285. 夜市
夜の七時半、ホテルの乗り場から定刻通りに送迎バスが発車した。
私たちは車内に乗り込み、後方の空いている席を見つけて腰を下ろした。
車内はすでに大勢の客で埋まっており、そのほとんどが近隣のホテルに身を寄せる観光客のようだった。
あちこちから紅龍国各地の方言や訛りが飛び交い、賑やかなおしゃべりの声が車内に響き渡っていた。
バスは叻沙城の街並みを、二十分ほど走り続けた。
車窓の風景は、ホテル街の静けさから次第に目まぐるしい賑わいへと表情を変えていく。
街灯の数が増え、人影が多くなり、やがて遠くに眩い明かりがびっしりと集まる一帯が見えてきた。
あそこが目指す「月光夜市」なのだろう。
バスは広々とした駐車場に滑り込み、停車した。
私たちは人波に紛れて車を降り、夜市の入口へと足を進めた。
まだ距離があるというのに、遠目からでも夜市特有の熱気が肌に伝わってくる。
人々の喧噪、香辛料や油の匂い、色とりどりの電飾が複雑に混ざり合い、夜市でしか味わえない独特の熱狂を作り出していた。
月光夜市の入口には素朴な牌楼(門)が立っており、周囲にはぐるりと巻きつけられた小さな電球が、温かみのある黄色い光を放っていた。
門の両脇には熱帯フルーツを商う屋台がいくつも並び、マンゴスチン、マンゴー、ドリアン、ランブータンが氷の上に高く盛られ、まるで絵の具を溶かしたように色鮮やかだった。
私たちは門をくぐり、中へと足を踏み入れた。
歩行者天国となった広い通りの両脇にずらりと屋台が連なり、頭上に張られた日よけのタープからは裸電球やカラフルなイルミネーションが吊り下げられている。
足元のコンクリートには昼間のスコールの残した水たまりが残り、踏みつけるたびにわずかに湿った感触が足裏に伝わった。
空気中には、目眩がするほど多様な食べ物の匂いが充満していた。
串焼きのクミンの香ばしさ、揚げ物の油の臭気、熟した果物の甘い香り、そして正体の知れない濃厚な香辛料の匂い。
それらが濃密に溶け合い、鼻腔を強く刺激してくる。
かなりの混雑ぶりだった。
週末ということもあり、地元民と観光客がひしめき合っていて、通路は二人並んで歩くのがやっとの狭さだった。
少しでも歩みを緩めれば、すぐさま後ろの人波から押し出されそうになってしまう。
「まずは何か腹に収めよう」
母が提案した。
「まだ夕飯も食べていないからな」
こうして私たちは、ひしめき合う屋台の隙間を縫うように歩き、夕食の獲物を探し始めた。
……しかし。
この夜市に並ぶ食べ物は、私たちが思い描いていた「地元の情緒あふれる名物」とは、ずいぶんとかけ離れた代物ばかりだった。
目につく屋台の大部分で売られているのは、全国どこの夜市に行っても見かけるような定番メニューばかりだったのだ。
イカの丸焼き、鶏の唐揚げ、たこ焼き、シロップ漬けのフルーツ串……。
それらが美味しくないと言いたいわけではない。
ただ、それらは「叻沙城ならではの名物」では断じてない。
どこの街の夜市に行っても買えるような、味の想像がつく品々ばかりだったのだ。
しばらく歩き回り、私たちはようやく地元の郷土料理を掲げる屋台をひとつ見つけた。
看板には『叻沙タイ風炭火焼き』と書かれており、私たちは吸い寄せられるように近づいて注文することにした。
屋台の前には手書きのメニューが掲げられ、網の上には様々な食材がズラリと並べられていた。
豚串、鶏串、焼き魚、焼きナス、焼き豆腐……見た目のバリエーションは実に豊富だった。
「すみません、豚肉の串を三本と、焼き魚を三つください」
私は煙の上がる焼き網の前で必死に団扇を仰ぐ店主に声をかけた。
「あいよっ!」
店主は顔すら上げずに威勢よく返事をし、手際よく串をひっくり返し続けた。
十分ほど待たされ、ようやく私たちの注文した炭火焼きが運ばれてきた。
だが——ひと口食べた瞬間に判明したのは、それが「正気の沙汰ではない辛さ」だということだった。
香ばしさを引き立てるような上品な辛さではない。
唐辛子パウダーをボトルごとぶちまけたかのような、暴力的で大雑把な激辛だった。
唇がしびれ、思わず目頭から涙が滲み出てくるほどの刺激で、冷たいココナッツウォーターを二杯流し込んでも舌の痺れは一向に引いてくれなかった。
「これ……本当に『地元の名物』ってことでいいのかな……?」
ユーナは辛さでハアハアと息を荒らしながらも、意地になって皿の上の豚串を平らげようとしていた。
「名物と呼ぶには、少々攻撃的すぎる味付けだな」と私も苦笑した。
一方、母は驚くほど平然としていた。
あの凶悪な激辛串の大部分をケロリと完食すると、『まあまあだな』とでも言いたげな顔でこう評したのだった。
「……昼のお前が頼んだあの米粉よりは、いくらかマシだ」
おそらく、これ以上ないほど低い評価基準である。
「あの苦くて酸っぱいだけの米粉よりマシ」ということは、「人間の食べ物として飲み込むことはできた。だがそれだけだ」と言っているのに等しかった。
激辛の串焼きをなんとか腹に収め、私たちはさらに夜市を奥へと進んだ。
香ばしい焼き魚の屋台を通りかかった際、母がもう一度挑戦してみたいと言うので、今度は焼き魚をひとつ買い求めてみた。
そして、その焼き魚の致命的な問題点は「殺人的な塩辛さ」だった。
一刺し口に運ぶたび、水なしでは喉を通らないほどの塩分濃度だったのだ。
魚そのものは新鮮で、炭火で炙られた皮目はパリッと香ばしかったのだが、調理の段階で完全に目分量を誤り、胡椒と間違えて塩を死ぬ気で振りかけてしまったとしか思えない味付けだった。
「この店の料理人は……」
母は焼き魚の身を噛み締めながら、どこか遠い目をして呟いた。
「味覚が完全に麻痺しているのかもしれないな」
「あるいは、塩がタダで手に入る世界線に生きているのかもしれませんね」と私は付け加えた。
さらに通りを進むと、ココナッツゼリーを売る可愛らしい屋台が目に留まった。
ココナッツゼリー。
名前を聞くだけで瑞々しく清涼感があり、蒸し暑い熱帯の夜にはお誂え向きのスイーツに思えた。
私たちは一箱買い求め、三人で分け合って食べてみることにした。
……しかし、その結果待っていたのは「目眩がするほどの激甘」だった。
くどい、の一言に尽きる甘さだった。
ココナッツ本来の爽やかな甘みや風味は、ドロドロの大量の砂糖によって完全に押し潰されており、口に運ぶと「ココナッツ風味のシロップの塊」を舐めさせられているようで、到底ゼリーと呼べる代物ではなかった。
ユーナはひと口食べただけで、そっとスプーンを置いた。
「これ……」彼女は箱の中のゼリーを見つめ、切ない顔で呟いた。「ココナッツがかわいそう……」
「私も、このココナッツの無念を思うと胸が痛むよ」と私は頷いた。
旅の最後に、私たちはもち米のお菓子を扱う屋台の前で足を止めた。
そこには、地元で「ポーシュイババ」と呼ばれる名物が並べられていた。
もち米の生地で細切りにしたココナッツと砕いたピーナッツを包み込んだもので、見た目は柔らかくモチモチとしていて、いかにも美味しそうだった。
私たちは一袋買い、三人で分け合って口に含んだ。
そして、即座に理解した。
——とんでもなく、口の中にくっつくのだ。
歯という歯に、容赦なくへばりついて離れない類の粘着力だった。
二、三度噛み締めた時点でモチの塊が歯列全体に強く固着し、舌を総動員して必死に押し剥がさなければならなくなった。
苦労の末にようやく歯から剥がれたかと思えば、今度は上顎の裏にピタリとへばりついて離れない。
「この代物は……」
私は口の中のモチと死闘を繰り広げながら、もごもごと口を籠もらせて言った。
「……顎の筋力を鍛えるためのトレーニング器具か何かか?」
「しゃべらないで……!」ユーナも私と全く同じ状態に陥っていた。「しゃべると、もっと密着するから……!」
そんな中、母だけは相変わらず妙に落ち着いていた。
彼女はその強力なポーシュイババを淡々と咀嚼し終えると、『私は過去にこれ以上の修羅場をくぐり抜けてきた』とでも言いたげな貫禄のある顔で言った。
「これでも、精霊族の伝統的な祝い菓子に比べれば、ずいぶん優しい部類に入るぞ」
「精霊族の伝統菓子も、そんなに歯にくっつくんですか?」
「歯にくっつくだけではない。上顎にも、歯茎にも、喉の奥にも、接触したあらゆる場所に強力に固着するのだ。あれを口にする際は、両手と一杯の聖水、そして接着を解除するための専用の解呪の文句が不可欠となる」
「……精霊族の皆さんって、一体普段から何を食べて生きてるんですか?」
「伝統だ」
母は至極まじめな顔で即答した。
◇
私たちが夜市を練り歩いたのは、およそ二時間ほどだった。
総合的に見て、夜市全体の熱気や祭りのような雰囲気自体は十分に楽しめたものの、肝心の「食の体験」に関しては満足には程遠いと言わざるを得なかった。
おそらく、私たちの期待値が立て続けの「ハズレ」を引く中で、皮肉にもどんどん研ぎ澄まされて高くなってしまっていたのだろう。
旅の現実というのは、いつだって理想の少し手前で踏みとどまるものなのだ。
あるいは、叻沙城の本当の絶品グルメに辿り着くためには、もっと玄人向けの作法が必要だったのかもしれませんね。
例えば地元の食通の後を追って穴場を訪ねるような真似が必要で、観光客が群がる夜市で運任せに当たりを引き当てるのは土台無理な話だったのかもしれない。
夜の十時を迎える頃、私たちは帰りの送迎バスに乗り込み、ホテルへと戻った。
今日の旅程はこうして、「苦くて、酸っぱくて、辛くて、塩からくて、甘すぎて、歯にくっつく」という、あまりにも複雑でカオスな味覚の記憶とともに、不完全燃焼な幕を閉じることとなった。
バスの窓から見上げる夜空には、数えるほどしか星が浮かんでいなかった。
街を彩るネオンや街灯の明かりが、あまりにも眩しすぎるせいだ。
それでも、胸の奥では「まあ、これで良かったのかもしれない」と思えている自分がいた。
何しろ——『来都来了(せっかく来たんだし)』なのだから。
◇
ホテルの部屋に戻った後、私はひとり窓辺に立ち、眼下に広がる叻沙城の夜景を見つめた。
この街の夜は、昼間とは全く異なる表情を見せてくれる。
昼はギラギラと苛烈で、日差しが不快で、エアコンの効いた部屋から一歩も出たくなくなるような拒絶の顔だ。
しかし夜になれば、相変わらず蒸し暑くはあるものの、心地よい風が吹き抜け、柔らかな街明かりが灯り、熱帯の街ならではの穏やかで伸びやかなリズムが流れていた。
叻沙城で過ごした二日間。
食事の面では散々な目に遭い続けたものの、見るべき主要なスポットは概ね巡ることができた。
孟勒金塔寺、勐植熱帯植物園、曼傣王苑、そして月光夜市。
この四つの名所を合わせれば、おそらくこの叻沙城が観光客に見せられる魅力のすべてなのだろう。
……それが舌に合うかどうかは、まったく別の問題として。
私はそっと室内の明かりを消した。
叻沙城で過ごす最後の夜は、エアコンが奏でる低い静かな唸り声の中に、ひっそりと溶けて消えていった。




