286. 月光夜市への道
夜の七時半、ホテルの正面玄関に大型の送迎バスが定刻通り滑り込んできた。
白い半袖Tシャツを着た中年男性の運転手がドアの横に立ち、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、やる気なさげに車体に背中を預けていた。
まるで誰かがやってくるのを手持ち無沙汰に待っているかのようだ。
彼の肌は、私たちとは比べものにならないほど深く日焼けしていた。
屋内の日焼けサロンで仕込まれたような人工的な褐色ではない。
長年、叻沙城の過酷な烈日の下に晒され続けて焼き上がった、本物の濃い小麦色だ。
顔から首筋、そして腕に至るまで隙なく均一に黒く、長年屋外の現場で生きてきた人間特有の力強さとタフさを漂わせていた。
顔立ちには風雪をくぐり抜けてきたような細かいシワが刻まれていたが、その表情は実に肩の力が抜けており、どこか物憂げな目つきは、この業務を手慣れた手つきでこなすベテランの雰囲気を醸し出していた。
客を乗せ、降ろし、時間まで待つ——そんな作業は彼にとって、呼吸するのと同じくらい当たり前で退屈な日常の断面に過ぎないのだろう。
彼は私たちがホテルの自動ドアから出てくる姿を認めたとたん、億劫そうに片手を挙げて手招きした。
「来たか。さっさと乗りな、すぐに出すぞ」
「……まだ発車時間まで二十分以上ありませんでしたか?」
私はスマホの画面で時刻を確認し、不思議そうに尋ねた。
フロントから聞いていた説明では、バスは夜の七時五十分に定刻発車するはずだったのだ。
ホテル全館の宿泊客に向けた無料送迎バスなのだから、予約した乗客が揃うのを確認してから出すのがスジというものだろう。
「今日はホテル全体でも数組の家族連れしか泊まってねえんだよ」
運転手はドアのフレームを指二本でつまむようにして言った。
「今日、夜市に行くって予約を入れたのはあんたらだけだ。乗り込んだんなら、今すぐ出ちまった方が早いだろ」
彼の語り口はどこまでも平坦で、まるで当たり前の事実を淡々と述べているだけだった。
「これ完全予約制だからな、今から乗りたいって奴が出てきても断るだけだ。早く出た方が、夜市で遊べる時間が長くなって得だろ?」
彼の言い分に一理あると頷いた私たちは、促されるまま車内へと足を踏み入れた。
大型の観光バスだというのに、中は驚くほどガランとしていた。
運転手を加えても、車内の人間はわずか四人きりだ。
広々とした座席の大半が空席で、車体の両側に並ぶ窓からは叻沙城の夕暮れ特有のねっとりとした熱気が差し込んでいた。
すでにエアコンは稼働していたものの、車内に充満する熱気を完全に押し込めるにはまだ少し時間がかかりそうだった。
貸切状態の車内ということもあり、私たちは遠慮なくバスの中で最も眺めの良い「最高の三席」へと向かった。
そこは、一番前の最前列だった。
正確に言えば、運転席を除けばフロントガラスのすぐ真後ろに位置する三連の座席だ。
そこに腰を下ろせば、前方へとどこまでも伸びていく道路のパノラマが一望でき、左手には運転席側の側窓、右手には通路を挟んだ反対側の窓が広がる。
バス全体のなかでも最も視界が開け、左右両方の景観を同時に堪能できる特等席だった。
もしこれが観光の最盛期であれば、こんな特等席は先乗りした客によって真っ先に埋まってしまっているはずだ。
だが今夜ばかりは、ここが私たちの貸切専用席となった。
母はシートに深々と腰を下ろすと、前の手すりに両腕を預け、少し身を乗り出すようにして前方を見つめた。
その視線はフロントガラスを突き抜け、夕闇に包まれ始めた叻沙城の大通りへと注がれている。
「ここは素晴らしい位置ね」
母は満足そうに言った。
「横の窓から流れる景色を眺めるより、ずっと臨場感があるわ」
「一番前の席はどこも眺めがいいんです」と私は解説した。
「ただ、普通の旅行じゃなかなか取れない席なんですけどね」
「ふふ、じゃあ今夜はとても運が良かったのね」
母は小さく頷き、旅に出てから珍しく、ほんの少しだけ柔らかい表情を見せた。
バスは重厚なエンジン音を響かせ、叻沙城の大通りをスムーズに走り出した。
夕暮れを迎えた叻沙城は、昼間の凶悪な灼熱がひとつ和らいだ代わりに、街全体の活気がひとつ跳ね上がっていた。
路地裏の小店が色鮮やかな看板灯を点灯させ始め、行き交う人々の数は午後よりも明らかに増えている。
電動バイクに跨った若者たちが二人、三人となわばりを主張するように群れをなし、車の間をスイスイと縫うように走り抜けていく。
時折、派手な装飾を施したトゥクトゥクがけたたましい排気音を残して追い抜いていった。
空気の中には昼間に蓄積された熱気が依然として籠もっていたが、夜の湿り気が混ざり始めたおかげで、もはや耐えがたいほどの不快感ではなくなっていた。
バスが十分ほど走ると、前方に巨大な橋のシルエットが現れた。
叻沙城の真ん中を豪快に貫く、「蒼南江大橋」だ。
蒼南江はこの叻沙城の母なる大河であり、街を南北に真っ二つに分断している。
橋の上から見下ろすと、ゆったりとした川幅は静かで穏やかで、夕暮れの空の色を映し鏡のように反射して鮮やかな橙赤色のグラデーションを描いていた。
遥か対岸に並ぶ木々の影が水面に揺らめき、ぼんやりと柔らかい情緒を漂わせている。
だが、私が川岸の足元に目を落としたとき、そこにはかつて暮らした木棉城とは決定的に異なる光景が広がっていた。
木棉城を流れる珠江の沿岸には綺麗に整備された遊歩道があり、街灯が灯り、ベンチが並び、ランニングを楽しむ市民や夜景を眺めるカップル、さらには路上ライブに興じるストリートミュージシャンまでいたものだ。
あの川岸は、夕暮れから深夜に至るまで常に人々の生気で満ち溢れていた。
しかし、この蒼南江の岸辺に広がるのは——剥き出しの赤土だった。
露わになった赤い砂土が水際までどこまでも広がり、その上を濃い緑の原生植物が無造作に生い茂っている。
バショウ、ヤシ、そして名前も知らないような熱帯の低木が鬱蒼と群生しており、まるで川自体が自前で生やした野性的な髪の毛のようだった。
人の手で整備された形跡はなく、ただ純粋に、荒々しくそこに存在している。
遊歩道もなければ、街灯すらない。川辺を散歩するような物好な人の姿も皆無だった。
黄昏の最後の一筋の光が空の端から引き上げていくにつれ、蒼南江の赤土の岸辺は夜の帳の中に深く沈み込んでいった。
もしこれが昼間であれば、「手つかずの自然が残っている」「素朴で雄大な風情だ」と感心できたかもしれない。
しかし、夜の闇が降りた今となってはそこはただの漆黒の空間であり、かすかな月光が川面の一部をチラチラと照らし出すに過ぎない。
岸辺の生い茂る木々は不気味な黒い塊となり、見る者に言いようのない圧倒的な圧迫感を抱かせていた。
「この川……」
母は私の隣で、私の視線を追うようにして暗い川岸を見つめながら呟いた。
「……どうして遊歩道などを造って整備しないのだろうな?」
「ここはまだ、開発が始まったばかりの地域ですからね」と私は答えた。
「インフラ整備がそこまで追いついていないんです」
「ふむ……」
母は頷き、どこか懐かしむような思索の表情を浮かべた。
「そう言われてみれば、私たちの公爵領にあったあの川沿いも似たようなものだったな。漁船が身を寄せる小さな埠頭はあったが、庶民が気晴らしに散歩できるような綺麗な道などどこにもなかった」
「いつかここにも整備されますよ」と私は言った。
「経済が発展していけば、この川沿いにも遅かれ早かれ綺麗なプロムナードが造られるはずです」
母は振り返り、私をじろりと盗み見るように視線を向けてきた。
「不思議な言い方をするのだな」
彼女は言った。
「まるで……はじめから未来の結末を知っている者のようだ」
私はただニッコリと微笑むだけで、それ以上は何も答えなかった。
◇
バスは橋を渡りきり、蒼南江の対岸へと辿り着いた。
対岸の街並みは、私たちのホテルがある新市街側に比べると、明らかに年季が入って古びていた。
道路は狭くなり、街灯の間隔もどこか疎らで、沿道に並ぶ店の看板はすっかり色あせ、何軒かのシャッターには塗料で殴り書きされた怪しげな文字が踊っている。
こここそが、叻沙城の「旧市街」だった。
旧市街が放つ空気感は、新市街のそれとは根底から異なっていた。
新市街が人工的で整然とした清潔さを誇り、格式高いホテルや真新しい店舗が整然と並んでいるのに対し、この旧市街はどこまでも泥臭く、生活感に満ち溢れ、地方の小都市特有のどこか退廃的で、けれど生々しく人間臭い熱気を孕んでいた。
路地の軒先では、低い椅子に腰掛けたおばあさんが黙々と豆の皮を剥いており、路地裏からは子どもたちが野良猫を追いかける歓声が聞こえてくる。
タバコ屋の店主は店先にプラスチックの椅子を持ち出し、団扇を仰ぎながらスマホの画面に見入っていた。
やがてバスは入り組んだ細い路地へと進入し、私たちを降ろすために停車した。
運転手は「ここから先は狭くてバスが入れねえから、歩いてくれ。少し進めばすぐ月光夜市だ」と言った。
彼が指さした方向を確かめると、口こそ素っ気ないものの、この土地の道筋を熟知している者の確かな手応えが伝わってきた。
私たちは静まり返った車内を後にし、彼が指し示した夜の闇の向こうへと足を進めていった。
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