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292. 過橋米線

 ホテルは彩雲(さいうん)城の旧市街の近くにあって、歩いてすぐに有名な古い通りに出られた。


 フロントの若い男性は口数こそ少ないものの、とても細やかな気づかいができる人で、チェックインのときに彩雲(さいうん)城の観光パンフレットをさりげなく渡してくれ、ペンでいくつかの場所に丸をつけて説明してくれた。


「こちらは金殿(きんでん)、彩雲(さいうん)城で一番有名な道教の建物で、すべて銅で作られています。午前中に行くのがおすすめです、人が少ないですから。こちらは翠湖(すいこ)、旧市街のすぐそばで、散歩にいいですよ。それから斗南(となん)花市。もし明日早く起きられるなら、明け方が花卉卸しの一番にぎわう時間なので、見ていかれるといいでしょう」


 彼はそう言いながら、丸をつけた場所をひとつずつ読み上げてくれた。


「斗南(となん)花市?」私はパンフレットを受け取り、丸をつけられた位置を眺めた。


「そうです。彩雲(さいうん)城は紅龍国全体で一番大きな生花の集散地で、毎日ここから各都市へ花が送り出されています。午前四時すぎから花が並び始めるので、早起きをいとわないのでしたら、見ていくのも面白いですよ」


 私は振り返ってユーナと母を見た。


 母の表情はとても穏やかだった。


 ユーナのほうは遠慮なく眉をひそめていた。


「四時……」


「行くかどうかは明日決めましょう」私はとりなすように言った。


「一番早い回に行かなくてもいいんですから」


 カードキーを受け取って、私たちはエレベーターで上の階へ向かった。


 ドアが閉まる瞬間、母がふいに口を開いた。


「娘よ、あの金殿(きんでん)はな。全部銅で作られていると言っていたではないか。ということは、当時の工芸はかなり優れていたはずだ」


「ええ、数百年の歴史があります」


「数百年」母は思わせぶりに繰り返した。


「ハーランド帝国なら、数百年前のものは戦乱のたびにほとんどが失われている。残っているのはもっぱら貴族の領地の城で、一般人が建てた建物は基本的になにもない」


「ここは違います」と私は言った。


「ここにも戦乱はありましたが、ずっと誰かが修繕し、ずっと誰かが残してきたのです」


「そう」母は穏やかな口調で言った。


「これは、この世界とあちらとで違うところだ。ここの者たちは、物を残す」


 エレベーターが着き、ドアがゆっくりと開いた。


 廊下の突き当たりの窓から、彩雲(さいうん)城の夕暮れの最後の光が差し込んでいて、橙赤く、やわらかかった。


 ユーナが私のそばを歩きながら、小声で言った。


「ヘレナ様のさっきの言葉、ちょっと……ちょっと、胸に来るものがありました」


「わかってる」私はかすかに答えた。


「彼女は悪気があって言ったんじゃない、ただの事実なんだから」


「悪気がないってことは知っています」ユーナは言って、一瞬だけ間を置いた。


「だからこそ、余計に胸に来るんです」


 私はそれ以上何も言わなかった。


 部屋のドアを押し開けると、彩雲(さいうん)城の黄昏の光がカーテンの隙間から差し込んで、カーペットの上に静かなオレンジ色の一片を落としていた。


 夕食は、旧市街の古い通りをぶらぶら歩いて、食事処を探すことにした。


 彩雲(さいうん)城の旧市街と叻沙(ラクサ)城の古い通りは、まるで違う気質を持っている。


 叻沙(ラクサ)城の古い通りは、年数が経って少し古びてはいるものの、まだちゃんと機能している日常の通りだった。


 一方で彩雲(さいうん)城の旧市街は手入れが行き届いていて、道はきれいに整い、工芸品の店や地元の特色ある食堂がいくつも並び、軒の看板はほとんどが手書きで、わざと残したような古めかしい趣きがあった。


 路傍には丸い樹冠をした大きな桜に似た樹が何本かあって、この季節はもう花期を過ぎていたが、枝振りが大きく、この辺りの通りをひときわ涼しく覆っていた。


 私たちは、地元の料理の写真を店先に掲げた小さな食堂の前で足を止めた。


 看板にはいくつかの料理名が書かれていた。汽鍋鶏、過橋米線、焼き豆腐……。


 最初の二つは、彩雲(さいうん)城で最も名高い料理だった。


 前世の私は、ネットで何度も「彩雲(さいうん)城に来たら過橋米線を食べるべき」という攻略を読んだし、同じだけ「彩雲(さいうん)城の過橋米線は過度に商業化されているから、観光地の近くでは食べるな」という忠告も読んだ。


 この店は旧市街の横道にあって、客引きの店員が入口に立っていない。どうやら観光客を狙い撃ちにするような店ではなさそうだった。


「ここにしましょう」と私は言った。


「彩雲(さいうん)城の過橋米線を試してみるの」


 母はメニューを見て、うなずいた。


「汽鍋鶏というのは、なんですか?」彼女は尋ねた。


「特製の陶器の鍋で蒸した鶏のスープです」と私は説明した。


「水を足さずに、蒸気で鶏自身の出汁を絞り出すので、スープにとても旨味があります」


「それも一つ頼みなさい」彼女は言った。


「蒸気で煮る料理には、私、興味があります」


 私たちは中に入り、奥まったテーブルを見つけて腰を下ろした。


 過橋米線が運ばれてきたとき、その出てくる品数の多さに、私たちはちょっと驚いた。


 大きな土鍋のスープ壺がまず来て、湯面には鶏油が一枚浮き、黄金色でつややか、熱気が十分な感じがするのに、不思議と、湯面からははっきりとした湯気が立っていなかった。


 これが過橋米線の特徴で、油が熱を封じ込めていて、見た目は熱くなさそうでも、実際の温度は極めて高いのだ。


 それから一皿ずつ、順に取り皿が運ばれてきた。薄切りの生の豚肉、うずらの卵、湯葉、にら、米線……。


「順番に入れてください」と店員がテーブル脇に立って、簡潔に言った。


「先に肉、次に野菜、最後に米線。そうでないと火が通りません」


「先に肉?」母はあの皿の生の豚肉を見つめ、目元に一抹の警戒を浮かべた。


「この肉は生ですね」


「ええ、スープで火を通すんです」と私は言った。


「だから過橋米線と言うんですよ。具材を一つずつ、あの熱いスープの中へ渡していくんです」


 母は黙ってその油で封じられた熱いスープを見、再びあの紙のように薄い生肉の皿を見た。


 それから、新しい物を真剣に研究するような面持ちで、一片の生肉を箸で挟み、あの一見穏やかな熱いスープの中へ入れた。


 肉片が熱い油に触れた瞬間、鮮やかな赤から白へと色が変わり、丸ごと縮んで丸まった。


「おお」母は言った。


 その口調には、納得させられたような穏やかさがあった。


「確かに火は通ったようですね」


「ええ」私は言った。


「それに、とても早い」


 私たちは順番通りに、取り皿を一つずつあの熱いスープへ押し込み、最後に米線を一束まるごと入れて、かき回して、スープに米線をしっかり吸わせた。


 スープ茶碗を手に取り、最初の一口を飲んだ。


 それは、骨スープ特有の旨味だった。


 濃くもなく、くどくもなく、鶏油の香りを帯びて、あっさりとしていながら深みがあり、昼の叻沙(ラクサ)城の勐海米粉と比べれば、まったく違う路線だった。


 勐海米粉の苦く酸っぱい味は攻撃的な味だったが、この一碗のスープは柔らかく、包み込むような味で、飲み下したあと、喉から胃のあたりまでじんわりと温まった。


「これは」母が一口スープを飲んで、一秒だけ間を置いてから言った。


「昨日食べたものすべてより、おいしい」


「ええ」私は言った。


「これこそが、彩雲(さいうん)行省が本当に出せる味覚覚です」


 ユーナは湯通しした湯葉を一椀に挟み入れ、噛みしめてうなずいた。


「叻沙(ラクサ)城で踏んだ地雷は、前置きだったってことね」


「ええ、前置きとしては十分すぎるくらいでした」と私は言った。


「だからこそ、この米線が格別においしく感じるんです」


 汽鍋鶏も運ばれてきた。


 あの陶器の鍋は小さかったが、蓋を開けると、スープの香りがたちまちあたりに広がった。


 普通の鶏スープよりも濃く、言いようのない山野の気配を帯びていて、松茸といっしょに蒸してあった。


 母は一口スープを飲んで、しばらく黙った。


 それから、あの陶器の鍋を自分のほうへ少し引き寄せ、何も言わず、うつむいたままスープを飲み続けた。


 この仕草の意味は、私たちにもよくわかった。


 今日は、彩雲(さいうん)城の勝ちだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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