278. 叻沙城の夜
こうして私とユーナ、そして母の三人はエレベーターに乗り、案内された高層階のファミリールームへと向かった。
エレベーター内の照明は暖かな黄色で、三人と二つのスーツケースでちょうどいっぱいになるほどの小ささだった。
荷物を運んでくれたスタッフが一番奥に立ち、スーツケースを斜めにしてスペースを空けると、「少々お待ちください」と小声で言った。
私は顔を上げ、エレベーターの内壁に嵌め込まれた鏡に目をやった。
鏡に映る三人。
プラチナブロンドの長い髪に碧い瞳、淡い色の木綿のワンピースを着た、どう見ても十二、三歳にしか見えない少女。
金髪金眼で、背丈以上の圧倒的な品格を漂わせる貴族夫人、今はエレベーターの階数表示を真面目な顔で研究している。
そしてピンクの長い髪をなびかせ、手にした扇子をゆったり扇ぎながら、どこか怠そうに二人を横目で見やっている少女。その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
こうして並んで立っているのを見ると、なんとも奇妙な組み合わせだった。
前世が社畜だった者、異世界のS級冒険者、そして紅龍国で転生した地球の前世を持つ者。
「どうしたの? なにニヤニヤしてるのよ」
ユーナが私の口元のゆるみに気づき、声をかけてきた。
「なんでもないよ」私は首を振った。「ただ、今日はなんだかいい日だなと思って」
「一日中まずいものばかり食べてたのに、どこがいい日なのよ」ユーナがすかさずツッコむ。
「明日、美味しいもので仕返しすればいいじゃない」
ユーナは少し考え、一理あると思ったのか頷いた。
エレベーターが目的の階で止まり、扉がゆっくりと開いた。
廊下には深い茶色の木目調カーペットが敷かれ、暖かな照明のもと、かすかに淡い木の香りが漂っていた。
おそらくホテルで使っているアロマの香りだろう。
部屋の扉を開けた瞬間、ひんやりとした冷気が顔に押し寄せてきた。
あらかじめエアコンが点けられ、室内に冷気が行き渡っていたのだ。
肌にまとわりついていたあの湿った熱気が、一気に吹き飛んでいくのを感じた。
部屋は思っていたよりも少し広かった。
大きなベッドがひとつ、床から天井まで届く大きな窓に沿って置かれており、カーテンは閉められていたが、布地の隙間から夜景が見えた。
反対側には一人用の小さなベッドが置かれており、二枚の毛布がきれいに折りたたんで整えられていた。
ドレッサーの上には、フロントの言っていた通り虫除けシールが置かれていた。
その隣には、きれいに包装されたフルーツキャンディが小皿に一盛り用意されている。
母は手荷物の小さな鞄をベッドの縁に置くと、窓のそばへ歩み寄り、カーテンをすっと開けた。
窓の外には、叻沙城の夜景が広がっていた。
ぼんやりとした山のシルエット、点々と灯る光の輪、そして遠くで静かに瞬くネオン。
木棉城ほどのきらびやかさはないが、山あいの街特有の静けさと落ち着いた情緒があった。
「明日……」母がぽつりと呟いた。指先が窓ガラスにそっと触れる。「山を見に行ってもいいか?」
「ええ、もちろん。私たちがここへ来たのは、そのためですから」
彼女はそれ以上何も言わず、ただ満ち足りたように「うん」と小さく頷いた。
荷物が届いたあと、私たち三人は短くも厳かな儀式を行い、お風呂の順番を決めた。
ジャンケンに勝った母が、最初に入ることになった。
私とユーナはベッドに腰掛け、今日買ったお菓子を収納の腕輪から取り出して真ん中に広げると、のんびりとガイドブックをめくりながら明日の予定を話し合った。
「まず、どこへ行く?」
ユーナがグミを一粒口に放り込み、ページをめくりながら尋ねた。
「山を眺めて、夜市を歩いて、地元の美味しい米粉のお店を探す。今日の悔しさを晴らすんだ」
「もし、またハズレだったら?」
「そしたら、もう一軒探すまでさ」
ユーナはグミをもぐもぐと噛みながら頷いた。「よし、決まりね」
窓の外では、叻沙城の夏の夜が相変わらず温かく湿った風を運んでいた。
ヤシの葉が夜風の中でゆったりと揺れていた。
翌朝。
私とユーナは、重い目をこすりながらベッドから起き上がった。
叻沙城の夜は、想像以上に寝苦しかった。
天井のシーリングファンは一晩中真面目に回り続けてくれたが、この圧倒的な湿度の前ではほぼ無力だった。
送られてくるのは涼しい風などではなく、熱気を部屋中にまんべんなくかき混ぜて顔に吹き返してくるだけだったのだ。
エアコンの温度設定は最初から最低になっていた。
しかし建物の断熱性能が心もとなかったせいか、室内はかろうじて冷やされているものの、窓の隙間から侵入してくる熱気とのいたちごっこがずっと続いていた。
寝返りを打ち、ユーナの方を見た。
彼女のピンクの長い髪が枕の上に散らばり、頬や首筋に張り付いていた。
汗でわずかに湿った髪の合間から覗く目はうっすらと開かれ、長い熱帯夜の悪夢からようやく這い出してきたかのような鬱々しさを帯びていた。
「おはよ……」
彼女が口を開いた。声がかすれている。
「暑くて死にそう……」
「おはよう」
私は起き上がり、自分の頬を二度パチんと叩いて目を覚ました。
「昨夜はよく眠れた?」
「全然」ユーナは枕に顔を押し付け、くぐもった声で言った。
「夢を見たわ。自分が太陽の下でカラカラの干物になってる夢」
「……あながち間違ってない表現だね」
そのとき、反対側の小さなベッドから母も起き上がってきた。
淡い紫色の綿のキャミソール姿の寝間着を着ていた。
蒸し暑い夜のせいで服はかなりの汗を吸っており、背中や肩紐あたりの布地が濃い色に変わっていた。
彼女もまた、ぐっすり眠れなかった証拠だった。
母は起き上がると金髪を片側に寄せ、額をベッドのヘッドボードに預けて手で胸元を扇ぐようにした。
その顔には、普段の冷静さを保ちつつも、どこか苦々しい色が混ざっていた。
「暑いな、クローディア」
「ええ、母上、おはようございます」
私は彼女を見つめ、それから全力で稼働しているエアコンを見上げた。
「本当に暑いですね。どうしても耐えられないようなら、今夜は持続性の氷属性魔法を部屋に展開しておきますよ」
母の目がパッと輝いた。
だが、すぐに少し心配そうな色を浮かべた。
「魔力は持つのか? 持続魔法となると、一瞬で終わる魔法とは違うのだろう……」
私は首を振ってその懸念を打ち消した。
「大丈夫です。収納の腕輪にはまだ魔力ポーションが十数本ありますから、冷房用の氷魔法くらい、いくつ重ねても余裕ですよ」
そこまで言って、私は一呼吸置いた。
「それに、部屋全体を冷凍庫にしようというわけではありません。部屋の主要な放熱ポイントに氷属性の付与を施して、熱の放出を早めるんです。直接冷やすよりずっと効率的で、魔法も長持ちしますから」
「それなら安心だな」
納得した母はそれ以上追及せず、立ち上がって洗面所へと向かった。
歩み去る背筋はピンと伸びており、足取りもしっかりしていた。
いくら寝苦しい夜が続こうとも、元冒険者の体幹と自尊心はそう簡単には揺らがないらしい。
その背中を見送りながら、私は思わず心の中で思った。
今生でこの人の娘になれたのは、きっとすごく幸せなことなのだと。
ユーナは枕を顔からどかすと、首を傾げてどこか恨めしそうな視線を向けてきた。
「なにその優しい目」彼女が言う。「私にも少し分けてよ」
「優しい目と、氷魔法、どっちを分けてほしいの?」
「……両方」
簡単に洗顔と歯磨きを済ませ、私たち三人はホテルのレストランで朝食をとった。
朝食はビュッフェ形式で、会場の片側に大きなトレーが幾つも並んでいた。
炒め米粉、豆腐の煮込み、お粥、ゆで卵、食パン、そしてマンゴー、ドラゴンフルーツ、パイナップルといったトロピカルフルーツ。
取り立てて豪華というわけではないが、どれも出来立てで温かな湯気を立てていた。
飛び抜けて珍しい料理があるわけではない、至って普通の朝食だ。
しかし、あの炒め米粉の味付けは実に絶妙だった。
ネギと生姜、ニンニクの香りがしっかりと染み込んでいて、ひとくち食べれば、昨夜の駅で食べたキノコスープの米粉とは比べものにならないほど美味しかった。
母も大きめの一匙を口に運ぶと、みるみる表情が和らいでいった。
このとき、私たちはまだ知る由もなかった。
この朝食こそが、今日一日で口にする食べ物の中で、もっとも美味しいものになるということを。
もちろん、それはもう少し後の話である。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




