288. 揚げ昆虫
石段を降り切ると、私たちは瞬く間に月光夜市の人波とすさまじい喧噪の渦の中に飲み込まれていった。
「揚げ昆虫だよ、揚げ昆虫! 通りすがりのお客さん、ちょっと見ていってよ!」
「イカの鉄板焼きに激旨串焼き! 揚げたてサクサクだよ!」
「本場の串焼き! ラオスビールもあるよ! 今日はティラピアの丸焼きが特売だよ!」
四方八方から押し寄せる屋台の呼び込みの声が複雑に重なり合い、頭がクラクラするほどの熱気と活気に満ちたざわめきとなって鼓膜を揺らす。
商人たちは商魂たくましく、観光客が前を通りかかるたびに手に持った食材をアピールするように振りかざったり、張り上げた大声で威勢よく声をかけてくる。
中には試食を載せた小さな皿を差し出し、薄切りにした焼き物を「一口食べてみなよ」と笑顔で勧めてくる店もあった。
私達は押し寄せる人波に流されるまま奥へと足を進め、左右に隙間なく並ぶ屋台を好奇心に任せてきょろきょろと見回した。
そしてすぐに、嫌というほど見覚えのある「お馴染みの顔ぶれ」に突き当たった。
イカの鉄板焼き。
巨大な鶏カツの唐揚げ。
そして、たこ焼き。
これらは紅龍国全国のどの夜市に行っても鎮座している、いわば「夜市界の重鎮」たちだ。
どこへ行こうと、そこに夜市が存在する限り、間違いなくこの三種の神器に出会うことができる。
彼らは先ほど話題に上ったチェーン店のような統一基準ではなく、商人たちの本能に近い商売の勘だけで、紅龍国の夜市のDNAに自らの存在を深く刻み込んでいるのだ。
私は胸の中でそっとため息をついた。
「……やっぱり、ここにもいるのね」と私は呟いた。
「どういう意味?」
ユーナが不思議そうに首をかしげて私を見つめてきた。
「つまりね……どこへ行っても、夜市にはだいたいこの定番メニューが居座っているのよ」
私は苦笑しながら言った。
「たまに『なんだ、この夜市も前の街と大して変わらないじゃない』って冷めちゃうことがあるの」
「でも、いまお腹が空いているんでしょ?」
ユーナがニヤリと笑いながら私の腹部を指差した。
「じゃあ、目の前のそれらは美味しそうに見えないの?」
「……悔しいけれど、ものすごく美味しそうに見えるわ」
私は素直に敗北を認めた。
『空腹こそが最高の調味料である』——この金言は、どんな世界であっても変わらぬ真理なのだ。
とはいえ、せっかくここまで来たのだから、まずは夜市をひと回りして本当に叻沙城らしい郷土料理がないか確かめてから、夕食の場所を決めることにした。
二十分ほど周囲を歩き回った結果、私はある初歩的な結論に達した。
率直に言って、この夜市には叻沙城ならではの独自の特色があまり感じられなかった。
この土地の味を象徴するようなタイ族風の料理や、叻沙城特有の調理法を掲げる店はほんの数軒ほど散見される程度で、その大部分は全国共通の「どこにでもある夜市グルメ」の波にすっかり埋もれていたのだ。
透明なケースの中には、パイナップルと青マンゴーの薄切り、叩き潰した鶏の足と青ライムを放り込み、そこにドロリとした濃い色のタレを絡めた冷菜が置かれていた。
見た目は少々奇妙だったが、どこか甘酸っぱいフルーティーな香りを漂わせている。
そのすぐ隣には、出ましたと言わんばかりに「揚げ昆虫」を売る屋台がデンと構えていた。
蚕の蛹、イナゴ、竹虫、そして私の知らない怪しげな甲虫がもう一種類。
それらすべてがこんがりと黄金色に揚げられ、唐辛子パウダーと塩を振りかけられて焼き台の上に整然と並べられ、なんとも形容しがたい香ばしい匂いを放っていた。
「……これは」
母が揚げ昆虫の屋台の前でぴたりと足を止め、何秒間か真剣な目つきで観察してから言った。
「……虫、なのか?」
「ええ」と私は答えた。「カラッと揚げたものね」
「……人間が食べられるものなのか?」
「食べられるわよ。それどころか非常に栄養価が高くて、良質なタンパク質の塊らしいわ」
母は屋台の脇で立ち止まったまま、その黒光りする甲虫を真剣に研究し始めた。
彼女はわざわざしゃがみ込み、顔をかなり近づけて数秒間じっと見つめると、ゆっくりと顔を上げて至極真面目な顔つきで私に尋ねてきた。
「この甲虫……私たちのあっちの領地では、時折田んぼや畑で大量発生する害虫と同じ種類だな」
「ええ」と私は頷いた。
「こっちの世界にもいるけれど、こちらのの人々はこれを工夫して食べ物に仕立て上げてしまうのよ」
「……害虫の有効活用(廃物利用)というわけか」
母は深く頷き、感心せざるを得ないといった表情を浮かべた。
「発想としては決して悪くないな」
しかし、技術として認めることと、自分の口に入れることとは全く別問題だったらしく、彼女に買い求める気配は微塵もなかった。
「母さん」と私は悪戯っぽく持ちかけた。「一匹試してみない?」
「……まずは他のものを見てからにする」
彼女は素早く立ち上がり、何事もなかったかのように横へと歩き出した。
ユーナが私の耳元に顔を寄せ、小声で囁いてきた。
「ヘレナ様、さっき一瞬だけ眉根をぴくっと引きつらせていたわね」
「ええ、私もバッチリ見ちゃったわ」と私も小声で返した。
私たちはさらに夜市の奥深くへと進んだ。
その先には、何やら生きのいいエビを売る屋台があった。
ガラス容器の中のエビたちは、ドロリとした謎のタレにどっぷりと浸かっていた。
それが漬け込み用のタレなのかソースなのか、私には判別がつかなかった。
彼らはまだ生きており、濃密なタレの中で緩慢にのたうち回り、長い触覚を時折ピクピクと動かしている様子は、どこか言葉なき無言の抗議のようにも見えた。
店主の掲げた看板には、誇らしげにこう書かれている。
『酔っ払いエビ・注文を受けてから調理・生きたまま喰らうのが一番の鮮度』
生の海鮮ならまだ理解の範疇だが、いかんせん相手は淡水のエビだ。
淡水産の生食には、海水魚とは比べものにならないほど深刻な寄生虫リスクが付きまとう。
増してや、奴らはまだタレの中で生きて蠢いているのだ。
私は肩でそっと母の体を突き、そっちへ近寄らないよう合図を送って、その怪しげな屋台を大きく迂回した。
そして案の定——あの「勐牛米粉」の器も姿を現した。
夜市の一角にもしっかりと専門の露店が存在し、あのメニューを売っていたのだ。
店の前には実際に数人の客が腰を下ろし、真面目な顔つきで例の苦くて酸っぱい米粉スープをすすっていた。
その表情たるや……複雑と言えば複雑、苦痛と言えば苦痛、味わっていると言えば味わっているようにも見えた。
とにかく、口裏を合わせても楽しそうな表情には見えなかった。
「どうやら、昼間の私たちの味覚は間違っていなかったようね」と私は言った。
「不味いものは、誰がどう作っても不味いのよ」
「でも、あの人たちは文句も言わずに飲んでいるわ」
ユーナがスープをすする客たちを指差した。
「きっと、お金を払ってしまった手前、残したら損をした気分になるんじゃないかしら?」
実に的を射た、説得力のある推論だった。
私たちが半ば諦めを抱き、適当な鶏カツの露店で妥協の夕食を済ませようとした、まさにその時だった。
少し離れた場所にある一軒の店舗が、私の目に留まった。
そこは単なる簡素な露店ではなく、夜市の一角に半固定式の屋根を張った、なかなか立派な規模の構えだった。
店内には赤いビニールクロスが敷かれたテーブルが四、五卓ほど並び、卓の端にはメニュー表が重りで押さえられている。
店の外壁には手書きの大きな看板が掲げられており、力強い字体でこう記されていた。
『菜包魚(野菜包み焼き魚)・叻沙風味・三人より注文承ります』
看板の脇には筆で一匹の魚が描かれており、口を大きく開けたその姿は、まるで客を威勢よく出迎えているかのようだった。
菜包魚。
私の頭の中で、この料理に関する前世の記憶がハイスピードで検索された。
前世の私はネットのグルメ紹介でこの料理の存在を知ったことがあったが、実際に口にする機会には恵まれなかった。
彩雲行省の南西国境地帯における、言わずと知れた名物料理だ。
香ばしく焼き上げた魚を、シャキシャキのサンチュやハーブ、米粉や薬味とともにレタスでくるりと包み込み、特製のスパイシーなタレをつけて手づかみで豪快に味わう。
何よりも重要なのは食材の鮮度とタレの絶妙な配合バランスだと言われている。
そして何より——この店のテーブルを埋めている客の大部分が、地元の住民らしき人々だった。
地元の人間が集まって箸を進めている店に、ハズレなし。
これは私が長年の旅の経験から導き出した、確固たる鉄則のひとつだった。
「ねえ、これ」
私はその『菜包魚』の看板を指さし、振り返ってユーナと母を見つめた。
「ちょっと試してみない?」
ユーナが近寄ってきて看板を覗き込み、店内で楽しそうに食卓を囲む地元客たちの様子を確認してから、力強く頷いた。
「周りのお客さんがみんな地元の人みたいだし、きっと大丈夫そうね!」
母も静かに近づいて店内の様子を吟味するように覗き込み、言った。
「……コウモリもいないし、虫もいない。生きたままタレに漬けられた謎の生物もなさそうだな」
「……母さん、それが今夜の店選びの基準なのですか?」
「今夜における、生き残るための最低限のクリア条件だ」
母は極めて真面目な顔でそう断言した。
こうして私たち三人の意見は一致し、揃ってその『菜包魚』の暖簾をくぐったのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




