもそうだったわ。エドアルド教授が言ってた、たとえ間違えていても、通じなくても、相手に何を聞いてるか分かってもらえれば、それで勝ちなんだって」


「エドアルド教授のその言葉は」私は母から渡された豆乳を受け取って言った。


「なかなかもっともですね」


「あの人が言うことは十句中七句はもっともよ」母は自分のコーヒーカップを持ち上げた。


「残り三句は無駄話だけど、無駄話もまたよく聞こえるのよ」


 ユーナが口元を押さえて笑った。


 私たちはそれ以上何も言わなかった。


 どうせ外に景色を見に行くのが本分なのだから。


 そうでなければ、風花(ふうか)城に来たかいがない。


 私たちは手元の、母から受け取った朝食をいちばん早いペースで腹に収め、簡単に身づくろいをしてから、母と一緒に外へ出て、今日予約した最初の見所へと向かった。


 遊覧船だ。


 入り口には灰色の車が停まっていた。


 それは昨日私がプラットフォームを通して専属にした車で、今日は丸八時間私たちに付いてくれる。


 運転手は四十がらみの男で、日よけ帽子を被り、顎の周りに短い無精髭を生やし、目尻に幾筋かの笑い皺を刻んでいた。


 彼は車窓を半分下ろし、私たちがホテルの門を出てくるのを見ると、日よけ帽子を少し上へ押し上げて、軽くうなずいた。


「おじさん、まずは風花(ふうか)埠頭までお願いします。それから少し休んでもらっていいので、二時間後に六廊(ろくろう)古鎮で会いましょう」


「よし」おじさんは必要のない言葉を余計に挟まず、私の頼みを素直に引き受けて、車窓を元の位置へ戻した。


 すぐに車は、今日私たちの泊まるホテルを離れた。


 車は湖岸の道を穏やかに走っていった。


 私はシートにもたれ、窓越しに蒼海(そうかい)のきらきらとした水面を目で追った。


 朝の光はまだ淡く、遠くの蒼山(そうざん)の山並みに柔らかな薄金色をまとわせていた。


 蒼山(そうざん)の頂には、かすかに一本の細い白い線が見えた。


 それは雪線だ。この季節は雪がまだ解けていない。


 山脚から見上げると、山体が標高のどこかで突然、深い緑から灰白色へと移り、誰かが大きな刷毛で半分だけ塗って、ここまで塗ったら手を止めたようだった。


 湖面には時折何羽かの水鳥がかすり、翼が静かな水面を切って、波紋を一つずつ広げていった。


 鳥たちの動きは実に優雅で、低くかすめ、翼端が水面をほとんどこすりながら、それから急に舞い上がり、水面に一本の細長い白い線を連れ去っていった。


「ここ、本当に景色がいいのね……」ユーナが小さな声で言った。


 彼女の頭も寄ってきて、私と並んで窓の外を眺めた。


 ピンクの髪が私の頬に触れ、ほのかなシャンプーの香りを帯びていた。


 私はうなずき、それ以上何も言わず、ただこの静けさを黙って味わった。


「クロティア」


「うん」


「気づいた?」ユーナは顔を私へ向け、声をとても低くして、まるで内緒話をするように言った。


「この数日、あなたがぼうっとする回数、普段よりずっと増えてる」


 私は考えた。


「景色が良すぎるのよ」と私は言った。


「いったい何を考えていいか、一瞬分からなくなるの」


 彼女はしばらく私を見ていたが、それからふっと笑って、もう一度頭を私の肩に戻し、何も言わなくなった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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