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280. 塗金の仏像

 山頂の入口にある広場に着くと、彼は完全に力尽きたようにリュックを放り投げ、そのまま菩提樹の木陰へと倒れ込んだ。


 底が見えかけた水筒から水を補給しながら、その目は虚ろだった。


 体だけはどうにか辿り着いたものの、魂はまだ山腹に置き去りになっている——そんな風情だ。


 年齢は見たところ二十歳そこそこ。体格も特別ひ弱というわけではない。


 ただ……この街の夏の暑さが、あまりにも容赦なさすぎるのだ。


 遠くから彼を眺めながら、私は胸の奥に奇妙な共感が湧き上がるのを感じていた。


 もし当時の私——あの三十歳の体格と体力のまま、彼と同じようにリュックを背負ってこの山を登っていたら、果たしてどれほど無様な姿を晒していたろう。


 間違いなく、彼以上に酷い有様になっていたはずだ。


 何しろあの頃の私の最長徒歩距離といえば、会社から一番近いコンビニまで歩き、テイクアウトを二袋提げてオフィスへ戻る、ただそれだけだったのだから。


 往復たったの三分。しかも途中で一度、信号待ちをする程度の運動量だ。


 私は心の中で、今生の自分に授けられた精霊の血筋にそっと感謝を捧げ、それから脱線しかけた思考を元に戻し引き戻した。


 実際のところ、今の私たち三人は汗すらほとんどかいていなかった。


 私とユーナは少し汗をかいたものの、魔法の補助のおかげで、衣類は終始さらりと乾いたままだ。


 母に至っては汗ばんではいるものの、足取りは普段通り安定しており、途中で立ち止まっては山腹の岩の形をじっくり眺め、「こちらの石は……なかなか面白いな」と感心したように呟いていたほどだ。


 地質まで研究し始めるなんて、さすがは本物の冒険者である。


 それから十数分ほどして、私たちは無事に山頂の広場へと登り切った。


 山頂は麓よりも幾分か涼しかった。


 山の稜線に沿って吹き抜ける風が、周囲の木々の梢を一斉に揺らし、それから優しく放していく。


 その風が首筋に吹き込むたび、この街では滅多に味わえない心地よい涼しさが運ばれてくる。


 目指す金塔は、すぐ目の前に迫っていた。


 間近で仰ぎ見る孟勒金塔は、写真で見たときよりもはるかに圧倒的だった。


 単なる高さだけではない。細部まで緻密に積み上げられた、重厚な美しさがそこにはあった。


 白い石材の土台の上に幾層もの塔身が重ねられ、上に向かって細く伸びていく。


 どの層の軒先にも小さな金色の風鈴が吊るされており、山頂の風に揺られて途切れ途切れに繊細な鈴の音を奏でていた。


 ゆったりとしていて、どこか儚げな響きだ。


 塔の頂を飾る金箔は、正午前の強い陽射しを受けて目が眩むほどに輝き、空全体を暖かな金色に染め上げているかのようだった。


 塔の前には白い柱が並ぶ回廊が伸び、掛けられたオレンジ色の布幕が風を孕んでふわりと膨らんでいる。


 回廊の中には金箔が施された仏像が数体、端然と鎮座していた。


 目元を安らかに伏せ、穏やかな表情を浮かべている。


 回廊の外には滑らかな白い大理石が敷き詰められ、香炉から立ち昇る細い線香の煙が、山頂の風に混ざり合って淡く消えていった。


 私は山頂にしばし佇み、吹き抜ける風を感じながら、頭の中が真っ白になるのを感じていた。


 何か特別な感慨があったわけではない。


 ただ、高い場所に立ち、風と陽射しに全身を委ねる——その静寂そのものが心地よかった。


 前世の私は、ここに来ることができなかった。


 この山にも、この塔にも、この繊細な鈴の音にも出会うことはなかった。


 あの頃は、いつか機会があれば来ようと思っていた。


 だがその「いつか」は、地下鉄のホームでの事故によって永遠に失われ、ただの空手形となってしまったのだ。


 今、こうしてここに立っていることで、すべてが報われた気がした。


 少し遅くなってしまったけれど、ようやく埋め合わせができたのだ。


「クローディア、早く! 私とヘレナ様と、このお寺の写真を撮って!」


 少し離れた場所からユーナの声が響き、散りかけていた私の思考を鮮やかに断ち切った。


 顔を上げると、彼女はすでに金塔の一番映える絶好の位置に陣取っていた。


 足元には白い大理石、山頂の風にピンクの長い髪の裾がふわりと舞い上がっている。


 手に持ったスマホを私に向かって嬉しそうに振る彼女の瞳は、好奇心で爛々と輝いていた。


 その隣には母が立っている。


 背すじをぴんと伸ばした佇まいはどこまでも端正で、顔には相変わらず冷徹とも言える落ち着きを浮かべていた。


 だが、よく見ると口元がほんのわずかに緩んでいる。


 嬉しいときでも決してそれを表に出そうとしない、彼女特有の密かな表情だ。


 ポーカーフェイスの母と、満面の笑みを浮かべるユーナ。


 私は慌てて思考を切り替え、小走りでユーナのもとへ駆け寄ると、スマホを受け取って二人に向けてカメラを向けた。


「はい、笑って!」


「私は笑わんぞ」母は真面目な顔で言った。「笑うと威厳がなくなる」


「では……自然な表情でお願いします」


「これが今の私の、最も自然な表情だ」


 ユーナは笑いを噛み殺しながら母に肩を寄せ、何気ない仕草で寄り添うと、手で可愛らしくピースサインを作った。


 私はシャッターを切った。


 画面の中で一瞬が永遠に切り取られる。


 金色の尖塔、鮮やかなオレンジ色の布幕、満面の笑みを咲かせるピンク髪の少女と、高潔で洗練された金髪の貴婦人。


 二人は孟勒金塔寺の山頂に並んで立ち、風がその髪を優しく揺らしている。


 写真全体が、この街の午前の眩しい光を受けて、まぶしいほどに輝いていた。


 本当に、最高の写真だ。


「見せて!」


 ユーナが駆け寄ってきて横から画面を覗き込み、満足そうに微笑んだ。


「すごくいいじゃない! 今回は前よりずっと上手ね」


「前はどこが悪かったっていうのさ」


「前はヘレナ様の足が半分切れちゃってたでしょ」


「……あれはあえて切り取った構図だよ」


「何の構図よ、ただの手ブレじゃないの」


 母も傍らに歩み寄ると、画面を一目見つめ、自分が写っている部分を親指でさっと拡大して確認してから、何事もなかったかのように頷いた。


「悪くないな」


 短い評価を下すと、彼女は再び視線を遠くの景色へと向けた。


「ここから、他の山は見えているのか?」


 私は彼女の視線の先を追いかけるように遠くを見渡した。


 孟勒金塔寺の山頂からは、叻沙城の街並みが一望できた。


 低く広がる建物、点在する熱帯の緑、遠くでキラキラと光を反射する水面、そしてそのさらに向こうには、濃淡の異なる墨色の山々が幾重にも重なり合っている。


 あの山々はまださほど高くはない。


 彩雲行省の南西部に広がる緩やかな丘陵地帯だ。


 だが視線を奥へ進めるにつれ、山々の連なりは次第に険しさを増し、その色も深まっていく。


 一番奥にある山には、すでにうっすらと雲霧がまとわりついていた。


「見えますよ」私は言った。「ですが、あの山々はまだ序の口です。明日あちらの方向へ進んで『風花城』に着けば、いよいよ本物の山々が見え始めます」


 母はその遥か遠くの山影に視線を留めたまま、しばらく沈黙した。


「風花城……」


 彼女はその名をそっと口の中で転がした。


「ええ。風花城は彩雲行省の中部に位置していて、街には一年中心地よい風が吹いています。地元の人は『風の街』と呼んでいるんですよ。街の外に広がる山々はここよりもずっと標高が高く、あの山道に入って初めて、彩雲行省が誇る最も雄大な自然の中に足を踏み入れることになるんです」


「その先は?」


「その先には雪月城があり、さらにその奥には雲龍雪山が聳え立っています」


 母はすぐには言葉を返さず、ゆっくりと視線を戻して、再び目の前の金塔を見つめた。


 そしてそのまま、静かに佇んでいた。


 その沈黙の中に特別な感情の揺らぎはなかった。


 ただ冒険者の心の中で目指すべき標が定まり、まだ見ぬ旅路を前にしたときだけに訪れる、あの静かな高鳴りと充填の刻。


 まさに、出発直前の深呼吸のような時間だった。


 その後、私たちは山頂の回廊でしばらくのんびりと過ごした。


 母は寺の内部をじっくりと時間をかけて歩き回っていた。


 彼女は決して虔心な仏教徒というわけではない。異世界で彼女が奉っているのはまったく別の神々の体系だ。


 けれど、この寺に安置された金色の仏像と対峙したときの彼女は、私の想像以上に静かだった。


 母は特に大きな一体の仏像の前に立ち、深く首を垂れて長い間見つめていた。


「この神は」


 彼女はようやく口を開いた。その声は深く低い。


「何を護ってくださるのだ?」


 私は少し考えてから答えた。


「生きとし生けるものの苦しみを取り除き、平穏を護ってくださるのだそうです」


 母はしばらく沈黙を守っていたが、やがてほんの少しだけ体を折り、実に軽やかな、敬意のこもった一礼をした。


「どの世界の神も……きっと同じ役割を果たしておられるのだな」


 彼女はぽつりと呟いた。


 私はすぐに返す言葉を見つけられず、ただ彼女の隣に静かに立ち尽くしていた。


 香炉から立ち昇る一本の細い煙が、私たちの間をそっと擦り抜け、山頂の吹き抜ける風の中へと静かに溶けていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!



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